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2008log



29981202

人頭税は悪い税か?

税というのはどうあっても評判が悪いものであるが、英国のサッチャー政権が末期に導入した人頭税(これは地方税であるが)ほど悪し様に言われたのも珍しかろう。
結局、導入後3年にして廃止になっている。
人頭税とはその名の通り、個々人にかかる税であり、生きている人間である限り特別な免除がなければ支払わなければならない。フローの大小には関係なくかかってくる税だから、逆進性が高いのである。
これが国税でなく地方税というところがミソで、人頭税支持派に言わせると以下のような理屈になる。
誰であれ、政府・自治体・公共機関が提供するサービスを享受している。
水道をひねれば水が出るし、外に出れば道路を歩く。
街路樹に心を和ませるであろうし、図書館も利用しているだろう。
そういうものはすべて税金によって賄われているのである。受益者負担の原則に立てば、経費を単純に頭割りした額を負担するのは無理だとしても、住民である限り幾らかは負担するのが当然であり、それが地方自治体、地域コミュニティへの関心とオーナーシップを高める。
と、いうような理屈になる。
いかにも雑貨屋の娘らしい発想、一族で初めてオックスフォードに進学した女性ならではの中産階級的“self help”世界観であるが、地域コミュニティを世界の基盤に据える発想は、それがイングランド的ではないとは言わないけれども、それよりも優れてピューリタン的であるのを感じる。
The American Guy であったレーガンとは馬が合うはずだ。
人頭税はむろん逆進性はあるわけだけれども、人頭税推進派がいうようなメリットも無視しがたいもののように私は思う。サッチャーはこれを固定資産税の廃止とあわせて実行したために、いうまでもなく資産家に有利で貧困層に不利な結果になったのは明らかで、右翼の馬脚をあらわしたというか、これが原因でサッチャー政権はハウ、ヘーゼルタインらの反乱が起こり、終焉を迎えたのだった。

サッチャー政権の例はともかく人頭税が妥当かそうでないかは、実際にどれだけの税が課せられるか、その額の設定にかかってくる。
極端なモデルとして、累進課税による所得税である自治体の税収がすべて賄われており、それをそのまま人頭税に差し替えたならばこれは逆進性がはなはだしくなる。
そうではなく、人頭税をひとりあたま10万円くらいにして、残りを幾つかの税を組み合わせる、そうした柔軟な税収構造を作れば逆進性はずっと緩和されるだろう。
個人にかかる税は、日本の場合は直接税にしろ間接税にしろ、フローにかかるものが中心になっており、ストックにかかるものとしては、固定資産税、相続税が中心である。
つまり資産がなく、所得がない場合は、税が基本的には発生しないという構造がある。
もちろん、生活保護でも受けていないのであれば、資産がない、所得がない状態では生きてはいけないから、その場合は誰かがその人を扶養しているということになる。
親が資産百億円で、当面、当人は相続していないけれども、親の金で遊びまくっている人は、税金を支払っておらず(消費税はその場合、“親”が払っているのである)、時給800円で週休1日でかつかつ食っている人は仮に控除を受けていたとしても自分で稼いだ金で消費しているのだから、税金を支払っているのである。
まあ、このような極端な例はなんだけども、最近問題になっている引き篭もりの場合、何が問題かというと、大抵の引き篭もりには資産もなく所得もないことから税金が取れないことが国家的には問題なのである。
人頭税があれば、人頭税は資産にでもなくフローにでもなく、まさしく個々人にかかるのであるから、額は少なくても「本来、税をとるべき人」から税をとることができる。
税を払ってからであれば、引き篭もろうが何をしようがそれは当人の自由である。国家の問題ではない。
しかし控除すべき特別な理由もなしに、税を払わないのは、国民の義務の不履行であり、それが現在、システム的に可能なのだとしたら、これはシステム上の不備である。
学生でもない、健康上の傷害があるわけでもない、育児・介護などの社会的な責務を果たしているわけでもない人で、成人している人であれば、本来、国民の義務として勤労と納税の義務を負うのである。
仮に人頭税が10万円だとして、それくらいであればそれも含めて親が支払うかも知れない。それは好ましくはないけれど、そこから先は家庭内の自由ということにしておこう。
人頭税が100万円であれば、親も払いきれぬかも知れない。そうなれば、どうしたって働かざるを得ないのである。
学校を出たら就職して、税を納めて、というモデルが、必ずしもあたりまえのものでなくなりつつある以上、フローにかけるというこれまでの税制のありようもまた改めていかなければならない。
人頭税はそのひとつの、解、である。
人頭税導入は引き篭もり対策にとどまらない、「市民社会」の徹底化に貢献すると私は考えているのだけれども、それについてはおいおい述べていこうと思う。



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20081127

飢餓を考える

1859年、トマス・オースチンという人物が数羽のアナウサギをオーストラリアに放った。
それから20年後には年間880万羽のアナウサギが莫大な労力と費用をかけて駆除されるようになった。
それも焼け石に水で、20世紀半ばにはオーストラリアに生息するアナウサギは5億羽と推定され、オーストラリアの生態系に影響を与え、農作物に深刻な被害をもたらし続けている。
オーストリアにアナウサギの天敵がいなかったことなどから彼らの旺盛な繁殖力がフル回転した結果であるが(何せげっ歯類だから)、生めよ増やせよ地に満ちよ、チーターやジャイアントパンダなど、極端に繁殖力が低い幾つかの種を除いて、哺乳類もまた捕食者による淘汰圧がなければ限界ぎりぎりにまで増加するメカニズムがあらかじめ備わっているのだと言える。
その場合、個体数を規定するのは餌の量によってであり、つまり大抵の動物は、彼らが依拠する食糧によって支えられる限界ぎりぎりまで個体数を増加させる。むろん、例外はいくつかあり、それぞれ別個の考察をそれらには加えないといけないけれども。
この世界に生きている動物はデフォルトで飢えている。
飢えていないという場合はどういう場合かを幾つか考えてみる。
ひとつには捕食者による淘汰圧が大き過ぎ、食糧の総量による淘汰よりも致命的である場合。
ひとつにはなわばりなどの要因によって性衝動が抑制され、食料の総量による淘汰以前に空間的制約を受ける場合。
オーストラリアのアナウサギはそれらの条件にはあたらず、増えられる限り増える。そして人間もまた、天敵を持たない、特殊な性衝動抑制要因を持たないなどの条件で言えば、オーストラリアのアナウサギと条件は同じである。
これは何を意味するかと言うと、飢餓があるところでは、食糧増産によっては飢餓は解消しない、ということなのである。
その地域で飢餓があるということは食糧生産能力、あるいは消費可能分生産能力に対して、限界まで人口を拡大する社会構造をその社会が持っているということである。これが農耕社会で特に顕著に見られるのか、狩猟・採集社会、あるいは牧畜社会では程度としてはそうでもないのか、これはまた別のテーマとして考える必要があるけれども、飢餓を克服する手段として食糧増産政策をとったとしても、天井まで人口が急速に(現代では10年もたたないうちに)増えるのであれば、増産された分がまたデフォルトな生産能力として、人口支持能力の限界ラインとなるだけのことである。
1950年代以後の緑の革命が失敗に終わったと言っていいのは、水資源の枯渇、塩害などによって生産能力が維持されず、灌漑によって得られる新たな農地と同じ程度の灌漑農地が不毛の地となり廃棄されているからであり、それが飢餓構造の抜本的解決にはつながらなかったからである。
飢餓構造を維持したままでの食糧増産、あるいは食糧援助は、問題を更に大きな規模で再生産するだけであり、これは問題の解決にはつながらない。デフォルトで規模の拡大を招くことから、むしろ問題の悪化に寄与することになる。

農産物を作った人が必要な分を消費する、これが原始的な農業社会モデルであるが、灌漑の整備などによって余剰生産物が飛躍的に伸びる時期がある。
人口の伸び、環境の破壊の速度に対して、余剰生産物の伸びがより高い時、その時間差を利用して非生産人口の増大化が行われる。
それが国家、支配階級の形成につながっていくわけだが、ひとたびそういう構造が成立した場合、非生産者を含めてデフォルトの人口となり、余剰生産物の減少・枯渇という事態が生じた時、ひとつの社会内部では淘汰が生産者・非生産者に同等か、もしくは実際にはより前者に強くかかってきた。
日本の戦中戦後、都市では深刻な食糧不足が発生したが、食糧生産のインフラが致命的に破壊されたのではないにも関わらずそうした事態が発生したのは、流通機構、分配機構の問題だろう。
都市住民は食糧生産という点においては非生産者であるが、それだけに生産物を何らかの形で集積する機構やメカニズムがあらかじめ備わっている。
農村で不作などから飢餓もしくは極端な貧困が生じた時、平時においては都市住民がより緩やかな形でそれに直面することが多いのは、流通機構の整備によってリスクヘッジがなされていること、農産物を商品化することによって価格の増大という形でその危機を緩和することが出来ること等等が理由として考えられる。
農村では農作物はそこに「ある」ものであるから、これを集積する機能に欠けている。
都市の場合は農産物の商品化、流通機構の整備、権力機構による収奪などの集積手段があるのであり、平時であれば、むしろそれは農村の飢餓リスクよりもより安全なところに都市のリスクを設定することが出来る。
そうした機構が何らかの理由で機能しないか、飽和した時に都市の飢餓は本格化するのであって、戦後日本で発生した飢餓は諸々の社会インフラの破壊、停止状態によるところが大きかった。
食糧、農産物は食糧であると同時に商品であるのである。
これは飢餓においては不作などによる供給量の減少もさることながら、商品として流通させるための機構の不備、商品として購入するための購買能力の低下が大きな原因として立ち表れることを示している。
それが極端に破滅的なものでない場合、都市の方がより不作に強いのは、一般に都市の方がフローとしての経済力があり、流通させるための機構が揃っているからである。
小作人制度などによって農村共同体が産業化されている場合、不作などによって飢餓に直面させられるのは、商品としての食糧を購入する力の脆弱な農村の貧農なのである。
1845年から5年間続いたアイルランドのジャガイモ飢饉では、当時850万人いたアイルランドの人口のうち、400万人程度を除いて、餓死したり、移民を余儀なくされている。
にもかかわらずイングランドの食糧供給地としての性格を持っていたアイルランドでは飢餓の最中であっても、小麦などがイングランドに大量に輸出され、イングランドではこの飢饉の影響を軽度にしか被っていない。
1970年代に発生したバングラデシュの大飢饉は、都市における輸出産業の低迷によって引き起こされた購買力の低下が原因であって、単純に人口で生産キロカロリーを割ると、充分に人口を支持できるだけの農産物が当時においてもバングラデシュでは生産されていた、いやむしろ豊作であった。
貧困流入者の増大などによる都市の購買力の低下、政府の輸出奨励などによって飢餓が引き起こされたのである。
飢餓が発生するには複雑な要因が絡み合っている。
農産物の不作による供給量の絶対的な減少、それが飢餓を発生させる要因のひとつであることは間違いないが、それ以外の要因によって飢餓が引き起こされる例の方が多く、飢餓にさらされない方策としては購買力の有無がむしろ致命的である。
終戦直後の日本の飢餓状況でも、その人がどこに住んでいたか、どれだけの購買力を持っていたかなどによって大きく状況が違う。
個人差がかなり大きいのだ。
平時において、農村が都市に対する食糧の供給地であるということは間違いないことであるが、食糧もまた商品である、商品であると扱われるという側面を考えた場合、流通機構が破壊され、都市住民の購買力が低下した時には農村は都市住民にとってはまったく頼りにならない。

