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20080519

ライヒシュタット公

パリにあるオテル・デ・ザンヴァリッドは、日本語では通常、廃兵院と訳される。元々はルイ14世の創建になる軍事病院で、傷病兵を収容した。19世紀以後には軍事博物館になっており、フランス軍の著名な軍人の墓も置かれている。
第一次大戦で連合軍総司令官を務めたフォッシュ元帥の墓もここにあり、第二次大戦でパリ解放を成し遂げたルクレール元帥、植民地人からなる混成軍を率いて激戦のプロヴァンス会戦を制したド・タシニー元帥らも同様である。
フランス七月王政で成立したオルレアン王朝は、ブルボン王朝と同族ながら、フランス革命の自由主義的な成果を踏まえた王政として、ブルボン王朝との差別化を計った。
オルレアン王朝の王ルイ・フィリップの父、オルレアン公エガリテは自由主義的なサロンの主宰者で、革命初期には彼の居宅のパレ・ロワイヤルが革命の拠点となった。エガリテはルイ16世の処刑にも賛成票を投じている。
そうした性格を持つオルレアン王朝にとって、かつての皇帝ナポレオンはブルボン家が捉えたような簒奪者ではなく、自由君主政の先達だった。もちろん、傍系とは言えフランス王家に連なる彼らが成り上がりのコルシカ人一族に甘い感傷を抱いていたとは思えない。
しかしナポレオンは既に死に、その直系も既に絶えたとなれば、いずれにせよその時点では帝政は遠い過去の話であって、ナポレオン神話を自らの権力強化に利用しようとしたとしても不思議ではない。つまり、絶対王政のブルボン王家を追い払った、フランス革命の嫡子、自由帝政の継承者として、オルレアン家はボナパルティズムを利用しようとした。
1840年に、フランス王ルイ・フィリップは、王太子をセントヘレナに派遣して、ナポレオンの遺体をパリに護送させている。道中は偉大なる皇帝陛下を称えるセレモニーと群衆で埋め尽くされ、パリに到着後はオテル・デ・ザンヴァリッドに埋葬された。ナポレオンの遺体は今でもそこにある。
典型的なブルジョワ自由主義体制だった七月王政は、プロレタリアート勢力との抗争に破れ、フランスは再び共和国になり、その後、共和国大統領に選出されたルイ・ナポレオンが国民投票を経てフランス皇帝となり、帝政が復活するのだが、それはまた別の話である。

1940年6月22日、フランス共和国はドイツに対して休戦協定という名の事実上の降伏をおこなった。
パリに入城したヒトラーにとってはおそらく彼の生涯において絶頂の頃で、第一次大戦で失った領土を再び獲得し、屈辱を注いだ。
ドーヴァー海峡の向こう側でなおも咆哮する英国を叩き潰し、ゆくゆくは独ソ戦の開始をすでに検討していたヒトラーにとって、フランスを信用しないまでも懐柔しておく必要はあった。
懐柔策のひとつとして持ち出したのが、ライヒシュタット公の遺体のパリへの移送である。
既にオーストリアを併合していたドイツは、ハプスブルク家歴代の霊廟を抑え、その中には皇帝ナポレオンの唯一の嫡子のライヒシュタット公のものも含まれていた。
フランス人にとって、ナポレオンの息子の遺体を取り戻すことが象徴的には重要だと考えたヒトラーは、墓を掘り返して、棺を廃兵院のナポレオンのかたわらに埋めた。
こうして、ワーテルローの敗戦後、離れ離れになった父子は、一世紀と半世紀を経て、ようやく同じ屋根の下で眠ることになったのである。
ナチスドイツの没落後も、ライヒシュタット公の遺体はウィーンに返されることもなく、父の傍らで眠り続けている。

