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20080503

最後の授業

カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世(フランスでは敬虔王ルイ1世)には四人の息子がおり、このうち、帝位(西ローマ皇帝)とフランク王国の王位は本来は長子のロタールがひとりで継ぐべきものだった。
分割相続が普通だったフランク族にあっても、皇帝にロタールを据え、他の息子たちをその封建的な臣下とすることで、帝国の統一性を計る予定だった。
しかしルートヴィヒ1世の後妻、ユーディート皇后が自らが産んだ末子のカールにも、王位を与えるようごり押ししたことから、フランク王国は一転して、継承戦争の様相を呈した。
結果的にロタールが帝位とイタリア、中フランク王国の王位を継承し、三男のルートヴィヒ2世がドイツならびに東フランク王国を、四男のカールがフランスならびに西フランク王国を継承することで決着した。
東フランク王国がドイツの、西フランク王国がフランスの直接的な前身となったのだが、今日、焦点をあてたいのはロタールが継承した中フランク王国である。
この王国は、北部イタリア、スイス、アルザス・ロレーヌ地方、つまりイタリアからオランダにかけての独仏国境地帯を領有していたのだが、いつしかこの国を人々は、ロタールの国、ロタリンギアと呼ぶようになった。
この王国は更に分割されて、イタリアとプロヴァンスを除いた地域を狭義のロタリンギアと呼ぶようになったのだが、やがて870年のメルセン条約により、ドイツ王(東フランク王)とフランス王(西フランク王国)に分割され、ロタリンギアは名実共に、独仏国境地帯となった。
ロタリンギアをドイツ語ではロートリンゲンと呼ぶ。フランス語ではロレーヌと呼ぶ。
この地域は隣り合ったアルザスと共に、ドイツ圏に組み込まれたり、フランス圏に組み込まれたりを繰り返すのだが、1697年にオーストリアとフランスの間で合意が成立し、ロレーヌ・ヴォーデモン家が神聖ローマ帝国諸侯のロートリンゲン公(ロレーヌ公)として、エルザス・ロートリンゲンを統治することになった。
1729年にロートリンゲン公に襲封したフランツ3世シュテファンは在位9年の後、オーストリア・ハプスブルク家女性相続人マリア・テレジアと結婚することになった。
この結婚によってオーストリアの勢力が直接、北フランスに及ぶことを嫌ったフランス王ルイ15世は結婚に反対し、絶対阻止の構えを見せたが、フランツ3世シュテファンはトスカーナ大公国を見返りとする代わりにロートリンゲン公国を放棄し、それによって無事、マリア・テレジアと結婚した。
トスカーナ大公国(フィレンツェ)はメディチ家の支配するところだったが、この頃、メディチ家男系が断絶し、大公位が空位となろうとしていた。
フランス王家はアンリ4世妃マリー・ド・メディシスを通してメディチ家女系の子孫であったから、トスカーナ大公位への潜在的な請求権を有していたが、ルイ 15世としても、トスカーナをフランツ3世シュテファンに与える代わりに、ロートリンゲン(ロレーヌ)を確保することを優先した。
ある意味、双方の痛み分けである。
フランツ3世シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)がマリア・テレジアと結婚して以後のハプスブルク家は、一般にハプスブルク・ロートリンゲン家と呼ばれるが、以後、ロートリンゲンそのものはドイツではなくフランスに組み入れられることになる。

エルザス(アルザス)とロートリンゲン(ロレーヌ)を、本来的にドイツかフランスかと問うことは無意味に近い。それはドイツやフランスと同時期に成立した、ロタリンギアなのだ。
ドイツでもなければフランスでもない。さまざまな時期においてドイツだったこともあり、フランスだったこともあるというだけのことだ。
しかし敢えてどちらかを言うのであれば、むしろドイツだと考える。フランスそのものがフランク王国という意味においてドイツだったのだし、言語的にはドイツ語にむしろ近い。
皇帝フランツ1世が領有を放棄した1737年から、普仏戦争の結果、再び領有がドイツに移動する1871年までの134年間、アルザス・ロレーヌはフランスであった。
フランス語で教育が行われ、フランス語で行政が行われ、知識人たちはパリに出て研鑽を積み、青年たちはフランス兵として欧州各地で戦った。
アルフォンス・ドーテの「最後の授業」では、初等教育がフランス語で行われるのが排され、フランス人教師が「フランス万歳」と黒板に書く、フランス愛国主義をたぎらせる場面が描かれる。
しかし皮肉なことに、フランス語はアルザスにあっては、外国人統治者の言葉だった。アルザス人が話していたのはドイツ語に近いアルザス語であって、フランス語も、プロイセン人の話す標準ドイツ語も、異邦人の言葉であるには違いなかった。しかもドイツ語の方がむしろ母国語に近似していたのである。
また、フランス語の学習がドイツ統治下にあっても別に禁じられたわけでもない。フランス語はドイツ本国にあっても主要な外国語であって、フランス語学習教育が行われていたのであって、アルザスでそれが禁じられるはずもない。
今日、ドーテの「最後の授業」を読む者は、ドーテの意図したフランスナショナリズムの掲揚ではなく、ドーテの無知、無理解、ナショナリズムから生じる盲目的な側面を見るのである。
当時のアルザス人は確かにフランス語を流暢に話すことはできただろうが、ドイツ軍が駐屯したその日から、何の不自由も無くドイツ語を話したのもまったく確かなことである。
アルザス人はフランスにあってはドイツ人であり、ドイツにあってはフランス人だった。
彼らがドイツ第二帝国に組み込まれ、フランス革命で革命軍として戦った過去の記憶がすぐさまに蘇り、特別な対応を帝国に要求したのはアルザス(エルザス)というロタリンギア性による。
同時に第二次大戦後、フランスがこの地域を再領有した後、推し進めた純フランス化政策に多くの住民が徹底抗戦の構えを見せたのもやはりそのロタリンギア性による。
異質なものは、つなぐ者でもある。エルザス・ロートリンゲン、あるいはアルザス・ロレーヌは、ドイツとフランスにあっていずれにおいても独特の異邦人であり、ドイツとフランスをつなぐ場所でもある。
アルザスの首都、ストラスブールはドイツ語で言えばシュトラースブルクであり、つづりを見れば完全にドイツ語の地名である。しかし現在はフランス共和国の重要な都市のひとつであり、ヨーロッパの主要な都市のひとつである。
現在ここにはヨーロッパをつなぐ町に相応しく、EU議会などが置かれている。



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