私たちは食糧がなければ生きてはいけない。それは確かである。しかし食糧だけでも生きてはいけないのもまた事実である。
食糧の生産者は、消費者の生命線を握ると同時に、消費者に消費して貰わなければ彼らの生活もまた成り立たないのである。
食糧を増産することが飢餓の解消とまではいかなくても一時的な緩和につながるとしたならば、それはどういう場合であろうか。
まず生産者イコール飢餓ライン上にある消費者である場合。
この場合の生産者とは生産物を所有する者をいい、生産労働に従事はしていても生産物の処分権はない小作農などはその限りではない。彼らは農村労働者であって、ブルジョワジーとしての生産者ではない。
これについては食糧生産者がもともと飢餓ライン上にあること自体が稀である。元々の土地が痩せている、天災などによって自分たちが消費する分も賄えないなどの理由で生産者でありながら飢餓ラインにいる場合、緑の革命による食糧増産は確かに飢餓を緩和する効果をもたらすであろう。
ただしそのような劣悪な環境にあったということは、彼らの社会構造、人口規模が適正にあるとはみなしがたいということであり、人口の重さそれ自体による負荷が緑の革命をデフォルトなものにするだろう。
飢餓は人口爆発によってもたらされるものではないとする考えもあるが、生産者がすでに飢餓ラインにある場合は生産性と人口支持力のアンバランスが如実に反映されると私は考える。
ただ、実際にはそれ以外の要因で飢餓が引き起こされている例の方がより多いということだ。
一国、一地域が閉じた経済圏を構成しているならばともかく、大抵はそうではないので生産者は輸送コストを含めたとしても、収入が最大化する場所で生産物を販売しようとする。
国際的に市場が確立している小麦のような「商品作物」を作り、自分たちで消費する分以外の余剰生産物は価格が最大化する場所、それは普通は国内市場ではない場所で売られることになる。
農産物を輸出することによって外貨を稼ぎたい政府がこれを規制することは稀であるし、その場合、購買力のない者より順に飢えることになる。
開発途上国一国の中において、農地が自作農化されていない、地主制度なりプランテーションがあるのだとしたらそれは、貧弱な購買力しか持たない消費者を多く作ることになる。
ここでもやはり富の不均衡、国内的にも国際的にもある富の不均衡によってもっとも弱い者、つまり貧弱な購買力しか持たない消費者が最も鋭い痛みを受けると言うこの世界に普遍な構造が生じている。
この富の不均衡があるところには飢餓が発生し、それは先進国内部においてさえそうである。
4000万人のアメリカ人が貧困からくる欠食状態にあり、1990年代においてさえ、英国では階級間での体格差、死亡率に開きがある。
飢餓を減少させるためには自作農の育成は是非ともなさなければならないことである。
それは生産者を増やし、貧弱なる購買力しか持たない消費者を減少させるからである。
それはもちろん富の平均化に貢献するであろう。
また、貧弱なる購買力しか持たない消費者をそうではない消費者にする必要もある。これは産業の発展による中間層の育成ということになるだろう。ただしそのための原資は輸出によって稼ぐしかないので、ここが非常に悩ましいところである。
これをするためには生産性を向上させると同時にやはり人口圧の負荷を緩和し、ひとりあたりの所得を増やし国内市場を育てていくことによって経済がある程度、国内で循環する仕組を作るしかないのであって、人口問題を軽視し過ぎるのはやはり問題がある。



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20081126

19世紀のダイアナ

1714年にハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒが、英国王ジョージ1世として即位したことに始まるハノーヴァー王朝は、六代、ヴィクトリア女王が崩御した1901年まで、約200年続く。
ハノーヴァー家には奇矯なところがあって、家族の内紛、不仲がいずれの世代にも見られた。それは、それ以前のスチュアート家やチューダー家と比較しても程度が甚だしく、不仲と言う言葉では片付けられないほどの陰鬱さに満ちている。
夫と妻が対立し、親と子が反目する。もちろん例外はあったにせよ、そのいずれからも逃れられた例はほとんど無い。
そもそも開祖たるジョージ1世にしてから、この人は妻を32年も幽閉した人だった。
ジョージ1世の妻、ゾフィ・ドロテアを英国王妃と簡略化して表記する本もあるがこれは正確ではなく、ジョージ1世が選帝侯位、王位を継承するよりも前にゾフィ・ドロテアは離縁されている。原因は彼女の不倫にあったが、そもそも彼女が不倫に走ったのは、夫の不倫と無関心、暴力ゆえだったのだから、自分が不倫されたからと言って激怒するのも、身勝手というしかない。
離縁してなお、元妻を幽閉し、自ら会うこともなければ子供たちに会わせることもしなかった。
ゾフィ・ドロテアの不倫相手ケーニヒスマルク伯は19世紀に入って、ハノーヴァー選帝侯の居城から白骨死体で発見されたが、ジョージ1世が関与していることは疑いも無く、彼は法律的刑事罰を執行を除外した殺人を犯した、英国王歴代でも余り例のない王だった。
ジョージ1世の後を継いだジョージ2世からすれば事情はどうであれ、父は彼にとっての母を虐待した人物に他ならなかったのだから、彼の場合は、父親と不仲になるのもやむなしと言える。
ジョージ2世の妹、母と同名のゾフィ・ドロテアは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムに嫁いだが、彼女が産んだのがかのフリードリヒ大王である。
フリードリヒ大王もまた父王とは不仲だったが、それもまたハノーヴァーの血の影響かも知れぬ。
ジョージ2世については父親との不仲はやむなしと評するにしても、自身の息子、フレデリック皇太子との不仲については、同情は寄せ難い。
フレデリック皇太子がいかに奇矯な行動があったにせよ、彼の息子に対する敵愾心は異常だった。ジョージ2世の王妃、フレデリック皇太子の母のキャロライン・オヴ・アーンズバックは、賢王妃として知られる優れた政治家の資質を持つ、事実上の「統治者」だったが、彼女もまたフレデリック皇太子を毛嫌いしていた。
実の子でありながら、その死を願うような発言を何度も周囲にしている。
どう考えても人の親としてまともではない。
それに較べると、フレデリック皇太子自身は比較的穏健な夫婦生活、親子関係を築いたが、彼は王位を継ぐ前に死去し、王位はジョージ2世からフレデリック皇太子の長男のジョージ3世へと引き継がれた。
愚王の見本市のようなハノーヴァー王朝にあって、ジョージ3世とヴィクトリア女王のみは比較的まともな部類に属するのだが、ジョージ3世は責任内閣制が既に発足していた英国にあって、親政を試みては議会と対立し、挙句の果てにはアメリカ独立戦争、フランス革命という国難の連続に直面し、精神がすっかり狂ってしまった。
狂王といえばだいたい、バイエルンのルートヴィヒ2世(ワグナーのパトロンとして知られる)か、ジョージ3世を指すのだが、狂王や狂帝という形容が、だいたいは「狂人のような」なる意味の比喩的なものであるのに対し、ジョージ3世の場合は真実に狂っていた。
よく真面目な人ほどプレッシャーに弱いというが、ジョージ3世の場合はおそらくそれに相当し、彼の責任感、生真面目さ、倫理を疑う人はほとんどいないが、さりとて地位に相応しい人物であったかというと、素直にそうだという人もあんまりいないのだ。
外にあっては国難の連続、内にあっては子供たちの不行状と、ジョージ3世にとって嘆きの種は尽きなかった。
結果、ジョージ3世の治世の末期は、皇太子でもあったウェールズ公ジョージ(ジョージ4世)が摂政(リージェント)を務めたが、ロンドンのリージェント街は当時の摂政皇太子を記念してその名称があり、この地区で流行したヘアスタイルをリージェントスタイル(リーゼント)とも言う。
前置きが長くなったが、今日の話は、摂政皇太子でもあったジョージ4世とその妻の話である。


キャロライン・オヴ・ブランズウィックはドイツの女性で、ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル公家の人である。
ハノーヴァー選帝侯家はブラウンシュヴァイク・リューネブルク家(ヴェルフェン家)だから広い意味で同族である。
美貌で知られ、ドイツ社交界の花形で、結婚前にも浮名をひとつふたつ流し、地位にそぐわぬ軽薄さで陰口も叩かれていた。
名門他家との縁談もあるにはあったが、彼女の行状のために多くは相手側から断りを入れて破談になっており、英国王室のジョージ皇太子との縁組は彼女にとっても渡りに船だったろう。
ジョージ皇太子は複数の愛人と膨大な借金を抱えており、嫡子の不行状に頭を抱えたジョージ3世は、息子が身を固めてくれるなら、適当な身分の女ならば誰でもいい、くらいの気持ちになっていたので、貴婦人であるには違いないキャロライン・オヴ・ブランズウィックをジョージ皇太子が気に入っているのであればとやかく言う気もなかった。
皇太子ジョージにしてみれば、愛人との気楽な生活を終わらせたくはないにせよ、結婚をすれば借金も清算してくれるというので、肖像画で見て美人だったので、キャロライン・オヴ・ブランズウィックを嫁に迎えることに同意したのだった。
しかし実際に会ってみれば、肖像画ほどの美女でもなければ、体臭もすこぶるきついというので、早々に破約を考えたほどだったが、なかなかそうもいかずに結婚はしたものの、一瞬たりとも妻に親しむことはなかった。
子供が一人、シャーロット王女が生まれればとりあえず世継ぎは確保したということで、別居生活、公でも妻と接触も持たずに、妻を皇太子妃として遇することもしなかった。
皇太子は父王に離婚したい旨を訴えだが、ジョージ3世は「王族の結婚は個人のものではなく国事であるということをおまえは忘れている」と説教されて却下された。
たまりかねたキャロライン皇太子妃は、夫を弾劾する内容の記事を新聞に発表、これは一大スキャンダルになり、世論はキャロラインに同情的になった。
英王室のメディア、世論誘導を巻き込んでの家庭内不和はこのあたりに起源がある。
それでも皇太子ジョージは妻に対する姿勢を変えず、徹底的に無視をした。同席を拒むばかりか、妻が皇太子妃の礼遇を受けることさえ拒否している。
自身が王位に即位した時には、妻を王妃として戴冠させることを拒否したのみならず、戴冠式への出席自体を拒むという、公共の人としての態度のかけらもない幼稚な振る舞いに出ている。
しかしながらキャロラインが単に悲劇の人だったかというとそうでもなく、彼女は彼女で元が軽佻浮薄な人だったので、次々と不倫が発覚し、次第に世論の弾劾も厳しくなって英国にはいられなくなり、娘のシャーロット王女の出産による死亡の時にも、その知らせをフランスで聞いている。
人の運命は分からないものであるが、人気という点で言えば20世紀末の英国皇太子妃ダイアナも、あるいはちょうどいいところで死んだのかも知れない。彼女には彼女で不行跡があったし、明らかにアウトサイダーであるアラブ人富豪のドディ・アルファイド氏と結婚するようなことがあれば、彼女が築いてきた名声は地に落ちていたかも知れない。
ダイアナは早死にしたキャロライン・オヴ・ブランズウィックであり、キャロライン・オヴ・ブランズウィックは長く生きすぎたダイアナである。
キャロライン・オヴ・ブランズウィックは名ばかりの夫に先立つこと、9年にして旅先(というか流浪先)で死去したが、夫はその遺体を汚物でも扱うかのように、英国に埋葬することさえ拒否して、故国のドイツで埋葬されている。
すべての英国王妃の埋葬地を知っているのではないが、ともかく近代においてはおそらく唯一の、英国外に埋葬された英国王妃が彼女だった。
ジョージ4世が崩御した時、タイムズ紙はこの国王に「親不孝者、最悪の夫、親のクズ、不良の国民、悪い国王、そして悪い友」なる最大限の酷評を与えているが、どうせ長く生きるならこの時まで生きていれば、キャロライン・オヴ・ブランズウィックも少しは胸のすく思いがしただろうに、人生はなかなかままならぬものである。



