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20080430

氏姓、夫婦別姓

氏姓については混同した用いられ方がされている。
日本においては氏とは祖先を同じくする同族集団であり、姓は朝廷より授けられた身分であった。これに氏族内部での家系の違いによって苗字がある、というのが基本的な分類である。
例えば、源朝臣徳川家康と言う場合、氏(源氏)+姓(朝臣)+苗字(徳川)+個人名(家康)で構成されていることが分かる。
姓というのは天武天皇が定めた八色の姓のことで、ある種の「爵位」に相当するものである。宿禰、真人などの姓があるが、すぐに朝臣にほぼ統一されたので、個人識別としては意味のない部分だ。
ただ、いわゆる氏を示す語として本姓という言い方をすることがあって、氏を示す語として混乱して用いられることがある。
古代、朝廷に仕えた豪族たちの氏は機能としてほぼ苗字と同様だった。それは一族の名前であり、一族が大きくは分化していなかったのであれば同時に家名でもあった。
朝廷に仕える豪族にも、朝廷ともともとは対等であったと考えられる臣族と、朝廷の使用人から豪族化したと考えられる連族がいた。蘇我氏や葛城氏が前者であるのに対して、中臣氏(藤原氏)、物部氏、大伴氏は後者である。連族は犬養氏のように役職がそのまま氏族名になっていることが多い。
対して臣族は地名に氏族名が由来していることが多い。
いずれにせよ、公的な呼称としては氏族があるのであって、苗字は私的な呼称である。
単に居住した土地などに因んで、区別目的で用いられているのがそもそもの始まりだが、武家政権以後は、氏族は朝廷に参内するなど特殊な時にしか用いなくなったので、家名としては苗字が主になった。
戦国大名のうち、家系図がはっきりしている武田家(源氏)、今川家(源氏)、毛利家(大江氏)などいくつかの例外を除いて、新興の家系は氏が二転三転していることが多い。
平氏になったり源氏になったり、藤原氏になったりと、時々の必要に応じて変えている。
そもそも氏がいずれであるのか、はっきりとしない場合も多く、そうした場合は怪しげな家系伝承や、気分でこしらえる場合がほとんどだった。
加藤清正が石田三成に讒言されて、秀吉から叱責された例では、朝鮮で勝手に豊臣氏を名乗ったという一件があったが、清正いわくもともと当家はいずれの氏が判然としないから秀吉に育てて貰ったのは確かなのだから豊臣氏を名乗った、ということだが、これは豊臣本姓の授与を大名統制に用いていた秀吉には都合が悪いことだった。
ちなみに豊臣氏は苗字ではなく、藤原氏、源氏などと同等同列の氏である。
系図上は今では加藤清正は藤原氏、ということになっている。
甚だしい例では、南部家の一族から端を発し、後に自立した大名になった津軽為信だが、本来、南部家の傍流であるのは確かなので、氏族でいえば源氏である。
しかし南部家との関係が悪化したことから、系図上分家の立場であることは嫌だと思ったのか、近衛家に接近し、贈り物をして、近衛家のご落胤の末裔、ということにしている。だから系図上では今では藤原氏ということになっている。
周辺諸大名と差別化をはかるために、公家の末裔を名乗る例はこれにとどまらず、土佐一条家、西園寺家のように正真正銘の公家が大名化した例を除いても、公家の末裔を名乗る例は他にもある。
浅井氏は、三条家の末裔ということになっている。漂泊していた公家がご落胤を残し、それが浅井氏の祖先という、雲をつかむような話で、力を握ればこっちのもの、生まれは後からついてくる一例である。
そもそもそれでいうならば天下人となった秀吉も誰がどう見ても作り話の皇胤説を主張しているし、徳川家の新田流源氏の子孫という話も限りなく虚構に近い。
こうした事実から、家柄といってもその程度の融通がきくものだったと見るのか、そうしたあからさまな作り話をして外形を整える必要があるほど家柄には価値があったと見るのかは人それぞれだ。
私は後者の見方をしていて、先述したように、一条家や西園寺家のように家柄しかない家系の者たちが地方に下って大名化した例もあるのを踏まえるならば、やはりそれなりの価値はあったのだ。

現代において、あなたの氏族はなんですか、と聞かれても答えられない人がほとんどだろう。先祖があやふやだという場合もあるだろうし、系図がはっきりとしていても、そもそも興味がない人がほとんどだからだ。
いい世の中になった、というしかない。

