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20040825

立憲君主制考

19世紀のフランスと言えば、めまぐるしく政治体制を変えたことで知られる。
総裁政府からはじまって第1帝政、ブルボン復古王政、七月王政(オルレアン王朝)、第2共和政、第2帝政、第3共和政と変化する。
第2帝政と第3共和政の間にはパリコミューンがあったりして、非常にめまぐるしいという印象を受ける。
一方、この時期の英国を見ると、ハノーヴァー朝のもとで議会制民主主義、責任内閣制度、政党政治が発展、完成しており、柔軟かつ穏健に社会の変化に対応している。
憲法に基づいた君主政治、権力と権威の分離が安定的な社会をもたらすとする例の一つである。
第1次世界大戦の途中で、ロシア革命によって大戦からロシアが脱落したことによって、アメリカは「君主による専制政治の打倒」をスローガンとして、民主主義国家としてイデオロギー的整合性をつけて大戦に参加することが可能になった。
憲法そのものはドイツ帝国にもオーストリア・ハンガリー二重帝国にもあったのだが、君主からの政府の独立性を基準として、英国の立憲君主政治とは峻別した。
権威と権力の分化自体は、三権分立と並び、特定の個人に権力が集中しないための知恵として、今日では共和制国家においてさえ、必ずしも職能的には必要とは思われない象徴的元首としての大統領をもうけることで、権力と権威の分離を図っていることが多い。
立憲君主制度の支持者が言うように(もちろんここで言う立憲君主政治はカイザー的なものではなく、英国的な「君臨すれども統治せず」的なものを指す)その制度が権威と権力の分離を保証する手段として有効で、君主が象徴的、かつ具現化した法的正当性として存在するのであれば、その制度は国の安定に大いに貢献的であると見なすことは可能だろう。
そうした論者が好んで出す事例である、19世紀における、王を殺したフランスの混乱ぶりと、ハノーヴァー王朝の怠惰な非政治的な王のもとで期せずして成立した「君臨すれども統治せず」の原則が成立していた英国の安定ぶりを見るにつけ、少なくともそれが傾向的な事実とは言えるかも知れない。
立憲君主制の熱烈な擁護者になったつもりで更に論拠を探せば、1989年以後の東欧革命にともなうヨーロッパ旧共産諸国の社会的混乱に際して、国をまとめるよすがとして、これらの諸国の旧君主たちが一時的にではあっても期待されたこと、ブルガリアのキングプライムミニスターで書いたように旧国王であるシメオン2世が首相として「復権」しブルガリアに比較的安定をもたらしたこと、あるいはフランコ死後のスペインで王として即位し巧みな政治手腕でもって国民をまとめあげスペインを西欧民主主義社会へと復帰させたフアン・カルロス1世などを君主というシステムの成功例としてあげることが出来るだろう。
では、日本の天皇君主制はどうなのだろう。
第1次世界大戦において日本は日英同盟の関係から連合国の一員であったわけだが、同じ陣営に属する日本を、アメリカは「専制君主政治」ではあるが致し方ない瑕疵とみなしたのか、それともプロイセン的な専制政治とは違った政治体制であると見なしていたのか。
昭和5年に政友会が、浜口雄幸内閣を攻撃するためにロジックとして利用した統帥権干犯問題は、司馬遼太郎の言うところの「異胎」となって、その後の統治原理を著しく震撼させることになった。
これを大日本帝国の法制度上の不備ということは出来るだろうが、そうした不備を乗り越えていく力が立憲君主制度には(君主主権の国家においては)なかったとも言えるかと思う。
英国のオズワルド・モズレー率いる英国ファシスト党が政権を握るに到らなかったのは、社会を中庸化する立憲君主制度の機能のひとつゆえと見なすことが可能かもしれないが、ファシスト党政府が成立したイタリアにおいても、国王は存在していたのである。
民意を反映させる機能が充分でないか、あるいは民意を利用して国家体制そのものにある党派が反逆を企てる場合、正当性の承認機関である君主を取り込むことが出来れば、そうした簒奪が容易になるという側面も考慮してみる必要がある。
もちろん、ワイマール共和国においてさえ、ナチスの台頭は可能だったわけで、こうした問題が、共和国になれば心配無用になるわけではない。
立憲君主制が安定化をもたらしやすいという傾向的事実は別に、個別の状況、経緯を考えてみる必要があるわけで、立憲君主制にそれに伴うマイナスがあるのであれば、それを軽減する方策を考えてみるのも無意味ではあるまい。



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