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20081125

国民の心

メディチ家はふたりのフランス王妃を出している。
カトリーヌ・ド・メディシス(アンリ2世妃)とマリー・ド・メディシス(アンリ4世妃)である。
ロレンツォ・イル・マニフィーコの曾孫にあたるカトリーヌの頃には、フィレンツェにも、そして銀行家としてのメディチ家にも斜陽が射していたのだが、この時期、メディチ家はレオ10世、クレメンス7世というふたりの教皇メディチを輩出し、富によってフィレンツェを統治するのではなく、剣によってフィレンツェを統治する時期に移行しつつあった。
つまり、メディチ家の世襲君主化、トスカーナ大公国の成立である。
イル・マニフィーコの嫡系にあたるカトリーヌの、フランス王家への輿入れはこの過程の一環として捉えることが出来るが、そうした政略的な利益を差し引いても、フランス王家からすればこれは明白に貴賎結婚であり、カトリーヌの夫、アンリはそもそもは王位を継承する予定にはなかったからこそ、かろうじて認められたようなものである。
この結婚政策によってメディチ家は、ただの銀行家一族は聖別されたに等しい権威を徐々に獲得していった。
フォークもアイスクリームもナプキンも、カトリーヌによってフランスにもたらされたとされているものは多いが、フィレンツェはもちろん当時としては文化的先進国ではあったが、それでもこれが貴賎結婚であり、カトリーヌが万事につけ控え目であることを強いられたことは踏まえておく必要がある。
皮肉にも、アンリ4世妃マリー・ド・メディシス(ルイ13世母)は、カトリーヌ・ド・メディシスの娘である前王妃マルグリットを追い出す形でその後釜に坐ったが、その時にはもうメディチ家を表立って身分卑しいとする声は、カトリーヌの時ほどは大きくはなかった。
フィレンツェはますます衰退しつつあったが、メディチ家は世襲君主家として、ヨーロッパにおけるヒエラルヒーの中では地位が上昇していたからである。
この地位の上昇が、一方でオーストリアやフランスの勢力と結びつき、イタリアにおける総督のような中間管理職めいた役割を担うにつれ、イタリアの衰退ははなはだしくなってゆく。
トスカーナ大公家たるメディチ家も1757年には断絶、以後はハプスブルク・ロートリンゲン家の統治するところとなり、フィレンツェもまた皇帝の支配下に組み込まれてゆく。
中世イタリアを分割した5大国、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ(含む、ジェノヴァ)、ナポリ、そして教皇領のうち、19世紀までには縮小した教皇領とヴェネツィアを除いておおむねオーストリアの統治下に入り、ナポレオンのイタリア制圧に伴って、ヴェネツィアもまた独立国としては終焉を迎えたのだった。

リソルジメントと、20世紀のファシズムにも連なる、イタリアの国民国家の創生への意欲は、大国間、特にオーストリアとフランスの間で翻弄された屈辱を抜きにしては語れない。
常勝にして不敗たるボナパルトが軍神さながらの傑出した戦功と、ジャコバン派とテルミドリアンによって熟成された革命思想をイタリア人たちの前に鮮やかに提示した時、イタリア人たちは彼こそがイタリアを解放するものと半ばは信じたのである。
事実上はまったくのフランスの傀儡であったチェザルピナ共和国をボナパルトが北イタリアに打ち立てた時も、これという抵抗もなかったが、直後にボナパルトがオーストリアと和し、そればかりでなくヴェネツィア東部をオーストリア領として承認したことから、イタリア民族主義者たちの期待は裏切られたのである。
あまつさえ、彼は皇帝となった後、義弟のミュラを、菓子を与えるかのごとく、ナポリ王の位につけ、それはイタリアに対してのみではなかったが、ともかくイタリアの自立は明らかに望まぬように転じたのである。
第一帝政の没落後も、イタリアには以前のように再びオーストリアが支配者と乗り込んできただけであり、ブルボンだの、ハプスブルクだのという外来王朝が虫食いのようにイタリアを蚕食していた。
外国のくびきから離れるためには、農奴のようにやり取りされる王朝の民であることを止めて、唯一の王国の民、国民となる必要があったのである。
デ・アミーチスの「クオーレ」はそうした国民の創生という文脈から書かれたものであるが、もちろん、国家主義というか、国家を純朴に褒め称える視線は、ファシズムにも転じ得るものであり、事実、そうであった。
しかし、「クオーレ」が目指した道のりの先にファシズムがあったのだとしても、もう一方の先には分割され、軽視され、あるいは無視され続けたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世以前の「国家なきイタリア」が出発点としてあったのであり、「ちょうどいいところ」では結果的には止まらなかったわけである。
ガリバルディとムッソリーニの間に、目的意識においてそう大きな違いがあったとは思えない。
「クオーレ」的なものがファシズムにつながる遠因にあったというのも事実であるならば、クオーレ的なもの、あるいはヴェルディ的熱狂があればこそ、イタリアは国家として再生し得たのである。
多くの事柄がそうであるように、ここにも二面性がある。
そしてまた徹底された善は、容易に行き過ぎた悪にも通じるひとつの例がここにはある。
私たちはクオーレ的修身の時代の先に生きており、もちろんそれがファシズムにも通じた歴史を知っている。しかし同時にクオーレ的修身、あるいはヴェルディ的熱狂によって確かに国民が喜びを感じた、それによって救われたと強く思ったという時代もあったことも、歴史として知らなければならない。



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20081122

国益を阻害する人

国籍法改正の経緯と内容について、城内実氏は根本的に理解なさっておられないのではないかと旨を(ちょっと)、
http://log1989.web.fc2.com/2008/20081119.html
こちらで表明した。
その後に、
http://www.m-kiuchi.com/2008/11/11/bakawashinanakyanaoranai/
リンク先の記事を読んだ。
普通に差別的と言っていい記事である。小倉弁護士がご指摘のように、そもそも日本国籍であれ外国国籍であれ、そのような虐待が許されるはずが無い。
帰化した者たちだけその危険があるとするのは偏見というよりなく、表現において下品である。
むろん下品であるかどうかは主観に依拠するものであろうが、誰であれ違法な状態を、ことさら帰化に伴うものとして描くこと自体が差別的である。
このような人物が国会議員であったのは日本の国益に適わないものであったと評するよりなく、たとえばこの人が将来、地位を得て、外国との対立局面に立つ時に、この言動が過去の弱点として、また、そうした人を代表として選ぶ日本国民の「精神的な邪悪性の証明」として用いられることは充分に予想される。
わざわざいう必要もないことを言い、弱点をもうけることは、国益を重視している人物ならばしないはずだというのが私の考えである。
日本の政治家、特に発言が注視される閣僚にあっても、差別的な失言は過去にも多々あり、そのたびに在外日本人の安全や日本人の言動の信頼の毀損、ネガティヴキャンペーンへの寄与という形で国益を阻害してきた。
国益を重視する愛国者であるならば、そのような国益の毀損をもたらす人物を公的な地位につけてよいものかどうか、判断は自明であると思うが、国益よりも自分の好みを優先するというならば話はまた別である。
城内氏は彼の公的な地位獲得が国益を毀損する可能性を増大するという意味において、効果においてマイナス要素をもたらす人であり、わざわざそうした「属性」を身につけてしまったという点で、思慮において選良たるにふさわしくない軽率さである。



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20081121

薩長、三条、岩倉

私の母方は、長州の出なので、私の血のうち、少なくとも半分は長州人ということになる。
更に仔細を見ていけば、母の母、つまり祖母は薩摩の出の人だった。
「私の中には長州と薩摩の血が流れている」
と言うのが、稚気めいた母の自慢であるが、その人が私には母である以上、私の中にも「薩長同盟」はあることになる。
長州の子はことごとくそうであるように、母もまた松蔭の教えをそらんじており、ことあるごとにそれを口にした。薩摩の血も流れているというわりには、母は徹頭徹尾、長州びいきであり、自らが思うような長州のかたちに自分をあわせようとしていた。
母方の祖母はわりあい早くに亡くなったこともあって、当時としては山口と鹿児島は距離もあり、母にとって鹿児島は縁遠い地であり、縁遠い親戚だった。
私が大学生の頃、ちょうど夏季休暇のおり、母の祖父とか言う人の法要があり、たまたまその知らせがあって母は鹿児島へ赴き、ほとんど初めてに近く、鹿児島の親戚と会うことになった。顔見世の意味もあって、おまえも暇ならばついて来いということで、私が伴をして、鹿児島行きの特急に連れ立って乗った。
鹿児島へ行くこと自体は、私にとっては既に数度あったことだったが、鹿児島の親戚に会うとの発想がそれまで無かったので、鹿児島の親戚たちは初見だったが、母子ともども歓待してくれた。造り酒屋をしていて、芋焼酎を造っていた。その焼酎自体は、何らかのおりに送られてくることがあって、初めて飲んだというものではなかったが、芋焼酎は残念ながら私の口にはあわず、よかれと思ってのことではあろうが何杯も勧められるのには閉口した。
その後、経営的には浮き沈みもあったようだが、昨今の芋焼酎ブームで持ち直したとも聞き、まずはよかった、というところだ。
彼ら、鹿児島の人たちの言っていることの半分も理解できないことが、そこが異郷の地であることを思わせ、しかしながらその異郷の人たちの、自分が末裔であるのも確かなのだった。
会ったことはない母方の祖母は茶目っ気のあった人だと聞く。祖父は技術者だったが、いかにも偏屈な人で、何もそんなことは言わなくてもいいだろうにと子供ながらに私でさえ思うようなことがしばしばあったが、そうした祖父をも上手にあしらっていたらしい。
その、祖母はよく、自分の子供たちを、
「おまえは長州」
「おまえは薩摩」
と分類してたらしい。それに言わせれば、私の母は「長州」とのことで、気が強く、きかんきで、空想癖があり、つまりは薩摩の人であった祖母からすれば長州人とはそのような人たちであった。
その見方には今の私も同意するのだが、一言で言うならば長州人は理想主義者である。対して薩摩人は現実主義者である。
もちろん、人それぞれの違いはあるのだが、傾向として、とのことで、長州が「あるべき世界」から発言するのに対し、薩摩は「現に在る世界」から発言する。
同じことを母は自分の子供たちにも言い、それに拠れば、私は「やはり長州」であり、姉は「ものすごく長州」ということだった。父が、おのが妻や子のことをどことなく危なげに見ていたのも、筑前の人である父から見て、家族ながら、妻子の中にある「長州の狂気」を見ていたのかも知れぬ。
偏屈な祖父は、将来の私の姿であるかも知れなかった。