源平藤橘のような氏族名(ウジナ)を氏とすると先の記事で言ったが、八色の姓が実際上意味をなくした時点ですでに姓が氏の意味で用いられてるようになっていた。氏姓の用法に混乱があるというのはこのことだ。
源氏ともいい、源姓ともいい、氏を賜ることを賜姓ともいう。
従って、氏と姓の違いは実際にはほとんど意識されず、つまり氏族名、あるいは本姓のことを言うのだと考えればよい。
本来のファミリーネーム=クランネームはこの氏姓の意味であり、苗字は仮の名に過ぎない。
私個人の例で言えば私の氏は菅原氏だが、苗字は菅原ではない。苗字が菅原である人が菅原氏であるとは限らず、菅原氏の系統のはっきりしている人たちの大部分は苗字は菅原ではない。
菅原氏はだいたいが梅紋を用いているので、梅紋ではない菅原さんはおそらく菅原氏ではない。
苗字を、家名とも言うが、これは家名ではないという研究者もいる。それは単に土地の名前に過ぎぬと。たとえば法事の席で、東京の叔父さんと言うようなもので、この場合の東京は居住地を言うのであって家名ではない。
もちろん苗字のもともとの意味や由来は確かにそのようなものであって、京都の公家といえば京都の地名が家名になっているのはつまりは所在地が転じたものだ。
ただ、別所に移動してなお、地名が家名化してついてゆくことがあって、そのような場合にはやはり苗字は家名化したといえるのではないか。
例えば戦国大名の毛利家は、源頼朝の側近、大江広元に由来しているので大江氏である。広元の子、季光が相模国毛利庄を領有し、毛利を称したが、毛利季光は三浦家の乱に巻き込まれ取り潰されている。
ただし季光の三男の家系が越後に移っていて、そちらは存続している。この越後の家系から寒河江家や、安芸毛利家が派生していて、安芸毛利家は、相模-越後-安芸と転変しながらも「毛利」の地名ともども移動している。
このような例は、確かに単なる居住地とは言えないのであって、イエの名前というしかない。
このイエの名前は、個人にとっては、本来、より抽象性の強い名というべきものであって、社会的な拘束性はあるにせよ、個人とイコールではない。個人が本来属する氏族集団とは別の基準で切り取られた社会制度というべきである。
それはたとえば同業の複数の企業が集まる業界団体での会合における、自社名に似ている。
私が田中という苗字であるとして、アルファ建設なる企業の代表として、会合に出席していれば、アルファ建設さんと呼ばれる。田中という個人の祖先とのつながりのある集団ではなく、別の基準で切り取られた、名前である。
つまり発生初期のイエとは、氏族集団ではなく、むしろ結果的に複数の氏族出身者を包括的に統合した自営集団のようなものであって、自社名が個人のアイデンティティとは無関係であるように、イエの名前と個人が位置づけられる系譜的な呼称とは無関係なのだ。
従ってイエの存続のために最適との合意があれば、同一氏族内部での結婚や同一氏族外からの養子縁組も可能だということになる。それは氏族集団ではないのだから。
平安時代末期から江戸時代にかけての武家の時代とはつまりは氏族集団の論理がイエの論理に置き換えられてゆく過程であり、それは公家に対しても影響を与えている。
別項でもいったように、江戸時代初期に近衛信尹は実子がいなかったことから、妹の中和門院が産んだ皇子(父は後陽成天皇)を養子に迎えている。
近衛家は藤原氏であり、氏族集団の論理からすれば、同じ藤原氏からしか養子は本来迎えられない。しかし別の氏族集団ではあるが最近親になる甥を養子に迎えており、近衛家なるイエの一貫性は保たれても、氏族集団の面から見れば、近衛家はここで藤原氏から王氏に切り替わったというしかないのであって、このような融通無碍は氏族集団の論理では本来不可能である。
それが可能になったのは母系継承をも視野に入れたイエ制度の発達を抜きにしては考えられず、イエ制度が発達したことが、日本が他の東洋諸国と比較して特に顕著に異なる点であり、氏族制度を常識とする世界観からは無軌道なまでに融通無碍に見られるところである。

