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20081127

飢餓を考える

1859年、トマス・オースチンという人物が数羽のアナウサギをオーストラリアに放った。
それから20年後には年間880万羽のアナウサギが莫大な労力と費用をかけて駆除されるようになった。
それも焼け石に水で、20世紀半ばにはオーストラリアに生息するアナウサギは5億羽と推定され、オーストラリアの生態系に影響を与え、農作物に深刻な被害をもたらし続けている。
オーストリアにアナウサギの天敵がいなかったことなどから彼らの旺盛な繁殖力がフル回転した結果であるが(何せげっ歯類だから)、生めよ増やせよ地に満ちよ、チーターやジャイアントパンダなど、極端に繁殖力が低い幾つかの種を除いて、哺乳類もまた捕食者による淘汰圧がなければ限界ぎりぎりにまで増加するメカニズムがあらかじめ備わっているのだと言える。
その場合、個体数を規定するのは餌の量によってであり、つまり大抵の動物は、彼らが依拠する食糧によって支えられる限界ぎりぎりまで個体数を増加させる。むろん、例外はいくつかあり、それぞれ別個の考察をそれらには加えないといけないけれども。
この世界に生きている動物はデフォルトで飢えている。
飢えていないという場合はどういう場合かを幾つか考えてみる。
ひとつには捕食者による淘汰圧が大き過ぎ、食糧の総量による淘汰よりも致命的である場合。
ひとつにはなわばりなどの要因によって性衝動が抑制され、食料の総量による淘汰以前に空間的制約を受ける場合。
オーストラリアのアナウサギはそれらの条件にはあたらず、増えられる限り増える。そして人間もまた、天敵を持たない、特殊な性衝動抑制要因を持たないなどの条件で言えば、オーストラリアのアナウサギと条件は同じである。
これは何を意味するかと言うと、飢餓があるところでは、食糧増産によっては飢餓は解消しない、ということなのである。
その地域で飢餓があるということは食糧生産能力、あるいは消費可能分生産能力に対して、限界まで人口を拡大する社会構造をその社会が持っているということである。これが農耕社会で特に顕著に見られるのか、狩猟・採集社会、あるいは牧畜社会では程度としてはそうでもないのか、これはまた別のテーマとして考える必要があるけれども、飢餓を克服する手段として食糧増産政策をとったとしても、天井まで人口が急速に(現代では10年もたたないうちに)増えるのであれば、増産された分がまたデフォルトな生産能力として、人口支持能力の限界ラインとなるだけのことである。
1950年代以後の緑の革命が失敗に終わったと言っていいのは、水資源の枯渇、塩害などによって生産能力が維持されず、灌漑によって得られる新たな農地と同じ程度の灌漑農地が不毛の地となり廃棄されているからであり、それが飢餓構造の抜本的解決にはつながらなかったからである。
飢餓構造を維持したままでの食糧増産、あるいは食糧援助は、問題を更に大きな規模で再生産するだけであり、これは問題の解決にはつながらない。デフォルトで規模の拡大を招くことから、むしろ問題の悪化に寄与することになる。

農産物を作った人が必要な分を消費する、これが原始的な農業社会モデルであるが、灌漑の整備などによって余剰生産物が飛躍的に伸びる時期がある。
人口の伸び、環境の破壊の速度に対して、余剰生産物の伸びがより高い時、その時間差を利用して非生産人口の増大化が行われる。
それが国家、支配階級の形成につながっていくわけだが、ひとたびそういう構造が成立した場合、非生産者を含めてデフォルトの人口となり、余剰生産物の減少・枯渇という事態が生じた時、ひとつの社会内部では淘汰が生産者・非生産者に同等か、もしくは実際にはより前者に強くかかってきた。
日本の戦中戦後、都市では深刻な食糧不足が発生したが、食糧生産のインフラが致命的に破壊されたのではないにも関わらずそうした事態が発生したのは、流通機構、分配機構の問題だろう。
都市住民は食糧生産という点においては非生産者であるが、それだけに生産物を何らかの形で集積する機構やメカニズムがあらかじめ備わっている。
農村で不作などから飢餓もしくは極端な貧困が生じた時、平時においては都市住民がより緩やかな形でそれに直面することが多いのは、流通機構の整備によってリスクヘッジがなされていること、農産物を商品化することによって価格の増大という形でその危機を緩和することが出来ること等等が理由として考えられる。
農村では農作物はそこに「ある」ものであるから、これを集積する機能に欠けている。
都市の場合は農産物の商品化、流通機構の整備、権力機構による収奪などの集積手段があるのであり、平時であれば、むしろそれは農村の飢餓リスクよりもより安全なところに都市のリスクを設定することが出来る。
そうした機構が何らかの理由で機能しないか、飽和した時に都市の飢餓は本格化するのであって、戦後日本で発生した飢餓は諸々の社会インフラの破壊、停止状態によるところが大きかった。
食糧、農産物は食糧であると同時に商品であるのである。
これは飢餓においては不作などによる供給量の減少もさることながら、商品として流通させるための機構の不備、商品として購入するための購買能力の低下が大きな原因として立ち表れることを示している。
それが極端に破滅的なものでない場合、都市の方がより不作に強いのは、一般に都市の方がフローとしての経済力があり、流通させるための機構が揃っているからである。
小作人制度などによって農村共同体が産業化されている場合、不作などによって飢餓に直面させられるのは、商品としての食糧を購入する力の脆弱な農村の貧農なのである。
1845年から5年間続いたアイルランドのジャガイモ飢饉では、当時850万人いたアイルランドの人口のうち、400万人程度を除いて、餓死したり、移民を余儀なくされている。
にもかかわらずイングランドの食糧供給地としての性格を持っていたアイルランドでは飢餓の最中であっても、小麦などがイングランドに大量に輸出され、イングランドではこの飢饉の影響を軽度にしか被っていない。
1970年代に発生したバングラデシュの大飢饉は、都市における輸出産業の低迷によって引き起こされた購買力の低下が原因であって、単純に人口で生産キロカロリーを割ると、充分に人口を支持できるだけの農産物が当時においてもバングラデシュでは生産されていた、いやむしろ豊作であった。
貧困流入者の増大などによる都市の購買力の低下、政府の輸出奨励などによって飢餓が引き起こされたのである。
飢餓が発生するには複雑な要因が絡み合っている。
農産物の不作による供給量の絶対的な減少、それが飢餓を発生させる要因のひとつであることは間違いないが、それ以外の要因によって飢餓が引き起こされる例の方が多く、飢餓にさらされない方策としては購買力の有無がむしろ致命的である。
終戦直後の日本の飢餓状況でも、その人がどこに住んでいたか、どれだけの購買力を持っていたかなどによって大きく状況が違う。
個人差がかなり大きいのだ。
平時において、農村が都市に対する食糧の供給地であるということは間違いないことであるが、食糧もまた商品である、商品であると扱われるという側面を考えた場合、流通機構が破壊され、都市住民の購買力が低下した時には農村は都市住民にとってはまったく頼りにならない。

