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20041011

権威と亡命政府

「必要なのは名前なんだ!誰でも知っていると言うような名前が!」
フランス臨時政府の核となる人物をロンドンに亡命させるべく、スピアーズを使いとしてフランスに送っていたところ、スピアーズが連れてきたのが無名のド・ゴールだったので、チャーチルはそう怒鳴ったという。
チャーチルの自著、「第2次大戦回顧録」ではそんなことは一切触れていないけれども。
レイモン・カルチェの「実録第二次世界大戦」に書いてあった話だったと記憶しているが、当初、チャーチルがフランス亡命政府の首班として想定していたのがポール・レイノーだと言う。
レイノーは首相としてフランスを率いていたが、パリ陥落を受けて内閣は崩壊、レイノーは徹底抗戦に傾いていたが、講和派のペタンが組閣し、フランスの降伏が迫っていた。
徹底交戦派のド・ゴールはペタンの手配した私服警官らに監視され、英国へ帰るスピアーズを空港に見送りに行き、スピアーズを乗せたセスナが動き始めるや否や、身を翻してそれに飛び乗ったのだという。
カルチェは、「この小さなセスナにフランスの未来がかかっていた」と実に劇的な記述をしているが、後から見れば確かにそれはそうなのだけれども、その時点でド・ゴールをフランスと見なすのはどう考えても無理がある。
ド・ゴールはこの時点では一介の准将に過ぎず、軍や政府関係者の間では知られていただろうが、国民一般的な知名度があるとは言えなかった。
ド・ゴールは最初からド・ゴールだったのではなく、彼自身の使命感と周囲の思惑が戦争を通して作り上げていった人物である。
「ド・ゴール将軍であることも楽じゃない」
と後に、ド・ゴールは漏らしたと言うが、「ド・ゴール将軍」というキャラクターの演劇性が見て取れる。この演劇性が権威につながった。戦後も敢えて中央政界から遠ざかることによってこの権威を温存することによって、アルジェリア危機というフランスを分裂させる内紛において、国家を統合できる唯一の人物としてその権威を徹底的に利用すべく、再び歴史の舞台へと乗り出していくことになる。

国家存亡の時、政府の正統性が揺れ、実態があやふやになる時、国民をまとめていく上で必要とされるのは権威である。
亡き高円宮殿下は、インタヴューに答えて、皇室が果たすかも知れない役割として、この点を指摘している。
しかし、例えば侵略によって国家が失われたとき、権威あるものが国にとどまり国民と苦楽を、特に苦を共にするべきか、あるいは国を離れて抵抗政府(亡命政府)の中核となるべきなのかは難しい選択である。
どちらを選んでも、国と国民を思う選択であるには違いないが、ペタンとド・ゴールが道を違え、あれだけ懇意の仲であり、互いに認め合っていながらも敵同士とならざるを得なかったように、このふたつの選択は、激しい対立を当人や周囲にもたらす。
女優の岸恵子さんは傑出した文章家でもいらっしゃるが、彼女のフランス人の元夫が、アルジェリアにいる従姉妹を訪問した時、その従姉妹の夫から冷遇されたエピソードをエッセイに記されている。
岸さんのフランス人の元夫はド・ゴール派で、その軍服を着て行ったのだが、その従姉妹の夫の家族はヴィシー政府支持だったらしく、その対立は一族の旧懐を越えて憎悪として表れたと言う。

第 2次世界大戦中、ベルギーがドイツに侵略された時、ベルギー国王レオポルト3世はベルギーに留まることを選択した。これはベルギーの即時停戦を意味したから、結果的にダンケルクに孤立した英国軍は重大な脅威に晒され、英国海軍と空軍、イングランド南東部の民間の船舶の英雄的な大輸送作戦によって辛くも英国軍はブリテン島へ渡ることが出来た。
そうした実害もあったから、チャーチルは下院ではっきりとレオポルト3世を裏切り者呼ばわりし、レオポルト3世の歴史的評価は、チャーチルのこの断罪に引きずられる形で悪評が定着することになった。
しかし国民とともに苦楽を分かち合いたいと君主が望むのはそれほど悪いことだろうか。
レオポルト3世はその後、ドイツ軍に幽閉され、戦況が悪化するとともに東方に連れまわされ、最終的にはオーストリアでアメリカ軍によって解放された。しかしチャーチルの評価がベルギー国内でも浸透していたからなのか、理不尽な戦争においては誰かを憎まずにはいられなかったのか、ベルギー政府は国王の帰国を拒否、しばらくレオポルト3世の処遇は宙に浮く形になった。
「仕方があるまい」ということでようやくレオポルト3世は帰国を許されたが、国民の反発があまりにも激しかったため、1951年には退位を余儀なくされた。長男のボードゥアン1世が後継している。
一方、同じく第2次大戦中、ドイツ軍に占領されたオランダでは、女王ウィルヘルミナは英国へ亡命することを選択している。ドイツ軍が迫る中、時間的な余裕がなかったせいか、着の身着のままで女王は逃避行し、ロンドンに到着したときは何も持っていない状態だったと言う。
こちらはチャーチルの思惑通り、ロンドンで亡命政府を首班することになったが、戦後、帰国した時、ド・ゴールがフランスで受けたような歓迎は受けられなかった。
「逃げ出した女王」という恨みつらみが国民にはあったのだろうか。王室への不人気に押される形で、ウィルヘルミナ女王も退位を決意し、娘のユリアナに王位を譲っている。

亡命するのもしないのもいずれにしても難しい選択ではあるようだ。



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