三条実美という人は、幕末の一時期、ほとんど独裁的な権力を握ったが、そのことはようとして忘れられている。幕末が描かれるドラマでも、そもそも三条が登場すること自体、稀であるし、たまに登場したとしてもいかにもなよなよとした公家風で、この人の中にあった「狂気」が直視されることはない。
三条は無論、公家であり京の人だが、長州が三条を擁したように、長州の狂気に鋭く反応した人だった。その狂気が、革命家をおしあげるようにして彼を時代の人に祭り上げた。
西郷隆盛は島津久光を治五郎と言った。斉彬の英邁と比較してのことだろうが、いかにも酷である。幕末の久光の活発な動き、ところどころで記されている彼の文献における言動を見る限り、非常に冷徹なリアリストで、その知性は確かに群を抜いている。
結局、その西郷を用いたのも久光の判断ではあって、薩摩のリアリズムを確かに体現する人である。
そうした人からすれば、おそらく一貫して長州がはらむ狂気は徹頭徹尾、肌合いがあわないはずだった。
三条ら「過激暴徒」公家を直接的に産んだのは、孝明天皇の不確かな意思だった。
開闢以来の国難にあって、孝明天皇は資質にして英邁、次第に情勢にも通じていき、政治家として成長していったが、もとは京都御所の小宇宙で成長し、生活していた人だ。幕府の朝廷隔離政策もあって、初めから詳細な情報に接していたわけではない。
出来れば開国をしたくない、外国人と付き合いたくない、外国勢力が日本に入るなどもってのほか。
これは当時の日本人にほぼ共通した感情であって、問題はそれが可能かどうかという話である。
そうした感情があるにせよ、幕府は開国路線へ舵を切らざるを得なかったし、排外という意味での攘夷が不可能であることは、四賢侯ら改革派も承知であった。
しかし当初は孝明天皇はこの認識を持っていなかった。少なくとも、一部の鎖港は交渉によって可能と考えていたふしがあり、そのために幕府は鋭意努力すべきであると考えていた。
そのための手段として公武合体であり、この局面で活躍したのが岩倉具視である。つまり孝明天皇は、攘夷を将来的に可能ならしめるために佐幕であり、この立場は基本的には変わっていない。攘夷が、富国強兵をならしめたあとにようやく可能になるかも知れないという認識に移り、かなり長期的なスパンに移行した、ということはあるにせよ、最終的な目標は攘夷である。
もっとも、富国強兵が実現したならば攘夷は不要になるやも知れなかった。その程度の柔軟性は孝明天皇は持っていた。
攘夷なるがゆえに佐幕。ともあれ孝明天皇の立場を整理すればこのようになる。多くの当時の指導的立場の日本人と同じく、内戦、すなわち外国につけ込まれて、滅亡を招くという認識を孝明天皇は持っていた。
佐幕にせよ倒幕にせよ、当時の日本人指導者の「愛国心」、冷徹な現状認識能力の高さはやはり特筆すべきものがあると思う。
幕府にしてみれば、攘夷は不可能だった。しかし孝明天皇が求めているのはもっと長期的なスパンの話なのだから、現実的な努力目標として攘夷が据えられているかどうかが重要なのだった。この点、幕府の努力が不十分であるとみなし、幕政に介入もした。孝明天皇は佐幕ではあったが、保守派ではなかった。従来のままが続けばそれでよいとは決して思っていなかったし、朝廷による介入はやはり正しかったのだと思う。
と言うのは、現状をこなしてゆくだけではなく、長期的な視点は確かに必要なのだから。
佐幕であり、保守派ではなかった孝明天皇は、佐幕であり保守派とみなした保守派を失脚させ、岩倉はこの時に一度失脚している。彼が復活したのは孝明天皇崩御後のことである。
岩倉の失脚は、リアリストの限界を思わせる。時代のパラダイムそれ自体が変化する時に、先例主義のリアリズムでは状況に対応できない。岩倉が果たしてそのような種類のリアリストであったかどうかについては今日的な視点からは異論があるにせよ、当時はそう見られていた。
その結果、三条ら改革派が台頭するのだが、下克上の風潮が極みに達し、そうした風潮は内戦を招きかねない危険があるとの危機感を孝明天皇は募らせた。
その結果、三条らの失脚、長州の失脚を招く蛤御門の変が生じ、ついには孝明天皇の望みに近い、佐幕による改革との諸侯会議体制が実現するのである。
この蛤御門の変は従来、会津と薩摩が主導したと言われているが、実際にはもっと幅広い勢力が関与している。むしろ芸州、越前、などの諸藩雄藩の諸侯が主導していて、薩摩はむしろそれに乗っかった、という形に近い。
もちろん、蛤御門の変をもたらす「過激分子」に対する危機感は島津久光も有していて、その後に発足する蛤御門体制にも深く関与しているが、その危機感は薩摩や会津のみが突出していたわけではないということだ。
この、蛤御門体制の結果、成立した諸侯会議がすなわち新政府となってもよかった。そもそも、島津斉彬や松平春嶽らの目指した列藩諸侯体制とは、そのようなものだった。幕末「改革派」の目指した維新はここでいったん成立したのだともいえる。
しかしこの体制はあえ無く崩壊する。
烏合の衆の集まりと化したからでもあり、幕府、すなわち一橋慶喜と諸侯の思惑の違いも表面化したからである。
つまり改革を実現するためには強力な中央政府による一元化が必要であることが、この失敗を経てはっきりしたのだ。
それはつまり、長州の狂気による飛躍が、実際には時代のパラダイムの変化において、最も長い射程を捉えていたことを意味していた。
やがて孝明天皇崩御、薩長同盟の成立後、薩摩は岩倉を復帰させ、狂気をリアリズムに懐柔してゆくかたちで岩倉を利用し、明治維新を迎える。
そしてやがて狂気派も一掃され、明治政府は狂気を飼いならしたリアリストたちによって主導されてゆくのである。


狂気は国を滅ぼすが、狂気の欠落も時に国を滅ぼす。この幕末、明治の流れから導き出される教訓は狂気を退けるばかりでなく、狂気をも内包したリアリズムを構築することに必要である。



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20081120

韓国経済、危機の軌跡

1997年のアジア通貨危機では、韓国も非常に大きな痛手を被った。
その後、比較的順調に復興してきたかのように見えた韓国経済だったが、IMFから指摘を受けた韓国経済の根本的な弱点克服にはいたらなかった。
現在、韓国が直面している経済危機においても短期的な処方箋はないが、長期的な処方箋としては、基本的には変わらない。
第一に、内需主導型の経済に移行すること。
第二に、財閥集中型経済を改善し、中小企業中心の経済に移行すること。
第三に、サービス収支の移転を抑制し、国内で移転が完結するよう促すこと。
IMF危機後の韓国の政策は、これら基本政策に反する政策も多く、そのため、基本政策にのっとった方向であっても、ただ単に体力を消耗する結果となった。
なぜそのようなことになったのか、遠因を探れば、「日本に追いつき、追い抜く」という過分な国家目標にある。歴史的な蓄積においても規模においても、まったく比較対象とならないはずの日本と比較したため、非常に大きな無理が生じている。
例えば、世界的に知られる大企業、サムソンやLG電子、現代自動車などは、税率において優遇を受けており、資本と人材の集中を招き、国内市場の寡占化が生じている。国内で蓄えた蓄積でもって、国内価格よりも安価な価格で国際市場において販売を展開し、輸出ドライブを猛稼動させているのだが、これが内需の振興、中小企業の育成という長期的な韓国が取り組むべき基本政策と矛盾しているのは明らかだ。
サムソンやLG電子は半導体部門や家電部門で日本企業にとって無視しがたい競争相手になっているが、その競争力が相当にドーピングされた結果であるのも確かなことだ。
中小企業育成の失敗は、韓国にとって構造的な問題をもたらしている。
ひとつはもちろん、内需振興の失敗という点において。
もうひとつは、部品などの中間財の供給能力の貧弱さという点において。
そのため、輸出ドライブを猛稼動させながら、原材料のみならず、中間財をも他国、特に日本からの輸入に頼らずをえず、貿易収支の赤字化を招いている。
韓国政府も内需拡大を進めるためにまったく無策だったわけではなく、例えばクレジットカード使用の奨励はその政策のひとつだが、このため家計も赤字化することにつながっている。
一方で非常に高利な、伝統的な金融であるチョンセなどの高利率を規制しなかったために、資金が投資ではなく投機へ回る傾向を生み、製造業の循環を断ち切った。
また、韓国個別の問題としては、非常に過激な行動をとりがちな硬直した労使関係の問題もあるが、こうした事情をひとつひとつ見ていけば、韓国経済の問題はまさしくファンダメンタルズの問題であることが分かる。
国際的な投機筋の策謀が確かに直接の危機をもたらしているのだが、その危機に脆弱な構造自体が問題なのだと言える。


私は韓国の状況を見ていて、老人を大事にする国は滅びる、との感想を抱いた。韓国が老人を大事にしているというのではなく、明らかに勤労世帯の利益を軽視している点を見てそう思うのだ。
経済において確かなコアとは、物財であり、物財を提供する製造業である。
この点、私は徹底した保守派であり、国民経済のコアに位置するのは製造業であり、製造業重視派である。ごく小規模な都市国家ならばともかく、多数の国民を養い、確実な国民経済を築くためには製造業こそがコアに据えられるべきである。
この製造業の全体の利益と、それ以外の部門の利益は相反することがある。
例えば、不労所得層にとっては金利は高いほうがいいが、実体経済の中核に位置する製造業は、低金利の方がいいわけである。
韓国の問題はここ20年来、翻弄され続けてきたあるべき国民国家のヴィジョンの揺れの問題とリンクしている。
これはグローバリズムの破綻の一例なのだ。


当面の危機を韓国は乗り切ることが出来るだろうか。
非常に困難だといわざるを得ない。
非常に巨額な外債依存体質を改めない限り、危機の主因を取り除くことはできないし、危機が破綻にいたるまでは、主因を取り除くことはかなわないだろう。
既に隣国の崩壊は秒読み段階に迫っている。これを救済することは出来ないのだから、崩壊に際して、日本は対症療法を整えておく必要がある。



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20081119

愛国者の憂鬱

郵政民営化法案に反対して自民党から追い出された城内実氏がブログで次のようなことをお書きになっている。

 やられた。国籍法の改正案が衆議院本会議を通ってしまった。はじめに気がつくのが遅かったとはいえ、すなおに敗北を認めよう。しかし、今回のことをわれわれは教訓にしなければならない。日本の真珠湾攻撃に対してアメリカが「Remember Pearlhavour(リメンバー・パールハーバー=卑劣な真珠湾攻撃を忘れずにジャップをたたきのめせ)」のスローガンを使って戦意高揚に走ったことを思いおこそう。その真偽のほどはさだかではないが、ルーズベルト大統領はじめアメリカのたったひとにぎりの政府高官は、日本軍が真珠湾の太平洋艦隊を奇襲する情報を入手しておきながら、アメリカ国民の日本人に対する敵愾心をあおるために、あえて現地の司令官に伝えずに自国軍を見殺しにしたという説がある。もしこれが本当だとするとなんとしたたかなやり方だということだ。

ものすごく熱くなっているようが、今回の法案を提出したのは法務省であって、6月20日に最高裁違憲判決があった当初から、この方針は明言されていたはず。
城内先生、まさか、違憲判決もご存じなかったということはないでしょうに。
既に先述している通り、違憲判決が判例として確定した以上、法務省としては法改正に臨むより他に手立ては無いわけで、この法案提出もごくごく事務的なルーチンワーク以上の意味はない。
城内先生は何と戦っていらっしゃるのだろうか。
城内先生のこの文章を文字通り読んで、「ぼくらの城内先生!がんばれ!」と思う人もいるのだろうから、世の中は広いと言うべきだろうが、私が思ったのは、
「違憲判決を受けての法務省方針も知らないの?新聞読んでいるの?大丈夫?」
「司法と行政の関係も知らないの?これで政治家やってたの?大丈夫?」
というものであり、愛国者の方々とはおそらくベクトルが真逆だろうが、日本の将来におおいに不安を抱いた次第である。
ここで書かれた文章が何らかのポーズでないとすれば、愛国者ならば、新聞に書いてある程度の情報に疎く、行政の初歩的なメカニズムも知らないような人を、国政の場所に送り出そうとするはずがないと信じるが、さて、城内氏のこの論評をどう評価するかが愛国者か、それとも単なる愛国気分者かの試金石になるように思う。
政治的立場はどうでもいいが、少なくとも政治家には最低でも平均程度の情報収集能力とリテラシーが欲しいものだ。

