log1989
index about link bbs mail


20041025

その国の見方

何かの記事で以前、ハンナラ党のスポークスウーマンとして田麗玉という名を見かけて、「悲しい日本人」の著者が、今は政治家であることを知った。
旅行者は、外国の風習の違いに驚く。情報がこれだけ行き交い、関係が密接になっても、驚きそのものはあるはずだ。欧米でさえ、そうした「驚愕」はあるはずだし、中東やアフリカであればなおさらだ。
外国に滞在する長さで言えば、中期滞在者の眼差しが、その国に対してもっとも辛辣になりやすい。出会うものすべて、起きることすべてがアブノーマルで、なんでだろう、なんでだろうと考えて、大抵はネガティヴな結論にたどり着く。
これが更に歳月を重ねると、諦観が出てくると言うか、適応が進んで、表現形として現れる文化の裏にある意味や理由が感覚的に理解出来るようになり、良し悪しも相対的に見えてくる。その国について悪口を言われるとその国の人以上に憤慨したりして、こうなると、帰国しても母国に違和感を感じるようになる。
人に話したり、人から聞く上で、気をつけなければならないのは、中期滞在者ほど外国に対する見方が辛辣になりやすいということだ。
なるほど分析としては理路整然としているが、複雑な要因が幾重にも絡みあう人間の行動を、単因論的に説明しがちなその分かりやすさほど、事情に通じている人からすれば胡散臭いものはないし、一面の真理を表していても一面にしか過ぎないことが多い。
例を上げれば、満員電車に耐える都市住民の忍耐心を、禅や武士道から語り起こしたりする外国人による分析のようなものだ。
大抵の事柄には二面性があり、明と暗、そのどちらを見ても「間違ってはいない」のだ。間違っていないからと言ってどちらかしか見ないのはやはりきちんと対象を捉えているとは言えない。これは対象の問題と言うよりは、受け手の問題なのだ。
高校生の時、家庭崩壊した友人がいて、なんだかろくろくものも食べていないという男がいた。
私のうちによく来て、いつまでたっても帰らないので夕飯時になればそれは飯ぐらいは出す。
ある時、つい「飯ぐらいならいつでも食いに来いよ」と言ってしまって、バカにしていると激怒されたことがあった。その飯は私が稼いだものではなく、私の親が稼いだものであって、彼と私の違いは単に、その親がしっかりしていたか否かということに由来しており、私の生活が安定していたのは私の手柄ではない、親の手柄である。
彼に言わせればそういうことになるだろうが、私としても善意から言ったことであり、そのように悪意を持って受け取られるのは心外だった。
私は傲慢であったのか、それとも善意の人であったのか。今から思えば、温情をかけることほど難しいことはないと分かるけれども、私だって人生経験のない高校生だったのだ。
ネガティヴに捉えれば私は傲慢だったということになるだろう。間違いではない。
私の行為をポジティヴに捉えれば、怒るほうがおかしいということになるだろう。間違いではない。
人と人の関係がそうであるように、国と国との関係、国民と国民の関係もそれがどうであるかというよりも、どう捉えるかということによって見方が左右される。
権威と亡命政府で提示した例で言うと、なしたことで言えば、レオポルト3世とウィルヘルミナ女王はちょうど正反対のことをしたのであるが、国民から疎まれたのはどちらも同じだった。
ひとつの行為には必ずメリットとデメリットがあり、デメリットしか見なければこういうことになる。
第1次大戦時、英国を率いた首相ロイド・ジョージは第2次大戦に至る過程においては親独的であり、その意味では盟友チャーチルとは袂をわかっていた。
しかしチャーチルとまさしく異なる立場に立つことによって、もし将来的に英国がナチスと講和を結ぶ状況に追い込まれた時、チャーチルに代わり得る存在として、その異質性を温存されたのだという話もある。
ここから敷衍して考えれば、フランスにおいてペタンがとった行動が、絶対的に非難されるべきものではないことが導き出されると思う。
何を見るのか。どちらを見るのか。それによって評価は180度も変わってくる。

最初に言及した田麗玉氏に話を戻せば、彼女が書いた「悲しい日本人」は徹底的にネガティヴな視点で描かれているけれども、間違いではない。しかしその評価がまさしくネガティヴに偏っていることから、真実でもない。
私は日本人なので、我が身を直す鏡として、そうしたネガティヴな見方はむしろ参考になるけれども、この本がそもそも韓国人向けに書かれていることを考えれば、韓国人の独善意識をくすぐるだけという効果を思えば、これは日本人にとっては有益な本だけれども、韓国人にとってはむしろ有害な本だろう。
ハンナラ党は、韓国政界にあって「現実的な諸政策」を売りにしているけれども、そのハンナラ党の有力者がこうした偏った物の見方をする人物であるということは、韓国にとっては不幸なことだろう。
徹底的にネガティヴにある国を描くことと比較すれば、まだしも弊害は少ないけれども、何がどうであれポジティヴに描くと言うのも実は同質の弊害を抱えている。
おおむかし読んだ本多勝一氏の文章で、イタリアの鉄道がちっとも運行予定表どおりに運営されていないことについて、イタリア人の余裕であると褒めていたのを記憶している。
これは私が小学生の時の国語の教科書に掲載されていたものだから本当におおむかしの話だ。
私は小学3年生か4年生くらいだったけれども、それだけで判断するのも本多氏には気の毒だけど、その時はその文章を読んで心底呆れた。
私はこの文章を読み、本多勝一氏とはあわないことを悟り、以後、彼の文章を敬いもせず遠ざけているが、余裕のある暮らしをしている国でも鉄道がきちんと運営されている国もたくさんある。
鉄道が時刻どおりに運営されていないことでイタリア人がどれだけ不便を強いられているか、どれだけの損失が発生しているか(それは当然人的損失もあるだろう)という視点がすっぽりと欠落している。
イタリアという対象をあるがままに見るのではなく、自分の中にある結論(余裕礼賛)に無理やりそれをあてはめる。
田氏や本多氏の外国理解は一言で言えば、幼い。



| | Permalink | 2004 log


inserted by FC2 system