フランス帝国の継承者として生まれたライヒシュタット公は、4歳の時に父の没落に遭い、短期間、フランス皇帝ナポレオン2世として擁立されたものの、連合軍はボナパルト王朝の継続を認めず、パリにはブルボン王家のフランス王ルイ18世が入った。
4歳の‘皇帝’は母親のマリー・ルイーズとともに母の実家のオーストリア・ハプスブルク家に引き取られることになった。
当時、オーストリア皇帝の地位にあったのは、母方の祖父、フランツ1世である。
フランツ1世には13人の子女があったが、マリー・ルイーズはその次女で、長女は夭折していたので、彼女が事実上の長子だった。
フランツ1世にとって、ナポレオン2世(ライヒシュタット公)は初孫にあたる。フランツ1世の子らは、皇帝に孫を与えることが少なかったので、ライヒシュタット公は彼がほぼ成人するまでの間、皇帝の唯一の孫であり、唯一の男子の孫だった。
フランツ1世はナポレオンに散々、痛めつけられた経験からナポレオンを憎んではいたが、孫は溺愛していた。今やフランス帝国の前皇后となった、娘のマリー・ルイーズの難しい立場を処理するために、イタリアのパルマ女公とし、パルマの統治を委ねることによって、マリー・ルイーズをフランスから遠ざけると同時に息子のライヒシュタット公からも遠ざけたのは、メッテルニヒの言を入れた皇帝である。
マリー・ルイーズは将来的にはパルマの統治権が息子のライヒシュタット公に引き継がれることを期待して、この提案を呑んだが、ウィーンにいる頃は彼女はナポレオンの妻として振舞っていたので、「よからぬ影響」が孫に及ぶことを皇帝が危惧した結果ともいう。
ともあれ、ライヒシュタット公は両親と離れ離れになって、老皇帝とともにウィーンで養育されることになった。
彼はかつてはローマ王であった。フランス皇帝でもあった。少なくともフランス帝国の皇子であり皇太子であった。しかしワーテルローの後、フランス帝国そのものが概念として抹消された。
フランスには今や、ブルボン王家は復活しており、ルイ18世、シャルル10世と王位は伝えられ、シャルル10世の王太子妃はマリー・アントワネットの娘マリー・テレーズだった。
ライヒシュタット公がハプスブルク家の外孫であるならば、マリー・テレーズもそうである。
彼は8歳になるまで、フランスにまつわる称号をすべて剥奪され、ただのフランツであった。
フランツ ― フランス人としての名前、フランソワ・ボナパルトでさえなかった。皇帝の一族でありながら、ハプスブルク家の人でもなかった。さりとて、ボナパルト家の人間であってはならなかった。
それではさすがにということで、8歳の時にライヒシュタット公に叙され、以後はハプスブルク家の一員として遇され、そのように行動することを期待された。
ナポレオンの母、レティシア・ボナパルトはローマにあって、やがてはこの孫が再びフランス皇帝となることを夢想していた。それは彼女一人の夢想ではなく、ライヒシュタット公ならぬローマ王フランソワはボナパルティストの希望の星であり、実際、数度に及ぶ奪還計画が実行されている。
ことごとくメッテルニヒの緻密な監視網に阻まれたのだが。メッテルニヒは明らかに、ナポレオンの唯一の嫡男という、存在自体が危険なこの少年の死を願っていたが、ここに大きな矛盾があった。オーストリアとヨーロッパにとって火薬庫そのものであるこの少年は同時に皇帝にとって溺愛する孫でもあった。
祖父と孫という血統、不幸な家庭環境に対する同情、そうした理由があったにせよ、皇帝フランツ1世にとって、ライヒシュタット公を愛するべき理由は他にもあった。勤勉で、努力家で、美貌の人であり、同情心があり、正義心に厚い、土くれの中に生まれたとしても必ずやひとかどの人物となったであろうと思わせるほどの非常に優れた青年に、ライヒシュタット公は成長した。
ウィーンはなおもナポレオンの悪夢を記憶していたが、それでもこの青年はウィーン市民の心をわしづかみにした。彼はどこに行っても人気者で、花形だった。
孫が優れた人物になることは老祖父にとってはもちろん喜びだったろうが、成長した彼をどのように遇するべきなのかは、依然として難問だった。皇帝の孫としてはそれなりの顕職が必要である。
しかし自由を与えればボナパルティストにどのように利用されるかがわからない。
ラヒシュタット公自身があくまでハプスブルク家の一員としてとどまるのか、危険な賭けに挑戦するのか、それも定かではなかった。
ライヒシュタット公は当初は禁じられていたフランス語の学習にも精を出し、批判的なものも含めてナポレオンに関する書籍を読み漁っている。彼が父親を尊敬していたのは確かだが、ナポレオンに蹂躙されたウィーンで育った彼は、ただ盲目的に崇拝しているような、幼い人物ではなかった。
ナポレオン体制の光と影、その二面性を知ろうとしていたライヒシュタット公は、自身、二面性を持つ人物だった。ナポレオンの息子として、老フランツ皇帝の孫として。
父がそうであったからそうすることが父の息子であることの証であるかのように、若き軍人となったライヒシュタット公は過酷な軍事教練にいそしんだ。それがまたたくまに、彼の肉体を蝕み、僅か21歳で結核で、ライヒシュタット公は死んだ。
「あれはやたら頑張り屋で…」
と孫に先立たれた老皇帝はぼそぼそと呟き、涙したという。
メッテルニヒにとっては非常に喜ばしい形での最終的解決だった。ライヒシュタット公をもちろんフランスに送り出すわけにはいかない。さりとて、ウィーンに置いておくのも危険な存在になりつつあった。
フランス革命の血統として、若者にありがちな理想主義者として、ライヒシュタット公は保守反動のメッテルニヒの政策の明確な敵対者となろうとしていたし、王室の中で唯一、宰相に比肩し得る人望と才能を持つこの若者の存在は、政争上も危険となっていた。