[追記]
城内氏のブログにトラックバックを送っていたが削除されたよう。
国民に異論を与えた上で、判断の材料とさせるほどには、城内先生は国民の利益は重視なさっておられないようだ。
[追記2]
そう書いたところ、半日後に再び確認したところ復活していた。
手違いなのか、私が上記の追記を書いたのでまずいと思われたのか、お考えを改められたのか、事務所の人が削除したのを後でご当人が修正したのかは分からない。
分かる事実としては、その時点で3件あったトラックバックのうち、批判的な私の記事のみが削除されて、半日後に確認したところ復活していたということだけだ。



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20081118

国籍とDNA

国籍法改正について、DNA検査が必要と言う向きもあるが、そもそも婚外子国籍確認訴訟で何が問題になったのかを知っていてそう言うのだろうか。
通説である一元的内在制約説では、公共の福祉による制限は個々の人権間の調整のためになされるのであり、この場合、母系外国人の父系生後認知婚外子(長くなるので以後、当該婚外子と記述)が被る不利益を社会の利益の名目上は正当化し難い。
社会の利益を、多数の個々人の社会権を担保する利益と見たとしても(個人の集合=社会)、国民としての権利のごく基礎的な条件である国籍の取得阻害までを正当化できる理由とはならない。
仮に、百歩譲って、二元的内在外在制約説の立場に立つとしても、個人の利益を公共の福祉の名において制限するには、合理的な事由が必要であり、それがあったとしても、国籍取得のような重要な権利を抑制する理由とはならない。
しかもこの場合は、後述するように合理的な事由さえない。

そもそも論として法的な意味における、親子とは何かということから考える必要がある。
ここでは、いわゆる養子などの二次的な親子関係は話を簡潔化するために除く。
一般に言う、いわゆる「実の親子」関係は法的には何によって担保されているのかという話である。
親子関係は、母子関係と父子関係に分けられる。両者は、法的な定義が異なるのである。
母とは、その子を出産した女性のことである。
血縁は関係がない。ただ、出産した、という事実のみで判断されるのだ。従って、AとBの夫婦の依頼によって、それぞれに面識のない女性Cと男性Dの卵子と精子を用いて受精卵を作り、女性E(男性Fと婚姻関係にある)の胎内に受精卵を移植し、女性Eが出産した場合、生まれてきた子の法的な母親は女性Eになる。
先日問題となっていた、高田延彦・向井亜紀夫妻による彼らが代理出産で儲けた子らの国籍確認訴訟でも、最高裁は「子の母は産んだ女性」との判断を覆さなかった。
高田・向井夫妻の場合は依頼人である彼らが同時に受精卵の提供者(遺伝的な両親)だったのだが、それでも最高裁の判断は変わらなかった。
つまり日本の法律では、第一義的には血縁、つまりDNAは最重視の基準とは見なされていないのだ。
あの裁判では、主に保守的な立場の人たちから、高田・向井夫妻を批判する声が多かったようだが、今回、同じ人たちが国籍法改正についてDNAを重視してくれるようになったとすれば、高田・向井夫妻には朗報であることだろう。
実際のところ、通常の出産においても、DNAは通常、考慮されていない。
通常に出産している場合であっても、出産した女性が他人の受精卵を宿していないとは他人には言い切れないことだが、DNA検査は課せられていない。
愛国者たちは女性がカネを貰って遺伝上の両親が外国人の子を産むかもしれない「偽装遺伝出産」の可能性は憂慮しないのだろうか。
法的な父親の定義は更にあやふやである。
法的な父親とは第一に子の母親と結婚関係にある(妊娠時点であった)男性であり、子を認知した男性である。
子の父親は子の母親から付随的に定義されるものであり、にもかかわらずここでもDNA鑑定は課せられていない。
例で挙げたケースで言うならば出産した女性Eの夫である男性Fが法律的には子の父親となる。
但し、DNAがまったく用いられないかというとそうではなく、子の出産を知って一年以内に、子の父親が血縁上の親子関係の不在を申し立て充分に証明できるのであれば、嫡出関係は取り消される。
だがその期間を過ぎてしまえば、嫡出関係は血縁上の関係がなくても父親側からの要請は出来ない。
今回問題になるのは、婚姻外の出産で母親が日本人で父親が外国人の場合との比較である。
母親が日本人で外国人が父親の場合は婚姻関係にない場合であっても、子は日本国籍を取得できる。
これが母と父の国籍が入れ替われば、子は日本国籍を取得できないのだから、これは二重の意味で法の下の平等にそぐわないものだ。
第一に男性に対して女性を優遇する男性差別として。
第二に男系に対して女系を優遇する女系子と男系子の間の差別として。
これは子の母親が出産という事実によって自明的に子との血縁が証明されていると考えられているのに対して、父子関係が夫婦、もしくは男女のパートナー関係に付随した二次的な関係であるためだ。
そもそも高田・向井夫妻による裁判で見られるように遺伝上・血縁上の親子関係を最重視した法制度になっていないにも関わらず、外国人との間の婚外子にだけ血縁関係が絶対的に要求されるというのも、バランスを欠いているが、ともかくもそうした考えからそうなっていたわけである。
父子関係が出産のような自明的な基準を持たないために、今回の法改正は確かに理論的には偽装認知は可能である。

しかし例えば、ある河川を汚染している原因として、工場排水が要因の1%を占め、生活排水が99%を占めているような場合、ことさら1%のみを危険視するのはバランスを欠いているという以上に、その度合いが甚だしくて、ほとんど法の下の平等を毀損している。
まして工場で排水するためには非常に厳格な事実上の必要条件がある場合、これをことさら危険視するのは、ミスリードも甚だしいものだ。
認知をするためには、少なくとも血縁上の父子関係が存在するという相当な状況がなければならない。
第一に他に法律上の父親があってはならない。
第二に、父親に母親と物理的に接触が可能な状況が子の妊娠時にあったことを証明しなければならない。
そのような手間を、DNA鑑定を含めて、父親がかけたがらない時に、やはり母系子と比較して、父系子の法の下の平等は阻害される。
一方、父親は子に対して養育義務の他、様々な義務を負う。
たとえば、通常の夫婦関係において、一人息子が3歳の時に、子が実は不倫によって生まれた子で、自分の血縁上の子ではないと父親が知ったとしよう。これは離婚事由になる不貞の事実であり、これを理由として夫婦が離婚したとしても、法律上の父親は子に対して養育義務を負う。ことほどさように、親子関係は法律的には強固なもので、偽装認知を試みるような不法滞在者が支払える報酬程度では追いつかないほどリスクが高い。
現状(改正以前の国籍法)でも、あわせて結婚関係をむすべば偽装認知は可能だが、法的な偽装の手段としてこれが用いられた例は少なくとも私は知らない。具体例があったら教えて欲しいものだ。
偽装結婚がこうした目的のための手段としては一般的で、条件もはるかに容易である。
どうしてわざわざ報酬も高いし志望者を募るのも難しい、条件もはるかに厳しい偽装認知という手段を不法入国滞在者が取りたがるのかを教えていただきたい。
私としては、公共の福祉のための合理的な事由さえ形成されていないと見るゆえんだが、危険だ危険だとただ「思う」だけで、国籍取得ほどの重大な社会権を抑制できると考えるその発想自体が、法の支配を根幹に据えて構築されている現代の日本社会を事実として認識しているのかどうか疑わしく感じさせる。
他人の人権に対してかくも冷淡な酷薄さと言う点では性格の問題を、具体例や具体的な危険の度合いから思考を推し量ることが出来ないという点では知性の問題を、現代の日本社会がどのような仕組で構築されているのかを知らないという点では知識の問題を指摘しておきたい。

[追記]
国籍法には扶養義務が書かれていないので、今回の改正で国籍を取得した子に対しては扶養義務が発生しないとのデマが流れているよう。
常識を期待するだけ無駄?政治経済の常識もない?
これでは韓国のロウソクデモ以下のリテラシー。
こんなデマに踊らされている人たちは、「むずかしいことにはかかわらないほうがいいよ」。

参考:
国籍法改正に関する反対意見の稚拙さ - 冥王星は小惑星なり
2008-11-16 - ta ptera ekeina en tei aeri.
国籍法改正問題とDNA鑑定 - la_causette
ふと思った - 土曜の夜、牛吠える。青瓢箪



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20081117

国籍法改正反対運動の愚

国籍法改正に反対するネット運動が広がりつつある。
阿呆と評するよりない。
法治国家のなんたるか、三権分立の何たるかさえ知らない盲人の集まりのようだ。
こんなことでは、先日、韓国で起きたアメリカ産牛肉輸入反対デモを笑えない。
謹んで彼ら愛国者に苦言を呈するが、国を思うのであれば、まずは国のために有為の人となるよう、努力をしてはどうか。
あれも知らない、これも知らない、法学の基礎の基礎さえ知らない、かくも無知蒙昧で、どうしてものの役に立つというのか。
日本国はかくも無知蒙昧な者たちの助力を必要とするほど安い国ではない。
祖国の名を辱めるのもいい加減にして貰いたいものだ。

法治国家の基本原理として、憲法がある。日本国の場合はそれは日本国憲法だ。
日本国憲法が更に依拠する法理念として、法の支配があり、人権の尊重は単なる条文を超えて、性格を改変されない普遍的な価値観とされている。
国会における国籍法改正の動きは、今年の6月24日に最高裁大法廷で示された婚外子国籍確認訴訟で、従来、国籍法で規定されていた父系婚外子のうち、父親が日本人、母親が外国人で生後認知を受けた子弟には日本国籍の所与の所得が認められないとする規定が、違憲であるとの判決が下されたのを受けている。
違憲であるならば、改正をするのは手続き的に当然であり、意思の主体は国会にはなく、最高裁にある。
国会に働きかけても無駄だということだ。

既に該当部分の法的な実効性は失われており、ただ形骸化した条文だけが残っている。
しかし法律を改変できるのは国会だけなので、行政は本来的には法が定めたとおりの行動をとらなければならない。
しかし法が定めたとおりの行動をとれば、この場合はすでに違憲判決が判例として確立されているので、裁判になれば国は敗訴するのは確実である。
賠償金も請求される余地も充分にある。
かつて刑法の尊属殺人規定について、1973年に違憲判決が下されて、この規定は無効化されたが、国会では1995年になるまで主に自由民主党の保守的な政治家の反対によって、刑法改正がままならなかった。
そのため法務省は省令としてこの規定を適用しないことを通告したが、厳密に言えばこれは三権分立からの逸脱である。
これは国会の怠慢と批判されてもしかたがなかろう。
今回の国籍法婚外子規定の一部についての違憲判決はそれよりも更に難しい立場に法務省を置いている。
尊属殺人を適用するかどうかを決めるのは検察、つまり法務省であり、彼らは能動的な立場からの判断が出来たが、国籍法の問題の規定については、彼らが被告となって訴訟を起こされる受動的な立場だからである。
行政として厳密に法律を適用すれば、裁判を起こされ、そうなれば必ず彼らは敗訴するという矛盾した立場に彼らは置かれている。それもおそらく賠償金支払いを伴って。

こうした矛盾を解消するために、一時的な措置として、当時の法務大臣は違憲判決を受けて、とりあえず申請書を受理をしたうえで保留することを明らかにした。
そのうえで、国会で法改正を行う、これ以外に法務省が置かれたジレンマを解消する手立てはないのだ。
国籍法改正に反対している「愛国者」の主張が万が一通って困るのは、偽装入国者やヤクザでもなく、該当婚外子とその両親でもなく、ただ法務省だけである。
そして法務省が支払うであろう賠償金は国民の税金である。
これが愚かでなくてなんであろう。彼ら「愛国者」はただ国家を困難な立場に追いやっているだけである。

