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20050118

イスラームの脅威

ハンチントンの文明の衝突論は批判されることおびただしいけれども、私はそれが偏見を煽り立てる可能性は考慮しなければならないとは思うけれども、一方でそれは本当に偏見なのかという留保も必要だろうと言う立場に立つ。
この文明の衝突が、イスラエルの問題によって火に油を注がれているのは疑いようもない。
アメリカを含む先進諸国はイスラエルに対して、はっきりと、ガザ、東エルサレム、ウェストバンクから手を引けと言うべきなのだ。
これがなければ状況はよほどマイルドであっただろうと想像することは出来る。ただし、アラブにはアラブの問題もある。
9・11の時、アラブの人たちの大部分が喝采を送り、エジプトのあるジャーナリストがこれはイスラエルによる陰謀だといっていたのを思い出す。
そのジャーナリストがどれだけのポジションの人なのか分からないけれども、犠牲者にユダヤ人がいなかったと主張し、しかもそれが一時的とは言え、アラブで広く信じられたということはあったようだ。
常識的に考えて Jew York と言われるほどユダヤ人が多く、しかもホワイトカラーが多いユダヤ系であれば、WTC にいたであろう比率は更に強まるはずで、ユダヤ人がひとりもいないなんてことはあり得ない。
イスラエルが仮に黒幕にいたとして、わざわざユダヤ系を救うために事前に回覧を回したとでも言うのだろうか。その回覧が数百万に及ぶユダヤ系に行き渡り、しかもそれを誰一人漏らさなかったとでも言うのだろうか。そして誰がユダヤ系であるか、ユダヤ系の定義がはっきりしているとでも思うのだろうか。
こういうことは常識的に考えて、10秒で「そんなことはあり得ない」と判断が下せるものである。
見たいものしか見ないと言う独善的な陰謀史観に傾きがちな愚かさ、狂信性が、アラブ社会一般にはあるとこの例から引いても言わざるを得ない。
9.11以後、欧米でもようやく注目されてきたが、イスラム原理主義の背景にはサウジアラビアの国教であるワッハーブ派の影がちらつく。
守旧的、固執的であることをしてよしとするこの立場に立った時、欧米的なもの、それは科学文明的なものとシンクロするけれども、そういうものは基本的には「悪」とされる。
湾岸諸国の王政国家が原理主義から批判に晒されるのは、腐敗と圧政が原因ではあるけれども、ある種の開明主義それ自体が批判されるからである。
サウジアラビアは一方でワッハーブ的な原理で国家を統治し、しかもそれをジハードの名目によって海外に輸出することによって、矛盾を抱えながらもワッハーブの守護者として王政そのものはかろうじて断罪を免れてきた。
国内ではワッハーブ派を名目とした統制を行いながら、それから生じるウルトラについては外国に「追い出す」と言う形で、もっとも原理主義的な国家と腐敗した王政と西欧的科学文明の所産をかろうじて維持してきた。
これは走っている限り倒れない自転車に似ていて、ある種のネズミ講的なものを感じさせる。
モロッコではすでにワッハーブ派によって宗教界が掌握された。
逆レコンキスタをイベリア半島に対して唱える勢力がかの地に生じる危険性さえある。
イスラームにはさまざまな立場がある。穏健なファトワを出すイスラム法学者もいる。
もし外部的な要素がなければ、社会というものは結局のところ穏健化していかざるを得ない。しかしサウジの場合は石油というデウス・マキーナがあり、国家経営上、実存的な問題と取り組むという要素が大きく免除されてきた。
Real から生じる問題の相対的希薄性のために、Another に走ってしまうという抽象度の強い国家経営を行うことが可能になり、普通はこういう経営は破綻してしまうのだが、サウジの場合は石油と言う富がそれを癒してきた。
結果的にこれが原理主義的なワッハーブ派の勢力を助長させ、それが原理的に純粋であるがゆえに、イスラームという価値の体系においてイデオロギー上の闘争を仕掛けた時、これが勝つ。
この意味ではイスラームに本来、穏健派はないのである。
これを制御することが可能なのは、国家経営としてそれを基盤においた場合、長期的には成り立たないというリアリズムであるのだが、石油がこのリアルをかき消してしまっている。
そしてその純粋性がイスラエルという燃料によって更に燃え上がる時、そこに生じるのは文明の衝突であるかも知れない。
私はこの戦いが、西欧文明が過信するほど彼らに有利だとは思えない。
西欧的価値観は原理からの逃避をもってして近代の成果としてきたのであり、狂信的原理主義と対峙した時、それは西欧の西欧性そのものが問われてくることになる。
つまり西欧は一方にアイデンティティの問題を抱えながら、アイデンティティ的に揺るぎにのない勢力と向かい合わなければならない。
アメリカの保守回帰はそうしたものに対するひとつのアンチテーゼとも言えるし、イスラーム的な世界観から西欧的な価値観を救出するひとつの試みではあるのかも知れないが、その試み自体がすでに敵に似てしまうという皮肉を生んでおり、それを果たして西欧的価値観と見なすことが出来るのかという矛盾も生じている。
サウジの幾人かの有力なウラマーたちは、宗教的な中立それ自体を拒否している。
究極の宗教であるイスラームに西欧が飲み込まれることこそが正義に適うのであり、これに反対するものは反イスラームであるとする考えである。
これをそのままサウジアラビア王国とイコールで結びつけることは出来ないが、サウジが内側にこのような危うい火種を抱えながら、かろうじてこのパクス・アメリカーナと向かい合っているという綱渡りのような状況がここにはある。
ブッシュ大統領が過激に走りがちな自らの表現を改めると表明したようだが、彼にしてみればこのような瑣末な誤りが、イスラーム原理主義と、信じられぬほどそれに乗せられやすい無知なアラブ人を燃え上がらせることにどれだけつながっているかもっと考えてみて欲しいところである。
西欧文明がもたらした価値観は必ずしも絶対ではないし、妥当でない場合も多くあるかも知れないが、少なくともワッハーブ的なものから生じるであろう暗黒よりははるかにましだと私は思う。
私がここでこのようなことを書けるのも、日本語と言う言葉の辺境性に由来するものであり、いずれはジハードの対象となることも覚悟しなければならぬかも知れない。
少なくとも西欧的価値観を防衛するためには、それがある程度の公正さを持っていることを結果として証明し、示す必要がある。ここで大きなハードルとなっているのがパレスチナ問題である。
この問題の解決が世界の平和のためにどれだけ致命的なのか、私たちはもっと強く認識すべきだろう。
イスラエルに対して「手を引け」ということ。ブッシュにそれが出来るだろうか。



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