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20080522

国民の創生

承久の乱は真に武家政権が成立する日本史上の契機だった。
当時、朝廷の権を掌握していた後鳥羽上皇が政務をわたくしし、国政を混乱させた悪王であったことは、多くの同時代人の証言もある一般的な評価である。
人事において恣意的に過ぎ、訴訟において偏っていた。かの人が王法を守り得ない王であったことは明らかである。では、王と王法はいずれが優先するのか。
王法が優先するとしたのが北条義時、北条泰時らの態度であって、この時に武家政権の人治傾向の脱却が生じたといえるだろう。つまり悪法は法ではないのである。
実際に処分とその後の運営を担った北条泰時は、個人としてこの矛盾に直面した人だった。かの人の内面は中世的な忠義を重んじる平均的な中世人そのものであったが、その人にして中世的な道徳概念だけでは対処し得ない現実の問題が突きつけられたのだった。
そのうえでかの人が導き出した答えが、法の人に対する優越であり、政府とは機関であり、わたくしのものではないとする思想である。
そして政府とは万民のために存立するものであり、万民の下に政府があり王があり武家があるとする革命的な世界観である。
この思想のもとに、北条泰時は上皇や天皇を処断した。つまり王を廃するほどの絶対的な正当性をこの思想に見出したのだから、必然的に北条泰時はこの思想の守護者となり、奴隷となるよりなかった。
彼が日本史上の為政者のうち、もっとも私心がなく、もっとも徳政を敷いたと評されるのは、彼の行動の帰結であり、彼の政治姿勢は彼が打ち立てたイデオロギーの結果だった。
この時に、究極の法源として民衆が置かれる擬似的な共和国に日本は変質した。
武家政権とは、変種の共和政治である。
後醍醐天皇の目指した王政復古とは、王法の上に王を置く絶対君主政の復活であり、共和国への敵対であった。そしてそれは法の支配の前に敗れ去ったのである。後醍醐天皇は復古主義者であると同時に共和国に対する反逆者であり、今日的な視点から言えばまさしく人民の敵である。
室町時代を経て、織豊政権の時代、秀吉がキリスト教に激怒したのは、日本人をスペイン人やポルトガル人が奴隷にし、新大陸に送り込んでいるという事実だった。
これはもちろん今日から見てしごく真っ当な憤慨であるように思う。しかし、考えてみれば、当時のアジア諸国においては為政者がこのような憤激を生じさせることの方が珍しかった。為政者にとって民衆とは世襲財産のようなもので、利益があれば資産を切り売りするのが普通であるように、民衆とは封建制度にあってはそのようなものだったからだ。
古代の日本の王たちも同じような局面では当然のように奴隷を輸出している。
それに秀吉が憤ったというのは、彼の庶民出身という個人的な経歴によるものだけとは思えない。こうした報告があがるということ自体、それが問題であるとするコンセンサスがあったからで、少なくとも中央政府やそれになり得る権力においては、統治者から民衆までを含めて国民とみる思想があったのだと考えられる。
国民国家とはまさしくそのようなもので、それは市民社会の後に構築されるものである。
国民国家とは事後的に創設されたものであって所与のものとして存在するのではない。政権や王朝と国家はイコールではない。
国民国家を解体して、市民社会を推し進めるということは、同じ国の民衆を奴隷として売ることがあり得るということだ。
王法の上に王を置くということでもある。
グローバリズムが進行する世界において、市民化が進むからこそ、求められるのは国民国家の強化とその再構築である。
それは国民の大多数を、ジンバブエのように政権あって国家なし、という如き状況に置かないために必須のことである。



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