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20081126

19世紀のダイアナ

1714年にハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒが、英国王ジョージ1世として即位したことに始まるハノーヴァー王朝は、六代、ヴィクトリア女王が崩御した1901年まで、約200年続く。
ハノーヴァー家には奇矯なところがあって、家族の内紛、不仲がいずれの世代にも見られた。それは、それ以前のスチュアート家やチューダー家と比較しても程度が甚だしく、不仲と言う言葉では片付けられないほどの陰鬱さに満ちている。
夫と妻が対立し、親と子が反目する。もちろん例外はあったにせよ、そのいずれからも逃れられた例はほとんど無い。
そもそも開祖たるジョージ1世にしてから、この人は妻を32年も幽閉した人だった。
ジョージ1世の妻、ゾフィ・ドロテアを英国王妃と簡略化して表記する本もあるがこれは正確ではなく、ジョージ1世が選帝侯位、王位を継承するよりも前にゾフィ・ドロテアは離縁されている。原因は彼女の不倫にあったが、そもそも彼女が不倫に走ったのは、夫の不倫と無関心、暴力ゆえだったのだから、自分が不倫されたからと言って激怒するのも、身勝手というしかない。
離縁してなお、元妻を幽閉し、自ら会うこともなければ子供たちに会わせることもしなかった。
ゾフィ・ドロテアの不倫相手ケーニヒスマルク伯は19世紀に入って、ハノーヴァー選帝侯の居城から白骨死体で発見されたが、ジョージ1世が関与していることは疑いも無く、彼は法律的刑事罰を執行を除外した殺人を犯した、英国王歴代でも余り例のない王だった。
ジョージ1世の後を継いだジョージ2世からすれば事情はどうであれ、父は彼にとっての母を虐待した人物に他ならなかったのだから、彼の場合は、父親と不仲になるのもやむなしと言える。
ジョージ2世の妹、母と同名のゾフィ・ドロテアは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムに嫁いだが、彼女が産んだのがかのフリードリヒ大王である。
フリードリヒ大王もまた父王とは不仲だったが、それもまたハノーヴァーの血の影響かも知れぬ。
ジョージ2世については父親との不仲はやむなしと評するにしても、自身の息子、フレデリック皇太子との不仲については、同情は寄せ難い。
フレデリック皇太子がいかに奇矯な行動があったにせよ、彼の息子に対する敵愾心は異常だった。ジョージ2世の王妃、フレデリック皇太子の母のキャロライン・オヴ・アーンズバックは、賢王妃として知られる優れた政治家の資質を持つ、事実上の「統治者」だったが、彼女もまたフレデリック皇太子を毛嫌いしていた。
実の子でありながら、その死を願うような発言を何度も周囲にしている。
どう考えても人の親としてまともではない。
それに較べると、フレデリック皇太子自身は比較的穏健な夫婦生活、親子関係を築いたが、彼は王位を継ぐ前に死去し、王位はジョージ2世からフレデリック皇太子の長男のジョージ3世へと引き継がれた。
愚王の見本市のようなハノーヴァー王朝にあって、ジョージ3世とヴィクトリア女王のみは比較的まともな部類に属するのだが、ジョージ3世は責任内閣制が既に発足していた英国にあって、親政を試みては議会と対立し、挙句の果てにはアメリカ独立戦争、フランス革命という国難の連続に直面し、精神がすっかり狂ってしまった。
狂王といえばだいたい、バイエルンのルートヴィヒ2世(ワグナーのパトロンとして知られる)か、ジョージ3世を指すのだが、狂王や狂帝という形容が、だいたいは「狂人のような」なる意味の比喩的なものであるのに対し、ジョージ3世の場合は真実に狂っていた。
よく真面目な人ほどプレッシャーに弱いというが、ジョージ3世の場合はおそらくそれに相当し、彼の責任感、生真面目さ、倫理を疑う人はほとんどいないが、さりとて地位に相応しい人物であったかというと、素直にそうだという人もあんまりいないのだ。
外にあっては国難の連続、内にあっては子供たちの不行状と、ジョージ3世にとって嘆きの種は尽きなかった。
結果、ジョージ3世の治世の末期は、皇太子でもあったウェールズ公ジョージ(ジョージ4世)が摂政(リージェント)を務めたが、ロンドンのリージェント街は当時の摂政皇太子を記念してその名称があり、この地区で流行したヘアスタイルをリージェントスタイル(リーゼント)とも言う。
前置きが長くなったが、今日の話は、摂政皇太子でもあったジョージ4世とその妻の話である。