日本には憲法裁判所はない。最高裁にも憲法裁判所的な機能は付与されていない。憲法裁判所が存在する国では、憲法裁判所もしくは最高裁が違憲判決を下せば、その法律の該当部分は直ちに廃止になる。
日本では裁判所が関与できるのは具体的な訴訟だけなので、訴訟になれば、違憲判決に従って判断が示されるが法律を廃止できる権限はない。
それはただ、国会のみに与えられているのだ。
であればこそ、国会はなおのこと、迅速に最高裁の司法判断に沿った法律改正なり立法なりを行う責務が課せられている。
尊属殺人規定を22年も無効ながら放置してきた国会の怠慢、保守政治家たちの売国的とも言える法治国家への裏切り行為はどれほど非難したところでし過ぎるということはない。
彼らこそ国を危うくする者たちである。

韓国のファンダメンタルズの危機をいち早く分析し、警鐘をならしてきた中小企業診断士の三橋貴明氏が氏のブログで、国籍法改正反対運動を展開している。
ここに書いたようなことを、私としては考え得る限りの紳士的な表現で氏のブログにコメントを書き込んだが、速攻で削除されていた。
何を削除しようが氏の自由ではあろうが、その行為に対する批評は別個に成立するものであり、氏のこれまでの経済に関する仕事を評価すればこそ、氏のこの問題に関する、無知と評するよりない言動が残念であるし、異論でさえない事実の指摘にさえ耳をふさぐ態度は、氏の言動への信頼をおおいに損なわせることになるだろう。

参考:
国籍法改正に関する反対意見の稚拙さ - 冥王星は小惑星なり
国籍法改正案に反対します - 新世紀のビッグブラザーへ blog
リアリティのない筋書き - I'll be here-社労士 李怜香(いー・よんひゃん)の多事多端な日常
国籍法改正について語るための基礎知識(2):裁判官たちは何を争い、何を国会に託したのか - 半可思惟
○○○!知恵袋 国籍法は改悪なんでしょうか? - いしけりあそび
国籍法3条1項の改正に反対することはエネルギーの無駄である - la_causette



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20080522

国民の創生

承久の乱は真に武家政権が成立する日本史上の契機だった。
当時、朝廷の権を掌握していた後鳥羽上皇が政務をわたくしし、国政を混乱させた悪王であったことは、多くの同時代人の証言もある一般的な評価である。
人事において恣意的に過ぎ、訴訟において偏っていた。かの人が王法を守り得ない王であったことは明らかである。では、王と王法はいずれが優先するのか。
王法が優先するとしたのが北条義時、北条泰時らの態度であって、この時に武家政権の人治傾向の脱却が生じたといえるだろう。つまり悪法は法ではないのである。
実際に処分とその後の運営を担った北条泰時は、個人としてこの矛盾に直面した人だった。かの人の内面は中世的な忠義を重んじる平均的な中世人そのものであったが、その人にして中世的な道徳概念だけでは対処し得ない現実の問題が突きつけられたのだった。
そのうえでかの人が導き出した答えが、法の人に対する優越であり、政府とは機関であり、わたくしのものではないとする思想である。
そして政府とは万民のために存立するものであり、万民の下に政府があり王があり武家があるとする革命的な世界観である。
この思想のもとに、北条泰時は上皇や天皇を処断した。つまり王を廃するほどの絶対的な正当性をこの思想に見出したのだから、必然的に北条泰時はこの思想の守護者となり、奴隷となるよりなかった。
彼が日本史上の為政者のうち、もっとも私心がなく、もっとも徳政を敷いたと評されるのは、彼の行動の帰結であり、彼の政治姿勢は彼が打ち立てたイデオロギーの結果だった。
この時に、究極の法源として民衆が置かれる擬似的な共和国に日本は変質した。
武家政権とは、変種の共和政治である。
後醍醐天皇の目指した王政復古とは、王法の上に王を置く絶対君主政の復活であり、共和国への敵対であった。そしてそれは法の支配の前に敗れ去ったのである。後醍醐天皇は復古主義者であると同時に共和国に対する反逆者であり、今日的な視点から言えばまさしく人民の敵である。
室町時代を経て、織豊政権の時代、秀吉がキリスト教に激怒したのは、日本人をスペイン人やポルトガル人が奴隷にし、新大陸に送り込んでいるという事実だった。
これはもちろん今日から見てしごく真っ当な憤慨であるように思う。しかし、考えてみれば、当時のアジア諸国においては為政者がこのような憤激を生じさせることの方が珍しかった。為政者にとって民衆とは世襲財産のようなもので、利益があれば資産を切り売りするのが普通であるように、民衆とは封建制度にあってはそのようなものだったからだ。
古代の日本の王たちも同じような局面では当然のように奴隷を輸出している。
それに秀吉が憤ったというのは、彼の庶民出身という個人的な経歴によるものだけとは思えない。こうした報告があがるということ自体、それが問題であるとするコンセンサスがあったからで、少なくとも中央政府やそれになり得る権力においては、統治者から民衆までを含めて国民とみる思想があったのだと考えられる。
国民国家とはまさしくそのようなもので、それは市民社会の後に構築されるものである。
国民国家とは事後的に創設されたものであって所与のものとして存在するのではない。政権や王朝と国家はイコールではない。
国民国家を解体して、市民社会を推し進めるということは、同じ国の民衆を奴隷として売ることがあり得るということだ。
王法の上に王を置くということでもある。
グローバリズムが進行する世界において、市民化が進むからこそ、求められるのは国民国家の強化とその再構築である。
それは国民の大多数を、ジンバブエのように政権あって国家なし、という如き状況に置かないために必須のことである。



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20080521

ネオリベラリズムの失敗

私自身は政治的にはリバタリアンであり、経済政策においてもそれに近い立場をかつてはとっていたが、90年代以後の惨々たる「グローバリズム」の失敗を見るにつけ、少なくとも経済政策的にはコミュニタリアン的な立場に軸足を移している。
自由を擁護する実際的な装置なしには自由は擁護され得ないからだ。私が求める自由とは、搾取されたり野垂れ死にする自由ではない以上、他人のそうした「追い詰められた自由」に無関心ではいられない。
非常に複雑な様相を呈する政治思想・経済思想において何が正しいのか、何が妥当なのかを判断するのは容易ならざることだが、20世紀を通して見た場合、経験的には以下のことが言えると思う。

・網羅的な計画経済は停滞と政治的強権を招く。
・経済は下部構造ではなく、上部構造であり、政治によって大きく変化する。
・セーフティネットに配慮しない自由競争は自由競争の基盤となる多数のプレイヤーの生存の破綻を招く。
・規制緩和による経済刺激は一時的な効果をもたらすに過ぎない。
・問われるべきは規制緩和をする/しないではなく、どの程度、どのような効果を期待して緩和するかである。
・徹底した自由貿易は自国の産業強化の役に立たず、いずれの国にとっても産業の脆弱化をもたらす。
・ポテンシャルの低い産業への保護主義は膨大な負担を公共部門に強いて、なおかつそれほどの効果を上げない。保護主義は否定されるべきではないが、その産業が存在する公共的な利益の程度と、成長性が勘案されるべきである。
・労働者は消費者であり、しかもこの性格の利害は対立する。消費者利益重視はイコール、労働者の不利益であり、労働者を保護する政策が同時に進められて、消費者保護は成立し得る。
・労働者は国民であり、労働者の利益が破壊された時に生じるのは、国家の衰亡である。

ネオリベラリズムは、それまでの福祉国家のアンチとしての意味はあった。
組合は経営のみならず政府化さえするようなスカーギル的な過重に保護的な福祉主義が産業の近代化の阻害要因となっていたのは明らかだからである。そうした不合理は福祉国家にも伴うものとして、さまざまな場面にあり、それらは是正されるべきことだった。
しかし同様に、行き過ぎから生じる不合理はネオリベラリズムにもあり、80年代にその思想が正義となって以後の、特にアメリカの荒廃はすさまじいものがある。
80年代を経過した諸国においてネオマルキシズムが成長し、若者に左傾化が見られ、左翼政権が成立しネオリベラリズム政権と比較して成果を上げているというのも、その直前にネオリベラリズムが存在していたからである。
1990年代のロシア経済の失敗はMITやシカゴ学派のマネタリズム経済学が実際のマクロ経済を運営する局面において、是正ではなく徹底として用いられる時、どれほど破壊的な状況をもたらすかを示している。
ケネス・ガルブレイスは、経済学を評して、本来それは純粋に数学的なものではなく、もっと歴史的なものであるというような内容のことを言っている。彼は経済学が文系に属する日本の状況を見て、実際にはそうした状況が望ましいとも言っている。
歴史における何らかの教訓がまさしく教訓であり定理的ではないように、経済学が過度に数学的に処理される状況に対して根本的な危惧を彼は持っていたのだが、今から振り返ればまさしく先見の明があったと言えるだろう。
政治と経済の分離がなされたうえでの経済学の政治への侵食が、国民国家、国民経済の危機の深刻化を招いており、日本において程度的にそうしたものをもたらしたとされている小泉純一郎元首相が他の有力政治家の大半が法学士であるのに対して経済学士であるというのも、示唆的な事実であるように思う。
グローバリズムはこれからも必然的に進展してゆく。通信や情報の融合という意味において。
しかしそれと、経済のグローバリズムが必然的に進行する、進行しなければならないということはまったく別のことであって、IMFが主導するような経済グローバリズムに合致した政策をとった国ほど、発展から取り残され、国民経済の危機が強まっているのも現実の事実である。
いちはやく、事実にそぐう形での、新しいマクロ経済運営と国民国家の再構築に着手した国ほど今世紀において主要なプレイヤーとなるだろう。



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20080520

パックス・アメリカーナの終焉

西ローマ帝国では時々、皇帝が空位になることがあったから、奇しくも建国王と同じ名を持つロムルス・アウグストゥス帝が廃位に追い込まれた時、誰もこれが西ローマ帝国の終焉となろうとは思っていなかっただろう。
1453年にオスマンのメフメト2世によってコンスタンティノープルが陥落させられ、ビザンティン皇帝コンスタンティノス11世の遺体が晒された時も、西欧ではこれがローマ帝国の名実ともなる終焉であるとは捉えられていなかったに違いない。
ビザンティンは滅んでは再興して、を繰り返していたのだから。
このようなけじめのない幕切れは、スキピオ・エミリアヌスがそれを知ったならば、いったいどういうのだろうか。炎上、煙くすぶるカルタゴを見下ろしながら、「ローマもいつかはこうなる」と言った古代の智将は。
ローマにはカルタゴのような劇的な最期が与えられなかった一方、永遠の都として今も都市としては健在である。
人々は日々を生き、子を産み、育てながら、ふと遠い歴史を思い浮かべ、あの時が帝国の終焉だったのだとようやく気づくのだ。
パックス・アメリカーナもそのようなものであるのかも知れない。
私たちはもう、アメリカの時代の終焉後に生きているのかも知れない。

