log1989
index about link bbs mail


20080511

Finlandia

シベリウス作曲の交響曲(シベリウスは交響詩としているが)「フィンランディア」を地名を示す接尾辞が二重についている奇妙な固有名詞である、とするのはどうなんだろうと思う。
確かに、-land も -ia も固有名詞と結合し、「何々の土地」を意味する地名接尾辞ではある。
「フィン人の土地」という意味であれば、Finland もしくは Finia/Finnia で必要充分であり、Finlandia とするのは、「いにしえの昔の武士のさむらいが馬から落ちて落馬して」に似た不要な重複になる。
しかし -ia が必ずしも地名接尾辞だけかというとそういうこともないのであって、抽象化して名詞化する際にも用いられることがあり(historia/historiae などがそう)、私としてはむしろこちらのニュアンスに近い用法ではないかと思う。
つまりフィンランディアとは、フィンランドという具体的な地名固有名詞を意味するのではなく、文化やそれに対する思い入れ、その歴史、人々の生活等等をすべてひっくるめた「フィンランドというもの」を意味しているのではないかと思う。
フィンランドという固有名詞はもちろん限定的な概念だし、それに対する思い入れはフィンランド人ローカルなものではあるけれど、それをより抽象化することで、フィンランドを通して祖国愛なる普遍的な感情を表現しているのだと思う。
つまりフィンランディアを聴いて感動する時、私たちはいずれも「フィンランド人」なのである。
フィンランディアという楽曲自体は、確かにフィンランドの第二国歌であるようにフィンランド国家と密接に結びついているが、そこに描かれた故郷の人々や山河を想う気持ちは、普遍的なものであり、フィンランディアはフィンランドを描いたものではなく、フィンランドを通して「フィンランドというもの」を描いた楽曲なのだ。
冷戦期において、ジョン・ケネディが言ったように自由のために戦うものはすべてベルリン市民であったように、故郷を想い、歴史を尊び、生まれては生きてゆくことを肯定する人々はすべてフィンランド人なのだ。
そういう意味ではこの曲は patriotism ではあっても nationalism ではない。ましてエスノセントリズムではない。個人的なことがもっとも普遍的なことにつながる一例である。

調べてみると、シベリウスはわりあい長生きした人で、1865年に生まれ、1957年に死んでいる。フィンランディアは1899年に作曲されている。
シベリウスはフィンランド現代史の中で、ロシアによる統治の時代、フィンランド独立の時代、ソ連との戦争の時代、ソ連に協調的なフィンランド化の時代を生きたが、フィンランディアはそのすべての時代を彩ったことになる。これが個人的には、わりあい不思議な感触を受ける。
それほどフィンランディアは神話化されているにもかかわらず、ルーツとしてはほとんど同時代であるということへの奇妙な感触。
以前聞いた話で、南太平洋の某島で、太平洋戦争中の日米両海軍の決戦の様子が、すでに神話化されて語られているというが、それと似たような感触である。

スターリンは書記局に権限を集中させ、レーニンの死後実質的に独裁体制を確立すると、トロツキーなどの主要な政敵を追放粛清したのみならず、自らの対抗馬となりそうな人物はことごとく粛清した。
特に赤軍は、軍事力を掌握している関係から、その粛清の度合いが甚だしく、赤軍の英雄トゥハチェフスキーのみならず、優秀な将官をことごとく粛清していた。
当然、赤軍の弱体化は甚だしかったのだが、その中からも次世代の将官が育ちつつあり、1939年の春から夏にかけて満蒙国境地帯で日本軍と衝突したノモンハン事件では、第二次世界大戦を軍事的に指導することになるジューコフが頭角を現している。
ノモンハンでのソ連軍の勝利は、赤軍全体の弱体化を考慮すればむしろ例外的な、状況を得て、人を得た、幸運によるものとも言えるのだが、それがスターリンをしてソ連軍の実力を過信せしめた。
この時期、スターリンはナチスドイツに接近している。
第一次大戦後のドイツと、革命後のロシアとの接近はこの時期にいきなり成立したものではなく、両者ともヴェルサイユ体制下では国際社会から掣肘を受けたため、1922年にはラパッロ条約を締結して、互いの承認および秘密裏の軍事協力関係を結んでいる。
スターリンとヒトラーの接近も基本的にはこれに沿うものなのだが、1939年8月には独ソ不可侵条約が締結されて、両国の勢力範囲も確認されている。
ポーランドの東半分に加え、バルト三国、フィンランドもこの時、両国の間でソ連領にいずれ組み込まれることが確認されており、その後のスターリンの行動はこの時の合意にそって行われている。
スターリンはドイツに配慮して、外務大臣(外務人民委員)をユダヤ人のリトヴィノフからモロトフに換えることまでしている。
9月に入って、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、ドイツとの事前の協定に基づいて、ソ連軍はポーランド東部、バルト三国を接収、11月30日にはフィンランドに侵攻した。
ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて、英仏両国はドイツに宣戦布告をしていたが、ソ連に対しては将来の連合国化を期待する考えもあって宣戦布告には至っていなかった。
しかしこの時期のソ連はむしろドイツ側に立っており、西部戦線にまったく動きが見られない「まやかし戦争」の時期だったことから、連合国と枢軸国のある種の代理戦争としてフィンランド冬戦争が注目を浴びた。
英国はフィンランドを支援する意思はあったが、すでにノルウェーとデンマークをドイツによって押さえられていたことから、物理的に支援は不可能だった。スウェーデンを通じての支援もスウェーデンが中立国である以上不可能であり、フィンランドは単独でソ連軍と戦わざるを得なかった。
この時期、英米の交響楽団でフィンランディアがしきりに演奏されたが、精神的な支援以上のものではなかった。
ノモンハンを経て、赤軍の実力を過信していたスターリンだったが、フィンランド軍とそれを率いるマンネルハイムの徹底したゲリラ抗戦の前に思わぬ苦戦を強いられる。長期的な野戦において、ゲリラ戦を展開する相手に対して対応できるほどの充分な数の士官が大粛清後の赤軍には育っていなかった。詳しくはウィキペディアの冬戦争の項目を参照されたし。
結果、直接支配を諦めざるを得ず、外交交渉を通じてフィンランドのカレリア地方の割譲によって「満足」として軍を引かざるを得なかったが、ソ連軍の予想外の弱体ぶりを目の当たりにして、ヒトラーは後々の独ソ戦の開始を決意したらしい。
日本軍はノモンハンの経験があったから、大戦末期、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して侵攻してくるまではソ連とは戦わなかったが、フィンランドの善戦ぶりがヒトラーの判断をゆがませたというしかない。
1941年6月にヒトラーは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻していたが、スターリンはまったく予想もしておらず備えてもおらず、独ソ戦を行う意思もなかったので、ヒトラーさえ侵攻を決定しなければ、独ソの擬似的な同盟関係は継続していた可能性が高い。
そうであれば英国を屈服はさせられないものの、少なくとも10年やその倍程度はドイツの西欧支配は継続していた可能性はある。そうであれば状況は少し違っていたはずで、今日の世界も随分と違っていたはずである。
ある意味、フィンランドの善戦は世界を変えたのだった。



| | Permalink | 2008 log


inserted by FC2 system