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20040614

変貌するアメリカ

同じところにとどまり続けるためには、走り続けなければならない。
「鏡の国のアリス」に出てくる赤の女王の言葉であり、生態的地位を維持するためには進化し続けなければならないという生物学で言うところの「赤の女王」仮説の元になった言葉でもある。
人は変わっていく。国も変わっていく。国の名前すらも変わっていくかもしれない。
オリンピックのレセプションなどで、オーストラリアの白人がアボリジニの格好をする、あるいはニュージーランドの白人がマオリの格好をすることに違和感を覚えたことがある人もいるに違いない。
アボリジニは確かにオーストラリアの部分であり、その歴史のパーツである。しかしオーストラリアの白人がアボリジニの歴史を取り込んで「詐称」することに違和感を感じないはずがない。
そこに共通するのは Terra Australia というオーストラリア地塊だけである。
オーストラリアに白人を送り出す母体となったイングランドにしても、イングランドという呼称が「アングロ族の国」という意味である以上、ゲルマン人の流入以前のこの国をイングランドと呼ぶことには抵抗がある。
ローマ風に属州ブリタニアと呼ぶべきなのだろうが、その属州以前、仮にそこをブリタニアと呼ぶにしても、ブリタニアと属州ブリタニアは文化も違えば言語も違う。
ローマ人とガリア人(ブリタニア原住民)は種族も違う。それを果たして同じ国の歴史として、ひとくくりにするのが可能であろうか。
まして「侵略者」であるイングランド人が、「侵略者」に抵抗して戦ったアーサー王を自分たちの英雄として取り込むことに、違和感、学術的な間違い、偽善を感じないでいられるものなのか。
それは、イケニ族の女王ボアディケア(ローマ侵略に抵抗したブリタニア原住民の指導者)を、ローマが自分たちの祖先として祀るのと同じくらいに奇妙なことなのである。

もちろん、こうした奇妙さは、多かれ少なかれ、歴史を経て形成された国民国家には付き物である。偽善を飲み込み、学術的な間違いを飲み込み、なおかつ国家は国民を創造して行かなければならないからだ。
かつて蝦夷と呼ばれ、朝廷から蛮人視された東北の人たちが、果たして現在、天皇家に敵意を抱いているだろうか。そうではあるまい。
国家とは変わり続け、起源を詐称し、その時代時代に適応していくものなのである。

アメリカが独立した当時、明らかにそれは自由主義、民主主義に基盤を置くのと同等かそれ以上の意味で、宗教と財産、人種に基盤を置いていた。
今日、宗教はともかく、財産、人種に基盤を置くのは「アメリカ的ではない」と見なされるが、本来、そう見なすことの方がアメリカ的ではないのである。少なくともスタート時点における信条をアメリカ的であることの条件とするならば。
パウエル国務長官は余り人種的なことについてコメントする人物ではないが、稀に黒人であることの意味に言及することがある。
明らかに、彼の人生において黒人であることが様々な形でのしかかってきたに違いないが、しかしアメリカや世界は、彼を黒人の国務長官とは見なさない。彼が語る時、それはアメリカの国家意思と見なされるのであり、このアメリカには往々にして彼を虐げて来たに違いない白人コミュニティももちろん含まれているのである。
アラバマ州セルマ(黒人「暴動」の地)から、ずいぶんアメリカも遠いところまで来たではないか。
我々、日本人は単にアメリカ、という。
それは現在のアメリカに他ならないのだが、このアメリカはいつしかあのアメリカに変わる可能性をつねに秘めている。
ヴェルサイユ講和会議で人種平等宣言に徹底して反対したウッドロウ・ウィルソン政権の姿を今日のアメリカと見なすことが出来ないように、将来においてアメリカが、今現在、我々が想定しているようなものであり続けるという保証はない。
むしろ変わっていく方が自然ということなのだ。
現在におけるアメリカ追従政策は外交理念としてはそれなりの合理性があるかも知れない。しかし50年先、100年先を考えたならば、アメリカという名前は同じであっても、アメリカが同じところにとどまり続けると考える方がどうかしている。
外交が国家100年の計であるならば、そのようなことも当然想定されるべきなのだ。
変貌の内容については、また項を改めて書くことにする。



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