過剰適応という言葉がある。環境に適応し、繁栄しながら、適応ゆえに環境の変化を乗り越えられずに絶滅することだ。
かつてこの星で繁栄を誇った生き物たち、哺乳類型爬虫類、恐竜類、恐鳥類、超大型哺乳類たちは彼らの成功ゆえに次の時代へ生き延びることができなかった。
生き延びることが出来た者は、より小さな者、より成功していない者、より原始的な者たちだった。
いずれは人類も、とここで陳腐な感慨は言わぬようにしよう。
人類はミームによって進化をする唯一の生物であり、これまで生きた生物とは明らかに隔絶した存在である。スノーボールアースのような現象が再び起きても、恐竜絶滅を引き起こした程度の隕石の落下があっても、多くの人類は死ぬだろうが、絶滅まではしないだろう。
私たちは過剰適応しない能力によって適応してきた唯一の生物なのだから。
もちろん、より甚だしい隕石の落下があり、地表がめくりあがり、大地がどろどろに溶けることはあり得る。そこまでなれば、現在においてはもちろん人類とても絶滅するだろう。
しかし数世紀のうちに宇宙へ進出していけば、人類は更なる進化をとげるだろう。
だが、今日はそうした人類の未来の話ではない。国の歴史もまた、生物の歴史に似ている。古代文明の崩壊は文明が文明であることによって、自然を破壊し、文明であることに過剰適応した結果もたらされてきた。
今ここにある状況が、未来永劫続くのだと誤認した者たちはことごとく滅びてきた。そして誤認しなかった者はほとんどいなかったのだ。
第二次世界大戦の世界秩序、パックス・アメリカーナに最も適応してきたのはもちろんアメリカ合衆国である。アメリカはそこから利益を引き出してきた。
アメリカはアメリカ以外の国であれば絶対に出来ないやり方で豊かな生活を享受してきた。
アメリカ以外の国であればそもそも出来ないのだが、出来たとしても破滅という形で必ず修正を受けるやり方である。
アメリカは膨大な財政赤字を抱えている。これは本来、まかなえる生活よりも、過剰に豊かな生活を国民が享受しているということだ。
経済学は複雑だが、その基本的な構図はおどろくほど単純だ。本来、無い袖は振れないのだ。
アメリカはこの矛盾を国債を発行することで解消してきた。当然、膨大な赤字国債が累積してゆくが、これを外国政府が買う。彼らは余剰の外貨を遊ばせておくわけにはいかないからだ。彼らが余剰な外貨を持つのは貿易黒字が膨大になるからである。なぜ貿易黒字がたまるのかといえば、アメリカが買うからだ。本来、そうなればアメリカは膨大な貿易赤字を抱え、外貨不足に陥り、決済が出来なくなるので、貿易赤字は解消されてゆくが(国民の生活水準の低下という形で)、アメリカのドルは基軸通貨なので、外貨での決済をせずにドルを刷ればいいだけのことである。
これがつまり、パックス・アメリカーナの本質である。
ドルが基軸通貨であるということだ。
この流れが破綻する要因としてはふたつのことが考えられる。
第一にドルがほぼ唯一の基軸通貨でなくなること。そうなれば、貿易黒字の担保を持たないドルではなく他の選択肢が生じ、そのことが、ドルの基軸通貨性を崩壊させる。
第二に、アメリカが主要な貿易相手国ではなくなること。アメリカを経由しない域内貿易の比率が高まれば、外貨としてドルを獲得する程度が低くなり、それをアメリカ国債に変える理由もなくなる。
どちらも徐々に起こりつつあることだ。
アメリカは既に中国を敵とすることは出来ない。もちろん中国の存在自体がアメリカにとって脅威である。しかしアメリカが中国の崩壊をしかけるならば、それよりも先にアメリカが崩壊するだろう。
中国が国債を買わないことによって。それはもちろん中国にとってもドル資産の事実上の瓦解という以上に市場と技術提供先の崩壊を意味し、どのみち無事ではいられない。
しかしEUや中国が国内での需要を高め、域内貿易に依存を強めれば、アメリカが崩壊しても生き延びる余地は広がる。
アメリカにとって中国は絶対必要だが、中国にとってはアメリカはまあまあ必要な程度なのだ。
アメリカ政府、アメリカ通貨当局が自国の金融、経済をこれほど、脆弱な状況に誘導したことは未来から見れば驚くべき愚策であった、と評されるだろう。
もちろん、仮に経済崩壊したとしても、アメリカには強大な軍事力があり、高い技術力があり、豊かな天然資源がある。
ロシアでさえ復活したことを思えば、アメリカは必ずや廃墟の中から立ち上がる国である。
しかし立ち上がったとしても、もはやそこにはパックス・アメリカーナはないのだ。
アメリカは今後数世紀に及び、世界の主要なプレイヤーではあり続けるだろう。しかしルーラーではない。アメリカはプレイヤーであるべきだったのに、ルーラーとして振る舞い、結果として自国を危険な状況に導いた。特に、この20年は、アメリカは世界として振舞うという愚を冒した。結果として国民経済を瀕死の瀬戸際に追い込んでいる。
アメリカはヒトラーの呼んだ、国際ユダヤ人の国であるかのようで土くれの国家であることを忘れた。国力の基盤となり、国民の多くを養う製造業を、自らの政策で死に追いやった。
アメリカの指導者たちはアメリカ人である前に資本家であり過ぎた。
そのことに早晩気づかざるを得ないだろう。



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20080519

ライヒシュタット公

パリにあるオテル・デ・ザンヴァリッドは、日本語では通常、廃兵院と訳される。元々はルイ14世の創建になる軍事病院で、傷病兵を収容した。19世紀以後には軍事博物館になっており、フランス軍の著名な軍人の墓も置かれている。
第一次大戦で連合軍総司令官を務めたフォッシュ元帥の墓もここにあり、第二次大戦でパリ解放を成し遂げたルクレール元帥、植民地人からなる混成軍を率いて激戦のプロヴァンス会戦を制したド・タシニー元帥らも同様である。
フランス七月王政で成立したオルレアン王朝は、ブルボン王朝と同族ながら、フランス革命の自由主義的な成果を踏まえた王政として、ブルボン王朝との差別化を計った。
オルレアン王朝の王ルイ・フィリップの父、オルレアン公エガリテは自由主義的なサロンの主宰者で、革命初期には彼の居宅のパレ・ロワイヤルが革命の拠点となった。エガリテはルイ16世の処刑にも賛成票を投じている。
そうした性格を持つオルレアン王朝にとって、かつての皇帝ナポレオンはブルボン家が捉えたような簒奪者ではなく、自由君主政の先達だった。もちろん、傍系とは言えフランス王家に連なる彼らが成り上がりのコルシカ人一族に甘い感傷を抱いていたとは思えない。
しかしナポレオンは既に死に、その直系も既に絶えたとなれば、いずれにせよその時点では帝政は遠い過去の話であって、ナポレオン神話を自らの権力強化に利用しようとしたとしても不思議ではない。つまり、絶対王政のブルボン王家を追い払った、フランス革命の嫡子、自由帝政の継承者として、オルレアン家はボナパルティズムを利用しようとした。
1840年に、フランス王ルイ・フィリップは、王太子をセントヘレナに派遣して、ナポレオンの遺体をパリに護送させている。道中は偉大なる皇帝陛下を称えるセレモニーと群衆で埋め尽くされ、パリに到着後はオテル・デ・ザンヴァリッドに埋葬された。ナポレオンの遺体は今でもそこにある。
典型的なブルジョワ自由主義体制だった七月王政は、プロレタリアート勢力との抗争に破れ、フランスは再び共和国になり、その後、共和国大統領に選出されたルイ・ナポレオンが国民投票を経てフランス皇帝となり、帝政が復活するのだが、それはまた別の話である。

1940年6月22日、フランス共和国はドイツに対して休戦協定という名の事実上の降伏をおこなった。
パリに入城したヒトラーにとってはおそらく彼の生涯において絶頂の頃で、第一次大戦で失った領土を再び獲得し、屈辱を注いだ。
ドーヴァー海峡の向こう側でなおも咆哮する英国を叩き潰し、ゆくゆくは独ソ戦の開始をすでに検討していたヒトラーにとって、フランスを信用しないまでも懐柔しておく必要はあった。
懐柔策のひとつとして持ち出したのが、ライヒシュタット公の遺体のパリへの移送である。
既にオーストリアを併合していたドイツは、ハプスブルク家歴代の霊廟を抑え、その中には皇帝ナポレオンの唯一の嫡子のライヒシュタット公のものも含まれていた。
フランス人にとって、ナポレオンの息子の遺体を取り戻すことが象徴的には重要だと考えたヒトラーは、墓を掘り返して、棺を廃兵院のナポレオンのかたわらに埋めた。
こうして、ワーテルローの敗戦後、離れ離れになった父子は、一世紀と半世紀を経て、ようやく同じ屋根の下で眠ることになったのである。
ナチスドイツの没落後も、ライヒシュタット公の遺体はウィーンに返されることもなく、父の傍らで眠り続けている。

フランス帝国の継承者として生まれたライヒシュタット公は、4歳の時に父の没落に遭い、短期間、フランス皇帝ナポレオン2世として擁立されたものの、連合軍はボナパルト王朝の継続を認めず、パリにはブルボン王家のフランス王ルイ18世が入った。
4歳の‘皇帝’は母親のマリー・ルイーズとともに母の実家のオーストリア・ハプスブルク家に引き取られることになった。
当時、オーストリア皇帝の地位にあったのは、母方の祖父、フランツ1世である。
フランツ1世には13人の子女があったが、マリー・ルイーズはその次女で、長女は夭折していたので、彼女が事実上の長子だった。
フランツ1世にとって、ナポレオン2世(ライヒシュタット公)は初孫にあたる。フランツ1世の子らは、皇帝に孫を与えることが少なかったので、ライヒシュタット公は彼がほぼ成人するまでの間、皇帝の唯一の孫であり、唯一の男子の孫だった。
フランツ1世はナポレオンに散々、痛めつけられた経験からナポレオンを憎んではいたが、孫は溺愛していた。今やフランス帝国の前皇后となった、娘のマリー・ルイーズの難しい立場を処理するために、イタリアのパルマ女公とし、パルマの統治を委ねることによって、マリー・ルイーズをフランスから遠ざけると同時に息子のライヒシュタット公からも遠ざけたのは、メッテルニヒの言を入れた皇帝である。
マリー・ルイーズは将来的にはパルマの統治権が息子のライヒシュタット公に引き継がれることを期待して、この提案を呑んだが、ウィーンにいる頃は彼女はナポレオンの妻として振舞っていたので、「よからぬ影響」が孫に及ぶことを皇帝が危惧した結果ともいう。
ともあれ、ライヒシュタット公は両親と離れ離れになって、老皇帝とともにウィーンで養育されることになった。
彼はかつてはローマ王であった。フランス皇帝でもあった。少なくともフランス帝国の皇子であり皇太子であった。しかしワーテルローの後、フランス帝国そのものが概念として抹消された。
フランスには今や、ブルボン王家は復活しており、ルイ18世、シャルル10世と王位は伝えられ、シャルル10世の王太子妃はマリー・アントワネットの娘マリー・テレーズだった。
ライヒシュタット公がハプスブルク家の外孫であるならば、マリー・テレーズもそうである。
彼は8歳になるまで、フランスにまつわる称号をすべて剥奪され、ただのフランツであった。
フランツ ― フランス人としての名前、フランソワ・ボナパルトでさえなかった。皇帝の一族でありながら、ハプスブルク家の人でもなかった。さりとて、ボナパルト家の人間であってはならなかった。
それではさすがにということで、8歳の時にライヒシュタット公に叙され、以後はハプスブルク家の一員として遇され、そのように行動することを期待された。
ナポレオンの母、レティシア・ボナパルトはローマにあって、やがてはこの孫が再びフランス皇帝となることを夢想していた。それは彼女一人の夢想ではなく、ライヒシュタット公ならぬローマ王フランソワはボナパルティストの希望の星であり、実際、数度に及ぶ奪還計画が実行されている。
ことごとくメッテルニヒの緻密な監視網に阻まれたのだが。メッテルニヒは明らかに、ナポレオンの唯一の嫡男という、存在自体が危険なこの少年の死を願っていたが、ここに大きな矛盾があった。オーストリアとヨーロッパにとって火薬庫そのものであるこの少年は同時に皇帝にとって溺愛する孫でもあった。
祖父と孫という血統、不幸な家庭環境に対する同情、そうした理由があったにせよ、皇帝フランツ1世にとって、ライヒシュタット公を愛するべき理由は他にもあった。勤勉で、努力家で、美貌の人であり、同情心があり、正義心に厚い、土くれの中に生まれたとしても必ずやひとかどの人物となったであろうと思わせるほどの非常に優れた青年に、ライヒシュタット公は成長した。
ウィーンはなおもナポレオンの悪夢を記憶していたが、それでもこの青年はウィーン市民の心をわしづかみにした。彼はどこに行っても人気者で、花形だった。
孫が優れた人物になることは老祖父にとってはもちろん喜びだったろうが、成長した彼をどのように遇するべきなのかは、依然として難問だった。皇帝の孫としてはそれなりの顕職が必要である。
しかし自由を与えればボナパルティストにどのように利用されるかがわからない。
ラヒシュタット公自身があくまでハプスブルク家の一員としてとどまるのか、危険な賭けに挑戦するのか、それも定かではなかった。
ライヒシュタット公は当初は禁じられていたフランス語の学習にも精を出し、批判的なものも含めてナポレオンに関する書籍を読み漁っている。彼が父親を尊敬していたのは確かだが、ナポレオンに蹂躙されたウィーンで育った彼は、ただ盲目的に崇拝しているような、幼い人物ではなかった。
ナポレオン体制の光と影、その二面性を知ろうとしていたライヒシュタット公は、自身、二面性を持つ人物だった。ナポレオンの息子として、老フランツ皇帝の孫として。
父がそうであったからそうすることが父の息子であることの証であるかのように、若き軍人となったライヒシュタット公は過酷な軍事教練にいそしんだ。それがまたたくまに、彼の肉体を蝕み、僅か21歳で結核で、ライヒシュタット公は死んだ。
「あれはやたら頑張り屋で…」
と孫に先立たれた老皇帝はぼそぼそと呟き、涙したという。
メッテルニヒにとっては非常に喜ばしい形での最終的解決だった。ライヒシュタット公をもちろんフランスに送り出すわけにはいかない。さりとて、ウィーンに置いておくのも危険な存在になりつつあった。
フランス革命の血統として、若者にありがちな理想主義者として、ライヒシュタット公は保守反動のメッテルニヒの政策の明確な敵対者となろうとしていたし、王室の中で唯一、宰相に比肩し得る人望と才能を持つこの若者の存在は、政争上も危険となっていた。