氏と姓、苗字に混用が見られることは指摘したが、氏と姓は混用されるものの、苗字はそれとははっきりと区別されるべきものである。
中国でも氏と姓は混用が見られ、はやくから区別がなくなっている。中国の場合は、姓が大分類、氏が小分類を示す。
姓が部族名、氏が部族内部における位置づけを示す名前と考えればよい。
たとえば始皇帝は姓が嬴(えい)、氏が趙、諱が政なので、嬴政とも書かれるし、趙政とも書かれる。
姫姓の者のうち、公(貴族)の末裔の者を公孫氏というように、氏は社会的な立場、居住地、出身地を示している。しかしこうした区別も、やがてはつけられなくなり、姓を氏として用いたり、またその逆であったりして氏姓の区別は失われた。
それでも、氏族レベルでクランネームが維持されたとも言える。秦室の末裔を称する秦氏は、中国の氏姓制度においては、姓ではなく氏を称している、大分類ではなく小分類を称していると見なせるが、日本における秦氏はこれは氏族の名であって苗字ではないのだから(氏族名由来の苗字として用いている人もいる)、小分類ではなく大分類の名だと言えよう。
つまり中国やそれを模した韓国における現代的な意味における姓とは、氏と姓が混用されている状態における姓であり、現代の日本における姓とは苗字のことである。
姓(大分類)-氏(中分類)-苗字(小分類)として考えれば分かりやすい。
現代日本における「姓」はそれがどれくらいあるかもはっきりしないほど膨大な数を記録しているが、中国や韓国における「姓」ははるかに少ない。ごく珍奇なものを含めても、1000は越えないだろうし、ほとんどの国民はせいぜいが20程度の姓に含まれるのだ。
これはつまり中国における「姓」が大・中分類であるのに対し、日本の「姓」が小分類であるがゆえの違いである。
日本でも、氏の数は、苗字にくらべると遥かに少ない。
おそらく多い順で藤原氏、源氏、平氏、菅原氏、橘氏。以下は順不同で清原氏、紀氏、小野氏、安部氏、大江氏、葛城氏、などなどである。
中国や韓国における家名とは、源氏や平氏のレベルでの話であって、韓国における同姓をめとらずとは、日本で言えば田中さん同士が結婚しないというレベルではなく源氏同士では結婚しないというようなレベルの話なのだ。
また、中国や韓国では夫婦は結婚しても、元の姓を変えないが、氏族名レベルでは実は日本でもそうなのだ。
氏族名を現在は用いないから分からないだけのことだ。
例えば、将軍秀忠の御台所、お江与の方は位階を授与される時に藤原達子と記名されている。同じく彼女の姉の茶々は藤原菊子として贈位されている。
このことから、結婚後も氏は変わらなかったことが明らかで、家名(苗字)が変わろうが変わるまいが、中韓でいうような「姓」の一貫性は保たれていることになる。
社会的な文脈ではなく、歴史的な文脈で、中国や韓国では結婚後も妻の姓は変わらないのに日本はどうだ?というのは上記の理由でナンセンスである。
日本でも氏姓は変わらないのだ。変わるのは苗字である。
やや例外的なのは豊臣秀吉の妻、北政所の例で彼女は豊臣吉子の名で贈位されている。豊臣姓は秀吉に与えられたものだから、その妻である北政所はいかなる意味においても豊臣氏ではありあえないが、彼女が豊臣氏を名乗っているとすれば、それは秀吉の妻だからでなく彼女自身に豊臣氏が与えられたからだと考えられるのであって、夫の妻であるから夫の氏族名を名乗っているのではなく、朝廷から賜るなどの特別な措置がとられたということだ。
つまり北政所は独立した豊臣氏の創始者であって、秀吉とは同姓ながら別系の豊臣氏ととらえられる。
別系でありながら、同姓であれば同一氏族と扱われるのかと言う問題については、源氏の例がある。
源氏には複数別系の系列があって、いずれもが皇裔ではあるが、同族としてのまとまりは事実上無い。しかし村上源氏であれ、嵯峨源氏であれ、清和源氏であれ、源氏であるには違いなく、淳和院・奨学院別当の地位が複数の系統の源氏において共通した「源氏長者」にあたると見なされ、多くは村上源氏の久我(こが)家がその地位を占めてきたが、室町時代には足利将軍家が、江戸時代には徳川将軍家がその地位を占めている。
村上であろうが嵯峨であろうが清和であろうが源氏は源氏、名誉職において限りなく蜃気楼のようにぼんやりとしたものであっても、同族集団としての外形はあった、ということになる。



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