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20081125

国民の心

メディチ家はふたりのフランス王妃を出している。
カトリーヌ・ド・メディシス(アンリ2世妃)とマリー・ド・メディシス(アンリ4世妃)である。
ロレンツォ・イル・マニフィーコの曾孫にあたるカトリーヌの頃には、フィレンツェにも、そして銀行家としてのメディチ家にも斜陽が射していたのだが、この時期、メディチ家はレオ10世、クレメンス7世というふたりの教皇メディチを輩出し、富によってフィレンツェを統治するのではなく、剣によってフィレンツェを統治する時期に移行しつつあった。
つまり、メディチ家の世襲君主化、トスカーナ大公国の成立である。
イル・マニフィーコの嫡系にあたるカトリーヌの、フランス王家への輿入れはこの過程の一環として捉えることが出来るが、そうした政略的な利益を差し引いても、フランス王家からすればこれは明白に貴賎結婚であり、カトリーヌの夫、アンリはそもそもは王位を継承する予定にはなかったからこそ、かろうじて認められたようなものである。
この結婚政策によってメディチ家は、ただの銀行家一族は聖別されたに等しい権威を徐々に獲得していった。
フォークもアイスクリームもナプキンも、カトリーヌによってフランスにもたらされたとされているものは多いが、フィレンツェはもちろん当時としては文化的先進国ではあったが、それでもこれが貴賎結婚であり、カトリーヌが万事につけ控え目であることを強いられたことは踏まえておく必要がある。
皮肉にも、アンリ4世妃マリー・ド・メディシス(ルイ13世母)は、カトリーヌ・ド・メディシスの娘である前王妃マルグリットを追い出す形でその後釜に坐ったが、その時にはもうメディチ家を表立って身分卑しいとする声は、カトリーヌの時ほどは大きくはなかった。
フィレンツェはますます衰退しつつあったが、メディチ家は世襲君主家として、ヨーロッパにおけるヒエラルヒーの中では地位が上昇していたからである。
この地位の上昇が、一方でオーストリアやフランスの勢力と結びつき、イタリアにおける総督のような中間管理職めいた役割を担うにつれ、イタリアの衰退ははなはだしくなってゆく。
トスカーナ大公家たるメディチ家も1757年には断絶、以後はハプスブルク・ロートリンゲン家の統治するところとなり、フィレンツェもまた皇帝の支配下に組み込まれてゆく。
中世イタリアを分割した5大国、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ(含む、ジェノヴァ)、ナポリ、そして教皇領のうち、19世紀までには縮小した教皇領とヴェネツィアを除いておおむねオーストリアの統治下に入り、ナポレオンのイタリア制圧に伴って、ヴェネツィアもまた独立国としては終焉を迎えたのだった。

リソルジメントと、20世紀のファシズムにも連なる、イタリアの国民国家の創生への意欲は、大国間、特にオーストリアとフランスの間で翻弄された屈辱を抜きにしては語れない。
常勝にして不敗たるボナパルトが軍神さながらの傑出した戦功と、ジャコバン派とテルミドリアンによって熟成された革命思想をイタリア人たちの前に鮮やかに提示した時、イタリア人たちは彼こそがイタリアを解放するものと半ばは信じたのである。
事実上はまったくのフランスの傀儡であったチェザルピナ共和国をボナパルトが北イタリアに打ち立てた時も、これという抵抗もなかったが、直後にボナパルトがオーストリアと和し、そればかりでなくヴェネツィア東部をオーストリア領として承認したことから、イタリア民族主義者たちの期待は裏切られたのである。
あまつさえ、彼は皇帝となった後、義弟のミュラを、菓子を与えるかのごとく、ナポリ王の位につけ、それはイタリアに対してのみではなかったが、ともかくイタリアの自立は明らかに望まぬように転じたのである。
第一帝政の没落後も、イタリアには以前のように再びオーストリアが支配者と乗り込んできただけであり、ブルボンだの、ハプスブルクだのという外来王朝が虫食いのようにイタリアを蚕食していた。
外国のくびきから離れるためには、農奴のようにやり取りされる王朝の民であることを止めて、唯一の王国の民、国民となる必要があったのである。
デ・アミーチスの「クオーレ」はそうした国民の創生という文脈から書かれたものであるが、もちろん、国家主義というか、国家を純朴に褒め称える視線は、ファシズムにも転じ得るものであり、事実、そうであった。
しかし、「クオーレ」が目指した道のりの先にファシズムがあったのだとしても、もう一方の先には分割され、軽視され、あるいは無視され続けたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世以前の「国家なきイタリア」が出発点としてあったのであり、「ちょうどいいところ」では結果的には止まらなかったわけである。
ガリバルディとムッソリーニの間に、目的意識においてそう大きな違いがあったとは思えない。
「クオーレ」的なものがファシズムにつながる遠因にあったというのも事実であるならば、クオーレ的なもの、あるいはヴェルディ的熱狂があればこそ、イタリアは国家として再生し得たのである。
多くの事柄がそうであるように、ここにも二面性がある。
そしてまた徹底された善は、容易に行き過ぎた悪にも通じるひとつの例がここにはある。
私たちはクオーレ的修身の時代の先に生きており、もちろんそれがファシズムにも通じた歴史を知っている。しかし同時にクオーレ的修身、あるいはヴェルディ的熱狂によって確かに国民が喜びを感じた、それによって救われたと強く思ったという時代もあったことも、歴史として知らなければならない。



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