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20050117

Another を持たない日本人

父を尊敬している、ということと、尊敬する人は父です、ということは実は全然違う。
私も自分の父は尊敬している。尊敬できる人でよかったと思っている。私は自分の身内でも容赦はしないので、父も厳しい吟味に晒されるのだが、無私で生きること、人を信じて生きること、少しでもこの世の中をよくしていこうと力を尽くすこと、その勇気、そういうのは父に教えられたし、私などは父には及びもつかない。
父は私が出来が悪いことを知っていたけれども、出来が悪いなりにきっちりと愛してくれた。
父が死んで8年、私は今でも喪失感があるし、いろいろなおりに父がいてくれればと思うことがある。もう父に頼ることが許されるような子供ではないことは分かっているのだけれども、今でも心の中では父だったらどう言うだろうか、どうするだろうかと考えることがある。
私は気かんきで協調性のない性格で、今、多少はそれが緩和されているとすれば、そうなるために私も努力したし、周囲の人の助力もあった。
アナーキーに走りがちな私を父は死ぬ間際まで心配していた。父が心配していたという事実そのものが、かろうじて私を穏健な態度に踏みとどまらせている。
私は父を尊敬している。しかし、多少なりとも公の席で、あなたが尊敬する人は誰ですか、と聞かれたならばおそらく絶対に父ですとは言わないだろう。
父は無名の人だったので、当然、質問者は私の父を知らないであろうし、父と私の関係はごく個人的なものだからである。父は誰にでも優しい人だったけれども、私が特に目をかけられていたとすれば言うまでもなくそれは私が彼の息子だからである。これはまったくの私事である。
公にその問題を持ち出せば、親が子供に目をかけ、あれこれ心配するのは当たり前であって、もちろん子供からすれば、特に子供時代を過ぎ去ればそれはありがたいものであるのは間違いないのだけれども、他人にはどうだっていいことである。
面接などで、「あなたの尊敬する人は?」と聞かれて、最初に父ですという答えを聞いたとき、面接官たちにはある種の衝撃があったはずだ。それはその人にとって確実な、Real なものしか信じないと言う表明であったからだ。
公という共同幻想を排し、Real is love としての個人的なものだけを信じるという、それはひとつの思想表明だった。会社と言う幻想社会であれば、私であればその人を落とすけれども、まあ、当初は衝撃性に飲み込まれて「なるほどなあ」という感想の方が先にたったのかも知れない。
今では猫も杓子も尊敬する人に父を挙げる。飽きという点から考えても、この返答は陳腐化しており、どちらかといえばマイナスになる。
それは Real なるものを信じると言うよりは、実際にはそれ以外に世界がないのだろう。
家族と友だちが世界のすべてであって、その外にある公、抽象的な世界が欠落している。
日本政府の失政では他国であれば暴動になってもおかしくないようなことが何度もあった。日本でも戦前ではしばしばそうした暴動があった。しかし全共闘以後、極端にリアル化してしまったこの社会においては、another としての自分が何の世界性ももたなくなってしまっている。
そうするのが決していいとは言わないけれども、例えば拉致事件のようなことがあって、ただのひとりの在日朝鮮人の人も報復で殺害されていないというこの国は稀有である。
稀有ということそのものによって異常であるということも可能かも知れない。私たちはもちろん、拉致問題に怒ってはいるが、その怒りは、リアルである自分の世界と引き換えに出来るほどのものではない。
親であり、子であり、夫であり、妻であり、職業人である自分を絶対視し、それに縛られている。
そこでは日本人と言う概念でさえ、another であり、リアルであることよりもそれを優先させる態度は嘲笑されるのみである。
反戦を訴え、パリで焼身自殺したフランシーヌを私たちは「おばかさん」と評するしかないのかも知れない。
私はこれを一概にいけないこととは思わないが、かなり稀有な社会であるだろうとは思う。そしてそれに伴う問題もある。
リアルであることをいささかも揺るがせにさせずにしか、私たちは another に言及出来ない。官僚たちの不正を正すには、不正官僚を殺せばいいのである。こういうとテロを肯定するのかと言われるだろうが、民主的秩序から反する暴動やテロは民主主義国家でもしばしば起きるし、それによって補正されている面も確かにある。
そうした圧力の欠落が、緊張感のないリアル化を可能にしているし、垂れ流しの情緒的な言論も可能にしているのである。
そしてもちろん私もリアルを微塵だに犠牲にするつもりはない。私はただ、この閉塞の由来を感じているだけのことである。
私もまた現代日本人の一員であって、例えばイラクの人質事件などについてもリアルから敷衍して考える癖がついてしまっている。
これが一方で極端なまでのイデオロギーや宗教にのっとった狂信性をあらかじめ避けているという効果はある。ワッハーブ派に由来するテロリズムなどを見ていると、抽象的に生き過ぎる弊害を考えれば、浅間山荘事件以後に私たちが結果として選択したリアルの絶対視という生き方はひとつの合理ではあった。
ただしそれは個人としての日本人を各個撃破することを容易にし、「愛」によって家畜化を促し、その家畜化たることを欲しないような場合はNEETのような消極的な姿勢で抗するしかないような閉塞をこの国にもたらした。
私は性格的に言って、抽象に走りすぎることは嫌いだし、リアルを著しく軽視するような狂信も嫌いである。しかしそのリアルを重視するのであれば、リアルの果てにある閉塞というこのリアルもまたリアルなのであり、それが間違いなく愛に由来しているだろうということは言えるだろうと思う。
どうすればいいのか、どうすべきなのかまでは私には分からない。
ただ、日本人のこの生き方がポストモダンな世界においてさえ、かなり極まったものではあるのかも知れない。



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