ライヒシュタット公の没後、4年にして老皇帝は崩御し、ライヒシュタット公の叔父のフェルディナント1世がオーストリア帝国の第二代の皇帝として即位した。しかし、あいもかわらず、オーストリアは宰相メッテルニヒに牛耳られていた。
メッテルニヒの圧迫は市民のみならず、皇族にも加えられていた。メッテルニヒの排斥に動いた人物のひとりが、フランツ・カール大公妃のゾフィー・フレデリケである。
彼女はバイエルン王マクシミリアン1世の娘で、彼女の長姉はロイヒテンベルク公妃アウグスタ・アマリア、である。ロイヒテンベルク公は別項で先述したとおり、ナポレオンの養子(皇后ジョゼフィーヌの連れ子)のユージェーヌ・ド・ボーアルネのことであり、ワーテルローの戦いの最後までフランス皇帝に付き従った人物だった。
そういう事情もあり、ライヒシュタット公の生前は、ハプスブルク家一族の中でも特に親しい関係にあり、彼女の長男のフランツ・ヨーゼフ1世は後にオーストリア帝国皇帝となるが、彼女の次男でフランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたるマクシミリアン大公は、実は父親はライヒシュタット公ではないかという話もある。
いわゆる歴史小話というか、現状ではゴシップの域を出ないけれども、マクシミリアン大公が後に、フランス皇帝ナポレオン3世にそそのかされて、メキシコ皇帝となったばかりにメキシコ革命で処刑されたことを思えば、なにやら因縁めいたものを感じないでもない。
メッテルニヒの栄華は1848年、ライヒシュタット公没後16年後まで続いた。
1848年は欧州全土で自由主義革命が吹き荒れた年だが、オーストリアでも同様で、メッテルニヒは失脚し、ロンドンに亡命、残されたハプスブルク家の意思統一を計り、帝室を守ったのが、ゾフィー・フレデリケだった。
メッテルニヒの政策の中で生きていた旧世代を避け、いまだ青年のフランツ・ヨーゼフを皇帝に据えることに成功した彼女は、それ以後の人生において、フランツ・ヨーゼフ皇帝の皇后エリザベートを「苛めた」姑としてむしろ知られることになる。



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