log1989
index about link bbs mail


20040613

運転免許化する市民権

中世欧州における宗教改革の動機はふたつあった。
ひとつは言うまでもなく、腐敗したカトリックを離れて、原理に帰ること。もうひとつは、ローマからの独立である。
教会が定めた十分の一税は、いくらかはその国に落ちたが、かなりの部分がローマに流れた。イタリア・ルネサンスの基礎には経済的優位があるのであり、その優位は、主に地中海貿易とローマ教皇庁の富に由来していた。
中世の教会組織とは、宗教の名を借りたイタリアによる各国の富の収奪機構だったとも言えなくもない。
ローマから距離が離れた諸国において、プロテスタントの信仰が広まったのには、ナショナリズムから来るローマへの反感も寄与していたと思う。
カトリックとプロテスタントとの抗争に疲れ果てたイングランドを継承すると直ちに、エリザベス1世は国王至上法、礼拝統一法を制定しているが、「果たして王への忠誠と、教皇への忠誠は両立するのであろうか?」とふたりの君主に仕えることについて疑問を表明している。
プロテスタントが作った国、アメリカにおいて、カトリックが Popist (教皇主義者)と呼ばれ、スパイも同然の扱いを受け続けたのも、「ふたりの君主に同時に仕えることが果たして可能なのか」という疑問を抱かれたからである。
1960年のアメリカ大統領選挙で、カトリックであるジョン・F・ケネディは「教皇への忠誠とアメリカ国家への忠誠のどちらを優先するか」と繰り返し質問され、もちろんアメリカである、と何度も返答しなければならなかった。
それでも、本来民主党支持の有権者の中においてさえ、宗教を理由として、ケネディに票を投じなかった者もかなりいたと言われている。

現在の世界において、ふたりの君主に仕えている人々は増え続けている。二重国籍、と言う形で。
帰化の基準が緩い国においても、帰化までを望む移民は割合的には案外少ない。元の国籍を維持し、元の国のコミュニティを延長させながら他国で労働するというのが新移民の希望である。
元のコミュニティとつながっている出稼ぎ労働者は、労働の不足を満たすけれども、金は元の国へと送金する。本来、稼いだ土地で循環すべき金の流れが、ふっとどこかへ行ってしまうのだ。
仮に帰化したとしても、自らのエスニックアイデンティティをまったく変えることなく、同化を拒むことも今日の社会では不可能ではない。他国、あるいは国でないもの、宗教や民族に最優先の忠誠を抱きながら、先進国の市民権を生きていくうえで有利だからと取得する。
市民権の運転免許化が進んでいる。
日本においても、最近、アメリカやカナダで出産する人が増えている。アメリカやカナダは生地主義だから、そこで生まれた人間には国籍が自動的に与えられる。
成年に達した時点で国籍が選択できるのだが、国籍がそのように選択できるものとして扱われ、子供にそのようなチャンスを与えたいと望む親は既に日本国家への帰属心を相当に揺るがせているのである。
このことがさほど奇異に感じられないことそのものが、国家というものが絶対的なアイデンティティの拠り所とみなされなくなりつつある、グローバリズムの傾向を示している。
成年に達するまで、例えば日米両国の二重国籍者である人は、日本とアメリカのいずれにアイデンティティを置くのだろうか。実際にはそのどちらにも置かないのである。そのような選択可能な資格のように国籍を扱っている時点で、アイデンティティを託すに足るものではないからである。
敢えてアイデンティティを言うならば、国際社会そのものに見いだすのだろう。運転免許にアイデンティティを抱く人など、ほとんど存在しないのだから。

愛国心とは、グローバリズムに足場を持たない国際社会弱者の砦に過ぎなくなるかも知れない。強者は状況に応じて、自らの能力とキャリアのみを頼みとして、居住地、国籍、市民権を変更していくであろうし、少なくともそれほど重視しなくなるだろう。
英国の著名人はもちろん、日本やアジアの著名人がアメリカに居を構えたとしても何ら不思議がられない昨今である。ふたつの君主に仕えるものは、君主を無意味化していくのである。



| | Permalink | 2004 log


inserted by FC2 system