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20041014

君主ド・ゴール

フォーサイスの「ジャッカルの日」を読んだのは中学1年生の時で、面白かったのは面白かったのだが、ド・ゴールの名前を知ったのもその本が初めてという状態で、フランス現代史への知識がまったく欠如していたので、よく分からなかった部分も多かった。
その後、フランスによるアルジェリア支配について多少なりとも知識を増やしていく中で、背景が分かってきたが、それにしても第2次世界大戦後のフランスによるアルジェリア支配ほど、無茶苦茶な統治も珍しいと思う。
フランス人の傲慢さ、冷淡さ、徹底した自制心の弱さ、統制の欠如、そうしたものは何もフランスに限った話ではないが、敢えてフランスに厳しい言い方をすれば、フランス人の悪い面がすべて晒されたのが戦後の対アルジェリア政策ではなかったかと思う。
フランスはヴェトナムでも歴史の流れを見据えずに愚かな振る舞いをしたと思うが(ヴェトミンに対して原爆を使用するよう、アメリカに依頼もしているようだ)、ヴェトナムはまだ遠い。
フランスにとってヴェトナムが大国としての権威、利権の問題だとすれば、アルジェリアは血肉の問題だった。
100年に及ぶ入植の結果、100万人に及ぶフランス人がそこで生まれ生活をしていたし、現地人との混血も殆どなかった。
コロンと呼ばれるこうしたフランス人入植者は、アルジェリアをフランスが手放すことは断固として反対だったし、それどころかカトルー総督などの、アルジェリア人との融和を促すいかなる改革にも断固として反対していた。
フランス第3共和政はほとんどの内閣がもって1年という政府の不安定さで知られていたが、第2次世界大戦後に成立した第4共和政でもそれは同じことで、こうした難しい問題を決断し、犠牲を強いるという機能が中央政府には欠けていた。
統制の取れない中央政府、アルジェリア独立運動、絶対に譲らない覚悟のコロンたち、軍部の暴走、北アフリカに根強いヴィシー派の影響・・・。左右の対立もあったし、左右の対立だけでは割り切れない錯綜した状況もあった。
そうした中、唯一状況を救い得る存在として、むしろアルジェリア独立反対派の支持を受ける形でド・ゴールが担ぎ出されたのである。
しかしド・ゴールはかつてアルジェリア問題について特にコメントしたことがなかった。ド・ゴール擁立にかける独立反対派への淡い期待は、ド・ゴールの冷徹な眼差しを曇らせることはなかった。
態度を曖昧にしたままで、ド・ゴールは大統領に大きな権限を集中させる憲法改正を提案、これが成立してフランス第5共和国が成立し、自らはその非常大権と共にフランス共和国大統領として政治の表舞台に返り咲いた。
コロンの生活はどうなるのかという無視できない問題はあったのだが、既にフランスが国際社会から受けている非難や、フランスが既に費やし今後も肥大化するだろうと思われるコスト、人的損失を思えば、アルジェリア独立は避けられない選択だった。
「それは避けられないが、彼らはそれを理解できるほど賢くはないのだよ」
と、アルジェリア独立反対派についてド・ゴールはそう評している。
ステーテルを使って独立反対派に接触し彼らに期待を持たせておきながら、あっさりとステーテルと共に切り捨て、紆余曲折がありながらも FLN を主体としたアルジェリア独立への方向へとフランスを導いていく。

結局のところ、ド・ゴールがフランス人の大部分から支持されたのは、フランス本国の人たちにとって重要なのはフランスであって、「フランスのアルジェリア」ではなかったからである。
しかし1958年から数年間、アルジェリアの問題については政府は断固たる姿勢を示せなかったし、これを事実上の内戦状態にあったと見なす人もいる。ド・ゴールが第5共和国を基盤として築き、その権力のもとに断固とした姿勢を下した時、将軍たちの反乱は実際にあったし、その反乱を鎮圧した後も、OAS のような過激派はしばらく跋扈することになった。
ド・ゴールをもってしてもフランスの完全な一致はなし得なかったのだが、ともかくもアルジェリア問題をソフトな形で着陸させることには成功したわけで、それが政治的な技術だけでは不可能だったことは、ド・ゴール以前の政府の混迷が示していると思う。
大統領となった後でも、ド・ゴールはここぞというところではよく軍服を着用したが、当人に言わせるとこれは「私がフランス大統領であるばかりではなく、ド・ゴール将軍であることを示すためだ」ということらしい。
彼にしてみれば、ド・ゴール将軍であることがフランス大統領であることと等価か、もしくはそれを上回る権威であるということなのだろう。
実際、ある意味、君主的な権威がド・ゴールにあったか、あったとすればそれがいかに大きな作用をもたらしたかということを考えるためには、もしド・ゴールがいなければ、ということを考えてみるのが適当なように思う。
サラン将軍あたりが試みたようなアルジェリアからのフランスへの革命的反攻はかなりの確率で成功していたのではないだろうか。
ド・ゴールが口に出すまでは政府の誰もがアルジェリアの完全独立を言い出せなかったように「フランスのアルジェリア」という前提は当時のフランスにとって動かしがたいイデオロギーだったのである。
非妥協的な問題で国家が分裂し、深刻なる対立に陥った時に、それを乗り越えていく調停者としての権威が、ド・ゴールにあって、制度的にそうした役割を期待されていたフランス第4共和国のコティ大統領になかったとすれば、そうした権威が単なる制度的なものから生じるものだけでは不十分なのだと見なすことは可能だろう。
それは歴史的なものから生じるいわく言いがたい「名望」なるもの、それに由来するとすれば、政治というものを法的な問題、あるいは経済的な問題としてのみ捉えるのはあやまりだと言えるのではないだろうか。
ド・ゴールは確かに尊大であったし、フランスの国益という点ではエゴイスティックだった。
しかしそれが「ド・ゴール将軍」の名望のなす基礎的な部分であるとすればそうであることには充分に意味があった。
ド・ゴールがあの困難を乗り越えられたのは、確かに第5共和国の基盤があればこそだったが、その基盤はド・ゴール将軍という権威なくしては成立しないものだった。
そうした歴史から生じた権威というものに、政治を見る眼差しはもっと敏感であるべきなのかも知れない。



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