キャロライン・オヴ・ブランズウィックはドイツの女性で、ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公家の人である。
ハノーヴァー選帝侯家はブラウンシュヴァイク・リューネブルク家(ヴェルフェン家)だから広い意味で同族である。
美貌で知られ、ドイツ社交界の花形で、結婚前にも浮名をひとつふたつ流し、地位にそぐわぬ軽薄さで陰口も叩かれていた。
名門他家との縁談もあるにはあったが、彼女の行状のために多くは相手側から断りを入れて破談になっており、英国王室のジョージ皇太子との縁組は彼女にとっても渡りに船だったろう。
ジョージ皇太子は複数の愛人と膨大な借金を抱えており、嫡子の不行状に頭を抱えたジョージ3世は、息子が身を固めてくれるなら、適当な身分の女ならば誰でもいい、くらいの気持ちになっていたので、貴婦人であるには違いないキャロライン・オヴ・ブランズウィックをジョージ皇太子が気に入っているのであればとやかく言う気もなかった。
皇太子ジョージにしてみれば、愛人との気楽な生活を終わらせたくはないにせよ、結婚をすれば借金も清算してくれるというので、肖像画で見て美人だったので、キャロライン・オヴ・ブランズウィックを嫁に迎えることに同意したのだった。
しかし実際に会ってみれば、肖像画ほどの美女でもなければ、体臭もすこぶるきついというので、早々に破約を考えたほどだったが、なかなかそうもいかずに結婚はしたものの、一瞬たりとも妻に親しむことはなかった。
子供が一人、シャーロット王女が生まれればとりあえず世継ぎは確保したということで、別居生活、公でも妻と接触も持たずに、妻を皇太子妃として遇することもしなかった。
皇太子は父王に離婚したい旨を訴えだが、ジョージ3世は「王族の結婚は個人のものではなく国事であるということをおまえは忘れている」と説教されて却下された。
たまりかねたキャロライン皇太子妃は、夫を弾劾する内容の記事を新聞に発表、これは一大スキャンダルになり、世論はキャロラインに同情的になった。
英王室のメディア、世論誘導を巻き込んでの家庭内不和はこのあたりに起源がある。
それでも皇太子ジョージは妻に対する姿勢を変えず、徹底的に無視をした。同席を拒むばかりか、妻が皇太子妃の礼遇を受けることさえ拒否している。
自身が王位に即位した時には、妻を王妃として戴冠させることを拒否したのみならず、戴冠式への出席自体を拒むという、公共の人としての態度のかけらもない幼稚な振る舞いに出ている。
しかしながらキャロラインが単に悲劇の人だったかというとそうでもなく、彼女は彼女で元が軽佻浮薄な人だったので、次々と不倫が発覚し、次第に世論の弾劾も厳しくなって英国にはいられなくなり、娘のシャーロット王女の出産による死亡の時にも、その知らせをフランスで聞いている。
人の運命は分からないものであるが、人気という点で言えば20世紀末の英国皇太子妃ダイアナも、あるいはちょうどいいところで死んだのかも知れない。彼女には彼女で不行跡があったし、明らかにアウトサイダーであるアラブ人富豪のドディ・アルファイド氏と結婚するようなことがあれば、彼女が築いてきた名声は地に落ちていたかも知れない。
ダイアナは早死にしたキャロライン・オヴ・ブランズウィックであり、キャロライン・オヴ・ブランズウィックは長く生きすぎたダイアナである。
キャロライン・オヴ・ブランズウィックは名ばかりの夫に先立つこと、9年にして旅先(というか流浪先)で死去したが、夫はその遺体を汚物でも扱うかのように、英国に埋葬することさえ拒否して、故国のドイツで埋葬されている。
すべての英国王妃の埋葬地を知っているのではないが、ともかく近代においてはおそらく唯一の、英国外に埋葬された英国王妃が彼女だった。
ジョージ4世が崩御した時、タイムズ紙はこの国王に「親不孝者、最悪の夫、親のクズ、不良の国民、悪い国王、そして悪い友」なる最大限の酷評を与えているが、どうせ長く生きるならこの時まで生きていれば、キャロライン・オヴ・ブランズウィックも少しは胸のすく思いがしただろうに、人生はなかなかままならぬものである。



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