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20040910

英米の絆

今、不祥事にゆれるNHKであるが、過去にいい仕事を幾つもなしているだけに、NHKなんてなくしてしまえ、とか、いっそ国営放送にしてしまえなどとは言いたくない。
しかし島桂次氏といい、現在の海老沢会長といい、NHKに抜きがたくある保身の総体としての官僚主義と隠蔽体質について、自浄能力がないとみなされれば、そういう声も強まっていくだろう。
NHKには謙虚に、受信料負担者の怒りを受け止めて貰いたい。
NHKの過去の仕事のうちで、これはまったく好みであるが、私が一番好きでなおかつ評価するのは「映像の世紀 20世紀」である。
あれについては多数の方が見られただろうし、見れば非常に優れた歴史ドキュメントであるのは明らかなのだから、ここで評価の詳細は述べない。
あの作品は幾つも興味深いところがあったのだが、1940年6月4日にウィンストン・チャーチルが英国下院で行った演説の肉声を聞けたのは収穫だった。
この演説は、名文家、名演説家でも知られたチャーチルの works の中でも特に評判が高いもので、「映像の世紀 20世紀」のその回でも、あるいはチャーチルが記した「第2次大戦回顧録」でもハイライトとして扱われている。
ヨーロッパ大陸においてはマジノ線が破られ、北フランスにドイツ軍がなだれをうって攻め込み、フランス軍との連携を切られ、ベルギーに孤立した英国軍が、かろうじて英国海軍と空軍の英雄的な支援によってダンケルクから引き上げることに成功したすぐ後になされた演説である。フランスの「敗戦」は、この演説の直後であった。
こちらにその原文があるが、その終わりの部分を訳出する。

ヨーロッパの古く名高い国々が、ゲシュタポに掌握され、ナチスの愉快ならざる支配機構に組み込まれても、私たちは決してたじろぎもせず、ひれふしもしないでしょう。私たちはそれをおしまいまでやり抜くでしょう。フランスで、海で、そして大洋で私たちは戦い続けるでしょう。なおのことみなぎる確信と意志とともに、空において戦うことでしょう。
いかなる犠牲を払っても、私たちは私たちのこの島を守り抜き、海岸で戦い、敵の上陸地点で戦い、野原で戦い、市街地で戦い、丘の上に立て篭もってなお戦い抜くでしょう。
一瞬たりともそうなるとは信じませんが、仮に、この島の大部分が征服され、飢餓にさいなまれたとしても、私たちは決して降伏しないでしょう。
海を越えた私たちの帝国、英国艦隊によって武装され守護された私たちの帝国は、闘争を諦めることは決してしないでしょう。
そしていつの日か、神の定めし良き日に、新世界が大いなるそのすべての力によって、旧世界を解放し救うために、前進してくることでしょう。

