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20090116

復讐するは我にあり


神仏の存在しない共同体は無い。無いと言い切ると語弊があるかもしれない。
結果的に神仏の存在が後退した社会が形成されることはあるだろうし(西欧市民社会がその例)、この先、神仏、自然崇拝の無い共同体が発見されることが絶対に無いとも言い切れない。
しかし西欧市民社会にしても、それが形成される前段階では宗教の基盤を抜きにしては成立しなかっただろうし、どのような未開社会でも、現実社会に存在する人間以外の存在を超越者として崇拝する行動はこれまでのところは見られたのだから、次のような命題を導き出してもさほどは乱暴ではなかろうと思う。
つまり、神とは共同体であり、共同体とは神である、と。

人が集まるところには調整が必要であり、調整するためには決まりが必要であり、決まりには決める人が必要であり、決める人には決める人が正統であるとする保証が必要である。
神とは法源であり、法源の代行者を正統であるとする保証者である。法は共同体において必要であるのだから、腕力による支配以上の理由が求められるようになった人間社会においては、共同体には必ず神が伴うのである。
で、あればこそ、ギリシア諸都市の王たちは自らの正統性をゼウスの子孫であるという一点において証明しようとし、それがためにゼウスはあれほど多情でなければならなかった。
ゼウスの多情の結果、ゼウスの子孫がばらまかれたのではなく、ゼウスの子孫であることを保証せんがためにゼウスは「結果として」多情であらねばならなかったのである。
王は決まりを決める人であらねばならなかったから。
しかし地中海世界においては、ギリシア系ポリスにおいても、フェニキア系ポリスにおいても、そしてローマにおいても、王政から寡頭共和政治への移行が見られる。ローマの場合は特に、王政においても世襲制ではなかった。
それは神とは共同体であるという原理がより徹底された結果である。
決まりを決める人が複数の合議に基盤を置いてなされた時、神の血統は必ずしも必要ではない。共同体が神そのものであるからだ。
従って共同体そのものの神性の表現として、共同体の表徴としての神が否定されたわけではない。
共和政の時代においても、アテネでもローマでも祭祀がおろそかにされたわけではなく、共同体の保証者としての神は健在であった。
その神さえも不要になるほど、神=共同体の意識が徹底された姿が西欧市民社会と捉えることが出来る。
神は死んだのではない。国家がある限り、神は死なない。

神の裁きとは共同体の裁きである。
イスラム法とは神の裁きであり、同時に世俗の裁きである。律法がそうであったように。
しかし原始キリスト教は特殊だった。
キリスト教の神は国家の神ではなく、支配者の神ではなかった。啓典宗教の中でも特にキリスト教に顕著なのは、その「反国家性」である。
啓典宗教においては、キリスト教のみが純宗教的である。
それは帝政ローマの統治の下、マイノリティの宗教として成立したことと、無関係ではない。
ローマカトリックが体制となった時、一般信徒に教典である聖書を読むことを禁じた。キリスト教が本来的に支配者の宗教ではなく、「奴隷の宗教」であり、カルバンやルターがそうであったように、原理的であれば反体制になってゆく反国家性を持っているからである。
ローマ人への手紙の中に「復讐するは我にあり」という言葉がある。
これは、我とは神のことであり、復讐は神の専権事項であるという宣言である。
この言葉が律法的であるならば、共同体の裁きが神の裁きであるのだから、共同体と神の乖離は無い。しかしローマ人への手紙はパウロ書簡のひとつとされ、もちろん新約聖書に収められている。
この神は、キリスト者たちが実際に生きるローマ帝国の国家神ではないのだ。まさしくパウロの恐るべきイデオローグぶり、彼によってキリスト教は作られたのである。

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20090113

ロウソクデモを煽るのは誰か


中小企業診断士の三橋貴明氏が氏のブログで以下のようなことをおっしゃっている。
>>
昨日のコメントで妙な事を書いている方がいらっしゃいましたが、わたしは「公序良俗違反」「個人情報保護法違反」「ブラクラ」などの疑いがあるコメント以外は、一切、消しません。一度、中々開かないWebのURLだけを書き込まれた方がいて、ブラクラと勘違いして消しちゃいましたが。
 別に三橋の著作を批判するコメントを書き込まれても、一向に構いませんよ。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/22863768.html
<<
>>
一般大衆が感情論に走りやすいのは、日本も含めた世界中の国でも同じでしょうが、それでもそれぞれの国には「感情的世論」に踊らされない人々が必ず存在します。日本の場合は国民の知識水準が平均化されていることもあり、一般国民の一部の人々ですが、欧米の場合はずばり「エリート」です。
 それが韓国の場合は、漢字廃止のおかげで、エリートまで含めた国民全員揃って「抽象的な世界」を失っているように思えてならないわけです。(注:ここで言う「抽象的」は、曖昧という意味ではありませんので、ご注意を。)
http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/22913755.html
<<
しかし三橋氏は国籍法改正反対を明言し、その運動を支援する姿勢を見せておきながら、異論を示したこのブログからのトラックバックを削除している。
http://log1989.web.fc2.com/2008/20081117.html
意見はひとそれぞれで、なおかつ、異論を排除するのはそれぞれのブログオーナーの裁量のうちだとしても、少なくとも、排除をしておいて自分は排除はしないとみえをきるのは通らない。
いかにも自分は公平のような顔をして、実態はそれとは違うとなればこれは虚偽である。
国籍法改正についてはそれがごく当然の動きであり、なおかつ、危険性はほとんどないことは既に多くの人たちが説明を行っている。
反対派の主張は、誇張、虚偽、実態を踏まえない無知に基づいたものであり、はてなブックマークの国籍法タグを検索し、その主要な記事を読めば分かるはずだ。
国籍法改正については、事実を踏まえていない粗雑な妄想を展開しているのは反対派であり、三橋氏はそれに加担をしているのだ。
その人が隣国の「感情的世論」を揶揄するなど、悪いジョークとしか思いようがない。
韓国について言えば、私はリンク先の記事中の三橋氏の評はもっともだと思う。
韓国はその愛国主義によって、いつもいつも道を間違っている。
それと同様の現象が日本での国籍法改正反対運動なのであって、韓国のロウソクデモを笑うのであれば、日本人が日本国内のテーマでとるべき姿勢は定まっているはずだ。
それは「愛国主義」によって事実を曲げないという姿勢である。
事実に基づかない「妄想」を愛国主義という情熱によって“Aufheben”するのは韓国の例を見るにつけ、国を滅ぼす行為というしかなく、三橋氏は国を滅ぼす側に加担しているのである。

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