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20040922

被害と加害の錯綜

ポーランド議会がドイツに対して、350億ドルにのぼる戦災賠償を請求という話を聞いて、ポーランドは何を考えているのかと暗澹たる気分になったが、asahi.com のコラム「欧州どまんなか」を読むと、なるほど、ポーランド側にもそれなりの言い分があるようである。
今日はビスマルクによって、ドイツが失ったものについて書こうかと思ったが、ちょうどつながってくる話なので、主題をこのニュースに譲りたい。
歴史上、ドイツの領土が最大化したのは1942年、ナチスのもとで大ドイツ国が国境を画定した時のことであって、オーストリア、チェコ、ポーランド西部、そして東端はケーニヒスベルクに達している。
これをドイツの侵略の結果とみなすのは、もちろん不当ではないが、この地域が歴史的に「ドイツ圏」の部分をなすことがあったのもまた事実であって、いわば、ドイツと非ドイツの境界上にあったグレイゾーンをことごとくドイツ化した結果、この大ドイツが生じたとも言える。
神聖ローマ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国を「ドイツ圏」とみなすことが可能であれば、ドイツは更に中欧諸国や北イタリア、ベネルクス諸国に対しても領土的野心を持つことが少なくとも歴史的・論理的には可能だったわけで、それよりは小さい範囲に大ドイツ圏が留まっていたことから、ヒトラーの野心(東方への生存圏の拡大は別にして)は案外小さいものだったとも言える。
ドイツとは何かということをそもそも考えると、本来のドイツが東フランク王国に由来するとしたならば、ほぼそれは旧西ドイツ(東西分裂期における西ドイツ)に限定的に範囲を定めることが出来るかと思う。
もちろんここでの「本来」とは、例えば日本の本来の領地を近畿地方に限定したり、アメリカの本来の領地を独立13州に限定するのと同じニュアンスであって、そこから拡散しているからといって非難する意図はない。
ドイツ圏を代表する二大首都、ウィーンとベルリンは現在でこそドイツ圏の中心だが、この地域がもともと両方とも辺境伯領として発展してきたことからも明らかなように、中央に対する辺境であって、植民運動の前線として、中央からある程度独立した権限を付された結果、「辺境の中心」として発展してきたものだった。
もし「本来のドイツ」に拘るのであれば、そういう意味ではベルリンやウィーンでさえ、本来のドイツではない。
数世紀にわたるドイツの東方植民を歴史的な事実として是とし、ベルリンやウィーンをドイツの中心もしくは部分と見なすのであれば、ダンツィヒ(グダニスク)やケーニヒスベルク(カリーニングラード)、ズデーテンラントをドイツと見なすのは必ずしもまったく不当とはいえない。
第二次世界大戦の敗北で、東欧から追放されたドイツ系の人たち、ジューコフ元帥ひきいるソ連軍によって殺され、レイプされた人たちは、満州移民団とは違って、数世紀にわたりそこで生まれ、そこを人がましい地に造り変え、そこで生活してきた人たちなのである。
彼らの立場に立つならば、先祖伝来の土地家屋を奪い、追い立てたソ連軍やポーランド人こそが加害者であって、それが国家間の戦争の結果とは言え、あくまで個人的な被害・加害の観点で見るならば、それもまたまるっきり不当とは言い難い。
ソ連が崩壊した頃、地名が次々に旧名に復す中、カリーニングラードも旧名のケーニヒスベルクに戻そうかという動きもあったようだが、ケーニヒスベルクのかつての多数を占めていたドイツ系住民がもはやいない以上、ここについばそうするだけの必然がないわけで(下手したらロシアの領有権にまでかかわってくるので)、ここはカリーニングラードのままである。

今回、ポーランド議会が、既に二度にわたって賠償請求を放棄しているにも関わらず、改めて請求する姿勢を見せているのは、かつての「東方ドイツ」系の住民たちが失われた財産について個人補償を求める動きを見せていることに対する対抗というニュアンスが強いようである。
戦争と歴史の結果生じた被害について個人補償を推進しようとしている人たちは、それが何を意味するのかよく考えて欲しいと思う。
それは哀れな被害者を救済することのみを意味するのではない。正義の実現の名における法をもちいた復讐と報復の連鎖をも意味しかねないのだ。
歴史は善と悪によって織り成されているのではなく、善は悪でもあり、悪は善でもある。被害者と加害者は容易に立場を入れ替え得る。その錯綜が織り成すタペストリーが歴史であり、その結果としての私たちの今の社会だとすれば、いくら醜い色であっても織り成す糸を抜き去れば、タペストリーはくずれてしまうだろう。



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