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20080507

王家と国家と国民と

先の項目で、スウェーデン王オスカル1世が王妃に迎えたのが、ロイヒテンベルク公オイゲン(ウジェーヌ・ド・ボアルネ)の娘ジョゼフィーヌであることを言った。
ロイヒテンベルク公家はバイエルン王国の貴族であり、ナポレオンの義理の息子(ジョゼフィーヌ皇后の連れ子)であるウジェーヌ・ド・ボアルネはワーテルローの戦いまでは義父に忠実だったが、ナポレオンがセントヘレナに流された後にはバイエルン王に帰順した。
バイエルン王女アウグステが彼の妻だった。
この閨閥のつながりが非常に面白いと思うのは、スウェーデン王家を通してデジレ・クラリーとジョゼフィーヌ皇后の血統がひとつになっている点。
もうひとつが、まったくの外来王朝であるベルナドッテ朝が結婚に際して、スウェーデンとのつながりを重視していない点。
スウェーデン王になるオスカル1世の父は元フランス元帥であり、母は元はと言えばマルセイユの町娘である。
スウェーデンにおいて確固たる地位を築きたいと思えばスウェーデンの土着の貴族と縁組をするのが普通だろう。私は今、「普通だろう」と書いたが、その普通はやはりヨーロッパにおける普通ではない。日本人の感覚の普通であって、王室が王室外の人々と結婚するようになったのは、それほど遠いことではない。
王家とはファミリービジネスであり、資本家は資本家同士で結婚し、決して従業員とは結婚しないということである。
ここのところが根本的に日本人と感覚が違うところだ。
日本人は国があって王がいると考える。市があって市長があるように、王は国に付随するものと考える。それはヨーロッパでもまったくそのような考えが無いわけではないのだが、資本家にとって資本が重要であって経営する企業が必ずしも最重要ではないように、ヨーロッパでは王家と国が、企業プロパーと資本が分離しているように分離している。
たとえるならば銀行を中心にした財界が、傘下の資本関係のある企業に経営者を送り込むようなもので、王家とはこの種の財界のようなものと考えると分かりやすい。
ロイヒテンベルク公オイゲンはベルギーがオランダから分離独立したときにベルギー王候補にもなったが(実際には英国の後押しを受けた、ヴィクトリア女王の叔父のレオポルト1世が即位した)、本来、ベルギーとは何のゆかりもない人であって(妹のオルタンスが‘オランダ王妃’であったことはあるが)、そのような人であっても財界の総意、つまり国際社会の合意があれば、王に迎えられるのである。
銀行からいかなる人物が経営に送り込まれるか、プロパー社員にはあずかり知らぬことであるように、国民にとって王を認める/認めないは問われるところではない。
それを承認するのはその国の国民という以上に、国際社会、つまるところ列強の合意なのである。
19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパには続々と新王国が形成されるが、その国の人が王位につく例はほとんどない。おおよそ大半が、列強の合意に基づいて、デンマークやドイツの諸侯が王位に即いている。
主要な例を列挙してみる。

1831年 ベルギー王国成立 初代国王レオポルト1世(ドイツ、ザクセン・コーブルク・ゴータ公子、英国暫定王位継承者シャルロット王女の夫、英国ヴィクトリア女王の母の弟)
1890年 ルクセンブルク大公国成立 初代大公アドルフ(オランダ王室傍流のナッサウ=ヴァイルブルク家出身)
1866年 ルーマニア王国成立 初代国王カロル1世(プロイセン王族、ホーエンツォレルン・シグマリンケン侯子)
1908年 ブルガリア王国成立 初代国王フェルディナント1世(ザクセン・コーブルク・ゴータ公子。ベルギー初代国王レオポルト1世の甥の息子。英国女王ヴィクトリアの従兄弟の子。英国女王ヴィクトリアの夫アルバート公の従兄弟の子)
1832年 ギリシア王国成立 初代国王オソン1世(バイエルン王子)
1863年 ギリシア王国クーデターに伴い即位 ゲオルギオス1世(デンマーク王子。デンマーク王クリスチャン9世の次男。長兄はデンマーク王フレデリク8世、姉は英国王妃アレクサンドラ、英国王ジョージ5世は甥)。
1905年 ノルウェー王国成立(スウェーデンとの同君連合を解消) 初代国王ホーコン7世(デンマーク王子。デンマーク王フレデリク8世の次男)

こうした新国王たちのいずれもが、同族である各国王室と通婚し、自国の土着の貴族とは結婚しなかった。民族主義の台頭著しい国民国家成立の時代にあって、王家を介して血の国際主義がヨーロッパでは成立していたと言える。
これらの諸国の王がなぜドイツ、デンマークから輩出されたのかと考えると、ひとつには歴史の古い家系であるということが言える。デンマーク王家はヨーロッパで最古の王家であるし、ドイツのヴィッテルスバッハ家やホーエンツォレルン家、ザクセン・コーブルク・ゴータ家もまたかつては神聖ローマ皇帝を出したこともある家柄である。
また、歴史が古いということは、各国王室に縁戚が広がっているということでもある。候補として考慮されやすかったといえるだろう。
そして彼らの元々の輩出国が弱小国であるのも理由である。ルーマニア王家はドイツ皇室の一族であるから例外として、他は吹けば飛ぶような弱小国ばかりである。勢力の均衡がなによりも重視される外交にあって、合意をとりつけやすい存在だったということだ。

19 世紀、20世紀はヨーロッパにとってナショナリズムの世紀であると同時に、それを越えて王室を通して国際社会が形成された時代でもある。今日においても、王室のありようを眺めることは決して単に趣味的な事柄にとどまらない、それはヨーロッパの血のつながりを見ることでもあり、ヨーロッパという世界のありかたを理解することでもある。



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