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20040901

信教の自由の限界

フランス人記者2名がイラク国内で武装勢力に拘束された事件について、フランス国内におけるイスラム勢力は、犯人たちに対して批判的であるようだ(こちら)。
ライシテ(政教分離の原則)に厳格なフランスの姿勢に、イスラム教側は基本的には異議申し立てを行ってきたと言えると思うのだが、今回、こうした形でテロによって、フランスのライシテを変えようとする試みは、少なくともフランス国内のイスラム教徒の大半からは受け入れられていない。
信教の自由は、フランクリン・ルーズヴェルトが自由の基本をなす「4つの自由」の中でも言及しているほど、民主主義社会においては欠くべからざる自由と考えられているのだが、この宗教の自由は、宗教からの自由とすべきではないか。
私が宗教的な人間ではないがために、宗教そのものに対する見方がネガティヴなものになりやすい傾向があるからこういう考えが生じているのかも知れないが、フランス政府が行っているライシテ政策は、公共の場面と、個人の信仰を厳密に分けるということであって、公に対する宗教の影響力を極力排除する、結果として宗教は個人的なものとなって、例えば性生活がそうであるように、公権力の干渉を受けない(受ける必要がない)がゆえの自由を獲得するという考えであるように思われる。
しかし、信教の自由がもし、単に政府から干渉を受けない自由を意味するのだとしたら、政府にそもそも宗教を排除する権能がないはずだ、という考えも生まれてくる。
2002年6月、サンフランシスコの連邦控訴裁判所で、公立学校の朝礼で星条旗に忠誠を誓う際に唱えられる“one nation under God”という言葉が憲法修正第1条の政教分離の原則に反するということで違憲判決がくだった。
この判決に対するアメリカ国民の反応は概ね「馬鹿げた判決」というものであり、ABCなどが行った世論調査で、89%の国民が同フレーズを残すべきであると返答している。
しかしあくまで法理的に考えれば、無神論者や悪魔信仰の人たちの信教の自由(あるいは信教しない自由)を侵害しているおそれは充分にあるわけで、「馬鹿げた判決」とする人たちの根拠はただ単に、自分たちが多数派であるという以上のものはない。
そうした懸念に法理的に応えようとした結果、フランスのライシテ政策はあるわけで、フランスは法理により強い重要性を見いだし、アメリカ(の大半の国民)は自らの常識を基盤に考えているわけである。
もちろん、法というものは抽象化された常識であるという前提にたてば、常識を離れたところに法は確固として存在できないわけで、アメリカ人の思考態度もそれほど非難すべきことではないのかも知れない。
しかしもしそれを法理的に証明しようとなると、常識を証明するのは難しいのだから、あくまで整合性を重視すればアメリカ人は「おかしい」ということになる。
常識ということで言えば、ライシテはむしろフランス人の常識に沿ったところから出ているのであり、イスラム教徒からの異議申し立ては別として、常識的にそれは支持されているとは言える。
アメリカとフランスの違いは、旧来の思想、秩序を打ち壊す形で大革命を経験した国と、自らの土塊の中から生じた信仰と理念を守るために独立戦争を戦った国との違いとも言えるだろう。
フランスのライシテへの「信仰」もそうした歴史的経緯の中から生じたものであって、それがまるっきり原理的に純化されているわけではない。
イエスは現実的な権力を掌握せずに死んだわけだから、キリスト教の宗教原理としての法は、あるようでない。教会法はあくまで人が定めた法であって、神が定めた法ではない。
宗教原理としての法がキリスト教にあるとすれば、イエスが偶像崇拝を排除したことから、偶像崇拝へのタブーがそれにあたるだろうが、これとても相当緩やかで、カトリック教会を彩る装飾・オブジェ、そもそも十字架そのものが偶像崇拝ではないとどうして言えようか。
このあたりはプロテスタントの方がよほど厳格である。
しかしそれとても、せいぜいが気分的なものであって、戒律と言えるほどの戒律がキリスト教にはない。人々の日常生活を縛る宗教的な法体系が欠如している。
政教分離と言っても、キリスト教が戒律的には非常に緩い宗教であるからこそ可能だったとも言え、政治なことがらまで規定しているような宗教の場合、政教分離はそのまま(自分たちの)信教の自由の否定となってしまうのである。
頭髪を含めて、表面を女性は覆い隠さなければならないという規定が宗教的な原理に組み入れられている場合(イスラムはまさしくそうである)、それを守らないということは地獄に行くということを意味するのであって、ライシテがどうであろうとここで妥協の余地は生じないのである。
信教の自由はつきつめれば近代国家とは相容れないのであり、ここのハードルが非常に高いことが、イスラム教国の近世以後の停滞のそもそもの原因であると私は考えている。
しかしそうした原理的矛盾を乗り越えて、フランスのイスラム教徒は今回、テロリストを断固として拒否する立場を表明したわけで(これは宗教原理的には「誤った」態度である)、イスラムの連帯が、過激派テロリストが夢見るほど求められていないことのひとつの表れではないだろうか。
イラクの過激派テロリストも、フランスのイスラム教徒も同じイスラム教徒ではある。
しかし一方はイラク人であり、もう一方はフランス人である。フランス国内におけるキリスト教vsイスラム教という視点で見れば、確かにイスラム系フランス人はイスラム的ではあるが、そのイスラムは既に相当にフランス化されたイスラムとなっているのではないだろうか。



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