私たちは食糧がなければ生きてはいけない。それは確かである。しかし食糧だけでも生きてはいけないのもまた事実である。
食糧の生産者は、消費者の生命線を握ると同時に、消費者に消費して貰わなければ彼らの生活もまた成り立たないのである。
食糧を増産することが飢餓の解消とまではいかなくても一時的な緩和につながるとしたならば、それはどういう場合であろうか。
まず生産者イコール飢餓ライン上にある消費者である場合。
この場合の生産者とは生産物を所有する者をいい、生産労働に従事はしていても生産物の処分権はない小作農などはその限りではない。彼らは農村労働者であって、ブルジョワジーとしての生産者ではない。
これについては食糧生産者がもともと飢餓ライン上にあること自体が稀である。元々の土地が痩せている、天災などによって自分たちが消費する分も賄えないなどの理由で生産者でありながら飢餓ラインにいる場合、緑の革命による食糧増産は確かに飢餓を緩和する効果をもたらすであろう。
ただしそのような劣悪な環境にあったということは、彼らの社会構造、人口規模が適正にあるとはみなしがたいということであり、人口の重さそれ自体による負荷が緑の革命をデフォルトなものにするだろう。
飢餓は人口爆発によってもたらされるものではないとする考えもあるが、生産者がすでに飢餓ラインにある場合は生産性と人口支持力のアンバランスが如実に反映されると私は考える。
ただ、実際にはそれ以外の要因で飢餓が引き起こされている例の方がより多いということだ。
一国、一地域が閉じた経済圏を構成しているならばともかく、大抵はそうではないので生産者は輸送コストを含めたとしても、収入が最大化する場所で生産物を販売しようとする。
国際的に市場が確立している小麦のような「商品作物」を作り、自分たちで消費する分以外の余剰生産物は価格が最大化する場所、それは普通は国内市場ではない場所で売られることになる。
農産物を輸出することによって外貨を稼ぎたい政府がこれを規制することは稀であるし、その場合、購買力のない者より順に飢えることになる。
開発途上国一国の中において、農地が自作農化されていない、地主制度なりプランテーションがあるのだとしたらそれは、貧弱な購買力しか持たない消費者を多く作ることになる。
ここでもやはり富の不均衡、国内的にも国際的にもある富の不均衡によってもっとも弱い者、つまり貧弱な購買力しか持たない消費者が最も鋭い痛みを受けると言うこの世界に普遍な構造が生じている。
この富の不均衡があるところには飢餓が発生し、それは先進国内部においてさえそうである。
4000万人のアメリカ人が貧困からくる欠食状態にあり、1990年代においてさえ、英国では階級間での体格差、死亡率に開きがある。
飢餓を減少させるためには自作農の育成は是非ともなさなければならないことである。
それは生産者を増やし、貧弱なる購買力しか持たない消費者を減少させるからである。
それはもちろん富の平均化に貢献するであろう。
また、貧弱なる購買力しか持たない消費者をそうではない消費者にする必要もある。これは産業の発展による中間層の育成ということになるだろう。ただしそのための原資は輸出によって稼ぐしかないので、ここが非常に悩ましいところである。
これをするためには生産性を向上させると同時にやはり人口圧の負荷を緩和し、ひとりあたりの所得を増やし国内市場を育てていくことによって経済がある程度、国内で循環する仕組を作るしかないのであって、人口問題を軽視し過ぎるのはやはり問題がある。



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