英国人ならざる私でさえも胃の腑がねじれるような迫力がある文章だが、きっとこの演説は、力みなぎる調子で行われたのだろうと勝手に合点していた。しかし、実際に聞いてみると、とてつもなく陰鬱な調子で、決してハイテンションではなかった。
陰鬱だとしても無理からぬ戦況ではあったが、それはどうもチャーチルの癖であったようでもある。
チャーチルは即興的な切り返しの上手さでも定評があったが、演説に関しては彼は音楽家というよりはやはり文学者であったようで、何度も草稿を練り直し、徹底的に手を加えている。事前に充分な準備をすることなしで、思いつきで演説を行うことはあまりなかったとも言われている。
戦間期において、パシフィズムが蔓延するヨーロッパにおいて一貫してナチスの脅威を警告し続けた彼は、戦争屋と評され、自由党の没落と大蔵大臣としての失政もあって、一時的に政界から失脚してもいる。
しかし結局のところ事態が彼が言うとおりになると、チェンバレン戦時内閣において海軍大臣として復帰、そしてチェンバレン辞任後は首相として戦時内閣を率いることになった。
この演説の頃には予言者めいた風格もあったかも知れないが、全体のトーンが陰鬱であるだけに、なおのことこの演説は予言めいた感銘を聞く者に与えたかも知れない。
ダン・シモンズのSF小説「ハイペリオン」の中で、この演説が換骨奪胎されていたのには、奇妙に感心した。名演説の代表的存在として、やはり英国においては認識されているのだろうか。
それにしても、この演説の最後の一文、新世界、すなわちアメリカ合衆国への確信に満ちた信頼には目をみはらされる。
この時点でアメリカ合衆国の世論は圧倒的にヨーロッパ戦争への不介入を求める声が大勢であったし、ちょうどこの年は大統領選挙の年で、未曾有の三選に挑戦していたフランクリン・ルーズヴェルトは中立の維持を公約に掲げなければならなかったほどである。
これから1年2ヶ月後には、大西洋上でチャーチルとルーズヴェルトは会見し、実際には中立とは言えない英国への明白な肩入れ、いわゆる大西洋憲章をルーズヴェルトはチャーチルと共同で発したのだが、それでもドイツへの宣戦は国内世論の反対のため踏み切れなかった。
それが可能になったのは1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃に伴って、ドイツが律儀にアメリカに宣戦したからである。
この知らせを聞いて、チャーチルは小躍りして喜んだともいう。
チャーチルの信頼にも関わらず、1年半、アメリカの参戦はなく、英国はひとりでナチスに相対さなければならなかったと見るべきか、結果的にアメリカが英国側に立って参戦したことから、その信頼は充分に根拠があるものだったとみなすべきか。
もし、後者と見るのならば、英米の絆はなぜかくのごとき強力さがあったのだろう。
同じ言語を話し、同じく議会制民主主義を維持する両国には親和性があったとも言える。人的交流も盛んで、アメリカの富豪の金欲しさに英国貴族がアメリカの富豪令嬢と結婚する例も、その頃にはさして珍しくはない。
チャーチル自身、母親はアメリカ人である。
こうした人的なつながりだけが、英米の絆の理由だろうか。19世紀後半に英国は世界の工場としての地位をアメリカに抜かれ、更にドイツに抜かれ、やがてはソ連や日本にまで抜かれる運命であった。
明らかに英国はシャーロック・ホームズの時代においてさえ没落期を迎えようとしていた。その没落を早くから受容し、アメリカとの絆を強化していくことで英国はそれを乗り越えようとしたのではないだろうか。
個別の案件を見ていけば、アメリカは随分、英国の権益を侵食し、横っ面を張り倒すようなこともしている。パナマにおける英国の権益を無視し、インドにおいてはインド独立派の資金の相当の出所がアメリカ人から出てもいた。
英国とアメリカが市場と世界の支配権をめぐって果てしなき抗争に向かう可能性も決してなくもなかったが、結果的にはゆるやかにアメリカの台頭を英国が認め、なおかつその支配者層と経済の融合が進む中で、対立の構造を乗り越えたと言えるだろうか。
多少、断定的にいうならば、もっと詳細に見ていかないといけないけれども。
ウィンストン・チャーチルがアメリカ合衆国の支持をぎりぎりのところで信じていたとすれば、その根拠は、それまでになされた英国側の融和と融合の努力、比喩的に言えば投資の結果だろう。
アメリカについていく、アメリカが正しかろうが間違っていようがついていく、正面から権益がぶつかればアメリカとは決して争わない、そういう覚悟があり、そういう道を歴代の政権が選択してきたからこそ、アメリカとの英語国民としての融合は可能だったはずで、それは英国にとっては容易でもなく愉快な選択でもなかっただろうけれども、ともあれその困難で不愉快な道を英国は選び取ったわけで、その選択が生きるか死ぬかという瀬戸際でいきてきたのだろう。
その基本姿勢はなおも英国指導者を拘束していて、保守党と比較すれば強硬姿勢をとりたがらない労働党の政府においてさえ、維持されているのである。
イラク戦争を支持したトニー・ブレアを、マイケル・ムーアは「もっとましな男かと思っていた」と評した。
ムーアは知らないかも知れない。アメリカと対立したスエズ紛争において、英国がどのような目にあったかを。
イーデンの失敗を繰り返さないことが、英国の首相がまず第一に留意すべき戒律となった。
ブレアに他の選択肢があったかどうか分からない。仮にそうした選択肢をとったとして、ブッシュをではなく、アメリカを裏切るという行為はリスクが大きすぎると外交専門家たちからは逆に批判されたかも知れない。
ブレアはイラク戦争を支持するという大きなリスクをとったのではない。
アメリカを裏切らないという小さなリスクを選んだのである。



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