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20040911

名誉ある地位は要らない

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

憲法前文にいかほどの法的拘束力があるか知らないが、「名誉ある地位」とやらを占めようとしなければそれは憲法違反になるのだろうか。
この部分を直接起草した人が誰か分からないが、少なくともホイットニーの裁可は出ているはずで、国際主義というか、いかにもニューディーラーらしい、現在のネオコンにもつながるウィルソニズムの影響をそこに見いだすのは、それほど無理あることではないと思う。
理想主義と平和主義はつきつめれば相容れぬはずで、上記の短い文章の中にさえ矛盾が生じている。
けちをつければ(けれどもまったく正直な疑問として)、「国際社会」とは何かという問題がある。実際にはおそらくここは連合国とほぼ同義だろうと推測するけれども、この国際社会がどういう基準にのっとろうとも、何かしらの勢力を「永遠に除去しようと努めている」のであれば、排除される存在が国際社会の外側にあるわけである。
しかしそれは往々にして国家であるわけで、ある一定の基準に満たない国家を排斥する国際社会は、「限定的な国際社会」と呼ぶべきもので、それは国際社会ではない。
また、別個の国際社会も理論上はあり得るわけだし、現に幾つもの「限定的な国際社会」があったからこそ、大戦は起きたのだ。
更に、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努める」ことを志せば、それはそうした構造を維持したい立場から見れば敵対者以外の何者でもないのであり、それは戦争にいたる道に他ならない。
平和というが、もしこれが単に武力的な闘争がない状態を意味するのであれば、奴隷の平和もまた平和である。
ナポレオンに対してスペイン民衆が立ち上がらなければスペインは平和であったろうし、日本軍の「進出」に抵抗しなければ中国大陸も平和だったろう。
いや、それは平和ではない、平和とは実質的安寧を意味するというのであれば、それを獲得するためには武力闘争や介入戦争が時として発生するのはやむを得ないことであり、むしろ積極的に奨励されるべきことではないか。
朝日新聞の論調がつねづねおかしいと思うのは、私の場合まさしくこの部分であって、独裁や人権の蹂躙を先進国に対してはあれほど非難するのに対して、議会制民主主義国家でもない、正真正銘の人権蹂躙国家に対しては矛先がにぶるところである。
もし彼らが自分たちが言うほどに基本的人権を絶対視するならば、人権の十字軍をそうした暗い場所に送り込み、聖戦をとなえるのが筋の通った主張というものである。
ある意味、ネオコンが表向きかかげたスタンスというのはまさしくこれであって、ネオコンのやることに反対するというのは一体どういう了見だろう。
私は生来酷薄な人間なので、日本人の人権には関心も責任も感じるが、他国人のそれにまでは手が回りかねるし、まったく責任を感じない。それは彼ら自身の責任である。
ボランティアで他国の戦地に赴く人たちには個人的に敬意は感じるが、「そうしなければならない」義務を負っているとはまったく考えない。
日本国民でもなく、日本に納税しているわけでもない人たちのために日本政府が責任を負うというのは、あってはならないことであり、日本政府はただ、日本国民のためにのみ存在しているのである。
もちろん、それが結果的に日本国民の利益につながるからそういう政策を採るということはあるだろうが、日本国民の利益を離れて、ただ単に理念のためにそれをなすとすれば、それは納税者に対する背任だと私は考える。
イラクやチェチェンで起きている不幸、特に子供たちが晒されている不幸には個人としては胸を痛めなくもないが、彼らを救出する責任は本来、彼らの親、共同体、政府にあるのであって、いかに国際社会なるあやふやな権威を通過しようとも日本政府、日本人にはない。
もしそれがあると言うならば、私たち日本人がイラク人の将来について何らかの責務を負っているという人がいるのであれば、当然、イラク人も私たちに対して同じような責務を負う、もしくは負っていたはずであり、その前提からそうした人たちに尋ねてみたい。
世界のほとんどの有色人種国家が欧米の植民地となり、日本がその過酷な世界で生き延びようとした時に、いったい彼らが何をしてくれたのか。
戦後の焼け野原で食うものもなくひもじい思いをしていた時に、いったい彼らは何をしてくれたのか。
復興を遂げ、経済大国と呼ばれ、欧米による厳しいジャパンバッシングに晒された時、いったい彼らが何をしてくれたのか。
もちろん、これは日本政府による諸々の人道援助を否定するものではない。それを否定しないのは、それが日本政府の義務だからではなく、それをしなければ日本の評判が悪くなって国益に反すると思うからである。

極東ブログさんにはいつも教えられることが多いが、リンク先の記事では、朝日新聞の社説の矛盾を指摘されながら、モーリタニアの奴隷制について、

こうしたアラブ系の社会に朝日新聞は「アラブの民主化を唱えても、相手を理解する心がなければ進まない。それが現実である」というのだろうか。
 大きな間違いだ。相手が理解しようがしまいが、断固として民主化を推進しなくてはいけないことがある。その行為が、ときにはどれほどか暴力的に見え、非難されるとしても。

と述べられている。
朝日新聞の立場は、「相手の理解を得た上で民主化を進めなければならない」とするものであり、極東ブログさんの立場は「相手に理解が得られずとも民主化を進めなければならない」というものであるように読み取った。
私の立場は「別に民主化をすすめずともよい、それは私たちの仕事ではない」とする立場である。
イスラムがテロリズムとの関連で語られる中、本当のイスラムはそういうものではないという意見がむしろ主流である。
そうしたことをおっしゃる方は、イスラム=テロと短絡的に結びつける危険性を指摘されることが多いが、私は余りそのように短絡的に結びつけた言説を読んだことがない。
宗教のフォルトライン上で、特に目立つのがイスラム教徒と他宗教の人たちの争いであるという事実をハンチントンが指摘したことを批判する論調は結構みかけるのだが、なるほどハンチントンそのとおりだ、というのは余り見かけない(私は「なるほど」派である)。
イスラム教徒が宗教のフォルトライン上での紛争に多く関わっている(あるいは巻き込まれている)のは目立った事実であり、それが宗教の教義に根ざすのか、彼らの生活習慣に根ざすのか(国によって随分違うけれども)、あるいは異文化・異なった法概念を受容する能力の問題に根ざすのかは断定はしたくないし出来ないけれども、イスラム=テロリスト論の裏返しとしてのイスラム善玉論には与することは出来ない。
イスラム社会には(特にアラブには)、基本的人権の基準から考えるとにわかには頷けない諸々の事柄(モーリタニアの奴隷制度もそのひとつ)があるのも否定し切れない事実だからである。
そういう意味では、もし基本的人権を侵しがたい価値と認める立場に立つならば、極東ブログさんがおっしゃるとおり、イスラムの(少なくともある種のイスラムの)そうした風土を文化相対主義で放置するのは間違いかも知れない。
しかし極東ブログさんも引用されているが、サイードのモーリタニア日記の中で記されているように、そうした奴隷的環境にむしろ当の黒人たちが安住しているように見えるということもある。
彼らの運命を決める、あるいは切り開くのは彼ら自身であって、もし強い表現を使うならば、それは彼ら自身の責務であると私は考える。決して私の責務ではない。私の祖国である日本国の責務でもない。
私が基本的人権を支持するのは、それが日本国民が安寧に暮らす可能性を拡大することを法的に保証すると考えるからであり、目的は、日本国民が安寧に暮らすことそのものである。
それは日本国家の目的であるとも考えている。この目的に適うならば、国際社会における名誉ある地位とやらを占めるのもよろしかろう。
そうでないならば、少なくとも私は日本が名誉ある地位とやらを占めるのは望まない。



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