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20080506

あるガリア人の王

カエサルが征服し、戦記で記したガリアとは、現在ではフランスに相当するが、ガリア人そのものはより広範囲に居住していた。
スイスを意味するヘルヴェティアとはもともとはガリア人の一部族名に由来し、スイス、フランス、ブリテン諸島までがガリア人の住む所だった。
イギリスで言えばアーサー王もストーンヘンジを作ったのも、ガリア人になる(イギリスではケルト人と呼ぶ)。
フランスは国名こそはフランク、つまりゲルマン人であるフランク族に由来するが、国民の大部分にはガリア人意識があるようで、‘Asterix’なるガリア人少年の活躍を描いた漫画も大人気である。
ブリテン諸島においては周辺に追いやられたケルト人たち、つまりスコットランド人やアイルランド人にとって民族の「誇り」であるアーサー王伝説も、フランスでは人気があるようで、アルチュール(アーサー)なる名前を持つ男子も珍しくはない。

1760年、ジェイムズ・マクファーソンなる青年がスコットランドの高地地方で採譜したスコッチ・ケルトの古謡「オシアン」が英訳されると、次々と各国語に翻訳され、西欧で大ベストセラーとなった。
今日では「オシアン」は偽書であるとも言われ、少なくともマクファーソンが元々の民話を相当に膨らませて書いているのは間違いないのだが、これがなぜ受けたのかというと、スコットランド人にとってはアーサー王物語に代わる、自分たちのオリジナルの伝説が得られたという、ナショナリズムに訴えかけるものがあったからだという。
アーサー王伝説は本場はどうしたところでアイルランドだからである。
同様に、ガリア・アイデンティティに訴えるという意味では、フランスでも非常に評判になった。
ナショナリズムの時代はそれからまもなく本格化するのだが、民族主義の動きは18世紀にも底流として勃興しつつあったことが伺える。

オシアンの主要登場人物でオスカルという英雄が登場するのだが、ナポレオンは彼にとって非常に重要な女性が産んだ子に、「オシアン」にちなんでその名を与えている。
その女性、デジレ・クラリーはマルセイユ時代のナポレオンの婚約者であり、ナポレオンがジョゼフィーヌに恋したがために婚約は破棄されたのだが、クララの姉は、ナポレオンの兄のジョゼフの妻ジュリーはデジレ・クラリーの姉だったから、非常に親密な親戚ではあり続けた。
ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットはジャコバン派の将軍として、ナポレオンと並ぶ国民的な人気を得ており、一時はナポレオンの対抗馬でもあった。
ベルナドットは後にナポレオンの有力な元帥になったが、ミュラやネイのように、ナポレオンの子飼いではなく、元々は独自に栄達した人物だった。ナポレオンとは必ずしも仲は良くなかったという。
この人と、デジレは結婚した。
ボナパルト家・クラリー家が、ナポレオンとは必ずしも親しくはないが非常に有力な人物であるベルナドットを自分たちの側に取り込もうと画策した結果だとも言う。
しかしその後もベルナドットはナポレオンに必ずしも全面的に心酔した風でもなく、距離をとりつづけた。デジレがその夫人であるために、ナポレオンとしてはかえってベルナドットを失脚させられないことになってしまった。
デジレに何の非もないにもかかわらず結果として「棄てる」形になってしまったことについて、ナポレオンは生涯贖罪の気持ちを持っていたようで、ベルナドットとデジレの間の長男にも名付け親になっている。その長男というのが、オスカルである。
大陸を制覇する中で、ナポレオンは親族を次々と各地の王につけている。
長兄のジョゼフはナポリ王、次いでスペイン王。
エリザ・ボナパルトはトスカーナ女大公。
ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世の父)はオランダ王。
カロリーヌはナポリ女王(夫のミュラはナポリ王、共同君主)。
ジェロームはヴェストファーレン王。
デジレの姉ジュリーは夫のジョゼフに伴い、スペイン王妃になっていた。自分と結婚していれば、フランス皇后であったかもしれないデジレを不憫がって、ナポレオンはベルナドットがスウェーデン王になることを承認した。
ベルナドットがスウェーデン王になる話はナポレオンが画策した話ではない。王統の絶えようとしていたスウェーデン王国が、フランスとのつながりを得るために、ベルナドットの王太子就任を打診してきたのである。ベルナドットはかつてスウェーデン軍捕虜を親切丁寧に扱ったことから、スウェーデンでも人気が高い人物だった。
必ずしもナポレオンに忠実ではない(忠実でないことは最初から分かっていた)ベルナドットを、北欧の要のスウェーデン王太子(すぐさま摂政につく見込みだった)につけることは、フランス帝国にとっては危険な行為である。
しかもベルナドットはひとたびスウェーデンに迎えられれば、フランスよりもスウェーデンの国益を優先することを明言している。ベルナドットは言ったことは必ずその通りにする男だった。
デジレがベルナドットの妻でなければ、ナポレオンが了承したかどうかは疑わしい。
しかしナポレオンはこれを了承し、そのことが後々、フランス帝国にとっては災厄となるのである。
ベルナドットはスウェーデン摂政となるやいなや、スウェーデンの国益に沿って行動し、ナポレオンの没落を促す活発な動きを見せるのである。
第一帝政の崩壊と共に、ナポレオン・ボナパルトによって作られたヨーロッパの傀儡国家はことごとく崩れ落ちた。
しかしベルナドットはスウェーデンにおいて地位を確かにし、1818年にはカール14世ヨーハンとして、スウェーデンとノルウェーの王に即位している。フランス第一帝政が崩壊直後、ベルナドットはフランス王となる意思を示して王位を狙ったが、フランス人からすれば彼は「裏切り者」であり、この案を推したロシア皇帝アレクサンデル1世も早々に諦めなければならなかった。
ベルナドットがスウェーデン王として崩御した後、王位を継いだのがナポレオンの名づけ子オスカル(スウェーデン王オスカル1世)である。
ガリアの伝説の英雄の名を与えられた青年王は、ガリアの地フランスを遠く離れ、北方のゲルマン人たちの王となった。
デジレ・クラリーは息子のオスカルよりも長く、1860年まで生きた。終焉の地はストックホルムという。
息子の嫁はジョゼフィーヌの息子(ジョゼフィーヌの先夫との間の息子で、ナポレオンの養子)の娘で、その間に生まれ、スウェーデン王位を継いだカール15世は、ナポレオンの元婚約者デジレにとっては孫、ナポレオンの元妻ジョゼフィーヌにとっては曾孫にあたる。
デジレの死後、彼女の枕元から、ナポレオンに宛てた大量の恋文が発見されたという。



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