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20050104

第2の祖国

私がよく見るブログのオーナーさんたちは、世界各国に散らばっている。
アメリカ、フランス、中国、英国、イタリア、韓国、カナダ。
日本人の活動の世界的な広がりと、ブロードバンド時代における距離感の減少を改めて感じるわけだけれども、東京に居ながらにして、こうした世界のリアルタイムの動き、そういうものに触れられるのはすごいことだなと思う。
戦後、日本の知識人のかなりが、欧米の知・流行の仲卸業のような仕事をやっていて、そういう役目が以前ほどは必要とされなくなっている。
「アメリカでは〜」「ヨーロッパでは〜」というようにそこにあるものを絶対視して、歴史的な考察も伴わず、他方を(多くは日本を)ぶったぎるような人たちを「出羽の守」というらしいが、そういうただそこに住んでいるというだけの情報運送業は、産地直送がなされるインターネット時代においては存在意義を失くしつつある。
私が読むブログのオーナーさんたちも、たまたま外国在住ということであって、外国文化と向き合うことによって思考のきっかけはあるだろうけれども、それだけでは終わらせていない、確かな知識と見識があるからこそ読むに値している。
ただ、そういうブログを読んでいて、微笑ましく思うのが、やはりその国の一般的な考え方が影響を与えているようなところ。
「あー、まったく日本ってもう!」
と、外国にいると人はとりわけ愛国者になりがちだけれども、その愛国主義が、その国のフィルターを通していると言うか、いかにも反射的に共鳴していると感じられることがある。

例えば、日本にいるとアメリカ的な宗教原理を背景とした保守主義に対する共感はほとんどない。保守の中でもそう。保守の中でもリベラルに対する親和性がある。
しかし日本人でアメリカ在住の人で得てしてそういうものに寛容である、少なくとも否定的でない人は少なくはない。それがいけないというわけではないけれども、そういう現象を見て、「ああ、第2の祖国化しているなあ」と私は感じるわけである。
私の友人、仮にケンとしておくけれども、ケンは高校の時からアメリカに行き、大学もあちらで、アメリカに多数の友人を持つという人である。リベラルな人で、かなり私とは話が合うのだけれども、カトリックとアメリカについて批判されると猛然と反論するのである。
カトリックについては彼自身カトリックなのでそうなのかしらんと思うけれども、アメリカについていえばアメリカ人でもないのになんでよ、と思うわけだ。普段はかなり公正にして公平な人なのだが、かなり論理的にきわどいアクロバットをやってまでアメリカを擁護しようとする。
彼に言わせると、友人たちが批判されているようでついそうなる、ということだけれども、お人好しと言うか、実に純情でいい奴だなと私は感じる。
彼のそういう友人として愚直なところが好きだけれども、そういう視点で日本の外交を語られると、ちょっと違うなとも思う。
異文化に触れた時、異文化には異文化なりの言い分、合理性があるもので、そういうものに触れると人はわずかなりとても変容する。それは異文化理解の重要な礎ではあるけれども、日本の外交は異文化を理解するためになされるものではない。
他国の言い分をデータとして理解するならばともかく、それに正邪の判断をつけて受け入れることが日本の外交の前提に据えられるべきではないし、まして、そうした一方的な世界観に基づいて外交戦略がたてられてはならない。
日本の外交政策は、原則のところでエゴイスティックであるべきで、それは不正義であっても、そうであるべきなのだ。
第2の祖国は要らないし、あってはならない。
外国在住者で、よほど注意深い人であっても、得てしてその国の外交的見方、理念をリピートしているだけということも起こりがちである。
これは避けがたいことなのかもしれないけれども、この「避けがたい」という拘束性をまずは自覚しなければならない。そうしたものの考え方、感じ方が文化的な要因によって左右されていないか、その考え方が日本の外交政策に反映された場合、日本の国益につながるのか。
これは論理性とはまた別の話である。
というか、そういう文化的な見解が論理的に武装されていること自体が問題なのである。
文化的な妥当性、好み、正邪の判断を越えたところで、その考えの中心点に日本の国益がしっかりと位置付けられているのかということが問われてくる。
当人たちはなかなか気づかないものだろうけれども、東京から見比べていると、フランスにいる人はいかにもフランス的な、アメリカにいる人はいかにもそれらしい発想をするという傾向は確かに感じ取られる。
もちろんその視点をずらせば、ドメスティックな発想をする人はいかにも日本的な枠にとらわれているということになるのだろうけれども、ひとつの枠から逃れることが、往々にして別の枠に入り込むことになってしまうのだとしたら、日本人はまず日本的であれ、というのもそう不合理な主張には思えない。
これは気をつけないと無批判なナショナリズム、あるいは独善的な自文化中心主義に堕してしまう可能性があるけれども、ここの主眼は第2の祖国を持ってしまっていませんか?ということであって、そちらの危険性にも意識的であって欲しいということである。
この考え方自体、日本の国益を日本外交においてまず重視するという前提が共有されていないと成り立たないのだけれども。



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