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20080521

ネオリベラリズムの失敗

私自身は政治的にはリバタリアンであり、経済政策においてもそれに近い立場をかつてはとっていたが、90年代以後の惨々たる「グローバリズム」の失敗を見るにつけ、少なくとも経済政策的にはコミュニタリアン的な立場に軸足を移している。
自由を擁護する実際的な装置なしには自由は擁護され得ないからだ。私が求める自由とは、搾取されたり野垂れ死にする自由ではない以上、他人のそうした「追い詰められた自由」に無関心ではいられない。
非常に複雑な様相を呈する政治思想・経済思想において何が正しいのか、何が妥当なのかを判断するのは容易ならざることだが、20世紀を通して見た場合、経験的には以下のことが言えると思う。

・網羅的な計画経済は停滞と政治的強権を招く。
・経済は下部構造ではなく、上部構造であり、政治によって大きく変化する。
・セーフティネットに配慮しない自由競争は自由競争の基盤となる多数のプレイヤーの生存の破綻を招く。
・規制緩和による経済刺激は一時的な効果をもたらすに過ぎない。
・問われるべきは規制緩和をする/しないではなく、どの程度、どのような効果を期待して緩和するかである。
・徹底した自由貿易は自国の産業強化の役に立たず、いずれの国にとっても産業の脆弱化をもたらす。
・ポテンシャルの低い産業への保護主義は膨大な負担を公共部門に強いて、なおかつそれほどの効果を上げない。保護主義は否定されるべきではないが、その産業が存在する公共的な利益の程度と、成長性が勘案されるべきである。
・労働者は消費者であり、しかもこの性格の利害は対立する。消費者利益重視はイコール、労働者の不利益であり、労働者を保護する政策が同時に進められて、消費者保護は成立し得る。
・労働者は国民であり、労働者の利益が破壊された時に生じるのは、国家の衰亡である。

ネオリベラリズムは、それまでの福祉国家のアンチとしての意味はあった。
組合は経営のみならず政府化さえするようなスカーギル的な過重に保護的な福祉主義が産業の近代化の阻害要因となっていたのは明らかだからである。そうした不合理は福祉国家にも伴うものとして、さまざまな場面にあり、それらは是正されるべきことだった。
しかし同様に、行き過ぎから生じる不合理はネオリベラリズムにもあり、80年代にその思想が正義となって以後の、特にアメリカの荒廃はすさまじいものがある。
80年代を経過した諸国においてネオマルキシズムが成長し、若者に左傾化が見られ、左翼政権が成立しネオリベラリズム政権と比較して成果を上げているというのも、その直前にネオリベラリズムが存在していたからである。
1990年代のロシア経済の失敗はMITやシカゴ学派のマネタリズム経済学が実際のマクロ経済を運営する局面において、是正ではなく徹底として用いられる時、どれほど破壊的な状況をもたらすかを示している。
ケネス・ガルブレイスは、経済学を評して、本来それは純粋に数学的なものではなく、もっと歴史的なものであるというような内容のことを言っている。彼は経済学が文系に属する日本の状況を見て、実際にはそうした状況が望ましいとも言っている。
歴史における何らかの教訓がまさしく教訓であり定理的ではないように、経済学が過度に数学的に処理される状況に対して根本的な危惧を彼は持っていたのだが、今から振り返ればまさしく先見の明があったと言えるだろう。
政治と経済の分離がなされたうえでの経済学の政治への侵食が、国民国家、国民経済の危機の深刻化を招いており、日本において程度的にそうしたものをもたらしたとされている小泉純一郎元首相が他の有力政治家の大半が法学士であるのに対して経済学士であるというのも、示唆的な事実であるように思う。
グローバリズムはこれからも必然的に進展してゆく。通信や情報の融合という意味において。
しかしそれと、経済のグローバリズムが必然的に進行する、進行しなければならないということはまったく別のことであって、IMFが主導するような経済グローバリズムに合致した政策をとった国ほど、発展から取り残され、国民経済の危機が強まっているのも現実の事実である。
いちはやく、事実にそぐう形での、新しいマクロ経済運営と国民国家の再構築に着手した国ほど今世紀において主要なプレイヤーとなるだろう。



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