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20080424

旧皇族

現在の皇室典範では、親王/内親王、あるいは王/女王について、第6条で以下のように規定されている。

「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。」

嫡出とは法的な婚姻関係によって産まれた子の意(つまり私生児ではないということ)。嫡男とは一般的な意味では、「跡継ぎ」の意だが、法律用語では嫡出の男子の意味。
つまり、正式な婚姻によって産まれた子のうち、天皇の子と、天皇の息子の子を親王/内親王とし、それ以外の天皇家男系の皇族を王/女王とする、という規定である。
秋篠宮家の子女たちは、「天皇の息子の子」になるので、親王/内親王だが、寛仁親王家の子女は「天皇の息子の子の子」なので一段下がって女王になる。
このように、親王たる要件は現在ではあらかじめ決められているが、江戸時代以前はそうではなかった。
天皇の子女であっても、親王/内親王となるには、天皇から宣下を受けなければならなかった。だから天皇の子女で、なおかつ臣籍降下していない皇族であっても、宣下を受けなければ親王/内親王は名乗れなかった。
著名な例では以仁王の例がある。
逆に、天皇の子女でなくとも、皇族であれば宣下を受ければ、親王/内親王を名乗ることも出来た。
世襲親王家はその例である。
一般的には親王は、代が下がれば臣籍降下し、皇統から離れる。
桓武平氏や清和源氏はその一例だ。そうした一般的な親王とは別に、代が下がっても代々親王宣下を受けて、皇統の断絶に備える家系がかつて存在していた。
伏見宮家が最も古く、室町時代初期、北朝の崇光天皇の皇子、栄仁親王から発している。他に、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家が存在したが、有栖川宮家と桂宮家は断絶し、閑院宮家は江戸時代後期の光格天皇以後の現在の皇統となった。
つまり、明治以後に存在した非直宮の世襲皇族家(旧皇族)はすべて、伏見宮家の血統ということになる。
第20代の伏見宮家当主、邦家親王の子とその男系の孫らが旧皇族を形成した。
邦家親王の息子らがそれぞれ、山階宮家、久邇宮家、北白川宮家、東伏見宮家、伏見宮家、閑院宮家(復興)を継承もしくは創設し、北白川宮家からは更に竹田宮家が派生、久邇宮家からは賀陽宮家、梨本宮家、朝香宮家、東久邇宮家が派生した。
これらのうち東久邇宮家は男系子孫が豊富でありなおかつ女系を通して昭和天皇の血統であることから、旧皇族復帰の際は有力候補に挙げられている。
また、著作家として活動し、当人も皇族復帰に意欲を示している竹田恒泰氏は竹田宮家の男系子孫で、明治天皇の娘の昌子内親王が曾祖母にあたる。
明治天皇、昭和天皇には内親王が比較的多数いたことから、旧皇族との縁戚関係も強められている。
しかし皇位継承を言う場合、あくまで重要なのは男系であって、もし女系を通して皇子孫であることが何らかの意味を持つのであれば、そもそも女系継承を容認すればいいだけの話であり、女系の子孫であれば現在の皇室直系にも多数存在している。
そして男系を辿って言うのであれば、旧皇族は室町時代初期(というか南北朝時代)に皇統から分離しており、他に適当な候補者がいないならばともかく、より天皇家と近縁の男系家系が複数存在することを考えれば、あまりにも家系が遠すぎる。
そもそも彼ら、伏見宮家の家系を明治になって世襲皇族としたことが誤りだったというしかない。徳大寺家や西園寺家、近衛家などを皇族に復帰させておくべきだったろう。



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