ライヒシュタット公の没後、4年にして老皇帝は崩御し、ライヒシュタット公の叔父のフェルディナント1世がオーストリア帝国の第二代の皇帝として即位した。しかし、あいもかわらず、オーストリアは宰相メッテルニヒに牛耳られていた。
メッテルニヒの圧迫は市民のみならず、皇族にも加えられていた。メッテルニヒの排斥に動いた人物のひとりが、フランツ・カール大公妃のゾフィー・フレデリケである。
彼女はバイエルン王マクシミリアン1世の娘で、彼女の長姉はロイヒテンベルク公妃アウグスタ・アマリア、である。ロイヒテンベルク公は別項で先述したとおり、ナポレオンの養子(皇后ジョゼフィーヌの連れ子)のユージェーヌ・ド・ボーアルネのことであり、ワーテルローの戦いの最後までフランス皇帝に付き従った人物だった。
そういう事情もあり、ライヒシュタット公の生前は、ハプスブルク家一族の中でも特に親しい関係にあり、彼女の長男のフランツ・ヨーゼフ1世は後にオーストリア帝国皇帝となるが、彼女の次男でフランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたるマクシミリアン大公は、実は父親はライヒシュタット公ではないかという話もある。
いわゆる歴史小話というか、現状ではゴシップの域を出ないけれども、マクシミリアン大公が後に、フランス皇帝ナポレオン3世にそそのかされて、メキシコ皇帝となったばかりにメキシコ革命で処刑されたことを思えば、なにやら因縁めいたものを感じないでもない。
メッテルニヒの栄華は1848年、ライヒシュタット公没後16年後まで続いた。
1848年は欧州全土で自由主義革命が吹き荒れた年だが、オーストリアでも同様で、メッテルニヒは失脚し、ロンドンに亡命、残されたハプスブルク家の意思統一を計り、帝室を守ったのが、ゾフィー・フレデリケだった。
メッテルニヒの政策の中で生きていた旧世代を避け、いまだ青年のフランツ・ヨーゼフを皇帝に据えることに成功した彼女は、それ以後の人生において、フランツ・ヨーゼフ皇帝の皇后エリザベートを「苛めた」姑としてむしろ知られることになる。



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20080518

世界政府の萌芽

アメリカ合衆国の相対的な影響力の低下は次第に明らかになりつつあり、世界は一極化するのではなく、むしろ多極化しつつある。
ブッシュ・クリントン・ブッシュの時代、つまり冷戦後の新世界秩序形成期にアメリカは幾つかの外交的な失敗を行った。その最たるものがイラク戦争で、人的損失にアメリカが耐えられない国であることが明らかになり、アメリカの力の限界が明瞭になった。
ウィルソニズムのような外交政策は、通常の国であればそれを採用することを考慮するのさえあり得ない様な、レアルポリティークに負担をかける政策であるが、外交政策がしばしば内政の延長であり、またそうであることが程度として許容されるような大国の場合、アメリカに限らず、ウィルソニズム的な外交政策を採ることがある。
しかしやはり構造上の負荷をかけるには違いなく、そのダメージがイラク戦争後、一気に噴出した形である。
80年代から続く、アメリカの巨額な貿易収支の赤字、財政上の赤字は、経済学上の未知の領域に踏み込んでいる。こうした現象の非破滅性が単にドルの基軸通貨性に由来しているのだとすれば、非常に脆弱な基盤の上にアメリカ経済は置かれていることになる。
ドルの基軸通貨性が欠片でも揺らいだ時、いったい何が起きるのか。
多極的な世界が経済にも及んだ時に、アメリカの世界性も急激に揺らぐことになるだろう。
ジョージ・ブッシュ・シニアは地上軍の展開というアメリカの伝家の宝刀を抜いてしまった。もともとアメリカ陸軍はそれほど目を見張るほどの戦果を上げてきたわけではない。アメリカは海軍力、そして空軍力の圧倒的な優位において敵戦力を叩き、そのうえで陸軍を投入するという戦略をこれまでとってきた。
空軍力で叩き潰しきれないゲリラ戦が展開された時、アメリカ陸軍は最強の名に値する戦果をあげてきたわけではない。もちろんアメリカが戦場になるようなことがあれば、アメリカ陸軍は圧倒的な抵抗力を見せるだろう。しかしそれが外国においても同様の行動を示せることを意味するものではない。
伝家の宝刀は抜かないことに意味がある。抜いてしまえばいかなる宝刀であっても不完全な姿を晒すだけだからだ。
ブッシュ・ジュニアはその宝刀を抜いてしまった。その結果が、北朝鮮やベネズエラなどの反米勢力の活動の活発化であり、アメリカの限界を見抜いた諸国、タイやマレーシアの明白な離反につながっている。
先日、捕鯨問題で私から見ればいささか過激に見える捕鯨反対主義者のアメリカ人とやりあった時、その人物は日本への報復をしきりに言った。アメリカが僅かに、日本製商品を市場から締め出すだけで、日本経済は崩壊すると思い込んでいるのだ。
まず第一にWTO秩序の中で複雑に絡み合った貿易政策においてはそんなことはできない。第二に、それをしたところで日本経済は致命的な損失を受けない。第三に、損失はむしろアメリカにとって大きいものになる(その人物はトヨタやホンダの自動車の販売禁止を言ったのだが、北米市場用の乗用車の多くがアメリカ合衆国で生産されていることは知らなかった)。すでに日米貿易よりも日中貿易の方が巨大なものになっているし、日本経済の貿易依存度も非常に低い水準になっている。
一般のアメリカ人のこうした自国に対する過大評価は、この先、どれほど続くのだろうか。アメリカの相対的な没落はもはや明らかであるのに、アメリカ人だけがむかしの夢をいまだに貪っている。
とはいえ、多くの点でアメリカと利害を一致させる日本にとって、アメリカのだらだらとした影響力の低下は必ずしも好ましいことではない。
すでにタイの離反は日本にとっても、中国勢力の東南アジアへの拡張という潜在的に無視できない危険を増大させている。
マラッカが中国のものにならずとも、これまでのように外交的に安定した環境が期待できないようになれば、日本はシーレーンの安全において重大な危機に直面することになる。
アメリカが過去の栄光の夢を引きずっているのは日本にとっては二重に危険である。第一に、それは外交的に不安定な状況を加速させるという点において。第二に、そうした状況に有効な対策をほどこせないという点において。
アメリカはいまだに80年代のような気分で部分的にはいるが、アメリカはタイやマレーシア、そして韓国に対して、非公式的な報復を行うべきなのだが、そのような外交方針さえまだ固まっていないように見える。

アメリカのクリントン政権は先進国首脳会議への、ロシアの正式参加を後押ししたが、先進国首脳会議の位置づけ、アメリカにとっての外交資産としてのそれという側面から見ればこれは明らかに誤った政策だった。
主に経済会議として始まったサミットだが、1983年のウィリアムズバーグ・サミットではっきりと西側主要国の政治的、外交的結束を維持する意味が付された。
ミッテランとレーガンの反目など、内部ではもちろん対立はあったのだが、この結束が維持できていればこそ、その後に続くソ連の崩壊に際して西側先進国は外交的な混乱もなく、適切に対処できたのだ。
クリントンはロシアの民主化を加速させるつもりだったのだろうが、結果的にサミットに異質なロシアなる存在を招きいれ、この結束を弱体化させた。
今後のサミットとしてはふたつの方向性が考えられる。
ロシアのみならず、中国、インド、ブラジルなどの次世代の大国を招きいれ、世界政府化を促すこと。今回の洞爺湖サミットではフランスがこれを主張した。
対してアメリカは、従来の「西側先進国」の枠組みを守りたい意向を示したが(日本政府ももちろんそうである)、既にロシアが入っており、EU統合の進展もあり、将来的には難しい。
結果としてサミットを多極化させることにつながったサミットへのロシアの加入だが、これは本来、アメリカの一極支配をロシアに及ぼすという逆のベクトルを目的としていた。
その発想がまさしく、アメリカの弱体化をアメリカがしっかりと認識していないことによって生じる弊害なのである。
21世紀において、おそらく22世紀においてもアメリカは大国であり続けるだろうが、冷戦期にあったようなほぼ絶対的な超大国としての指導力はもはやない。アメリカ自身はあると思っている。愚かしいことだ。
アメリカはごく有力な列強のひとつとして、新たなるレアルポリティークを基盤にした外交秩序を構築するべきなのだ。
アメリカは先進国の中ではEUという比較的対等な挑戦者を迎えるという新たな局面にある。ユーロは近未来的には唯一、ドルから基軸通貨の地位を奪えるかもしれない通貨であり、アメリカ経済の基盤がドルの基軸通貨性に大きく依存している以上、アメリカの経済覇権とそれに基づくこれまでの世界経済秩序を崩壊させる潜在的な力を持っている。
もちろんすでにドル資産を保有している国々はアメリカ経済の急激な落ち込みは望まないにしても、徐々にユーロへ外貨資産をシフトしてゆくことで、アメリカ財政を非常に危険な局面にたたせることはあり得ることだ。
その時にあっても、日本はアメリカにつく。
日本とアメリカの利益は一致しているし、そうした多極化すればするほど日本にとってのアメリカは重要になってゆく。
中国政府と中国人は必ずしも理性的な行動をとらないことはこれまでの例からも明らかだし、中国の脅威は更に強まってゆく。日本が自由と独立を保つことを前提にするならば、実際のところ他に選択肢はない。
アメリカにとって中国が潜在的な脅威であり主要な対抗者であるならば、EUにとって中国は味方である。ロシアがEUにとって脅威であるならば、ロシアは日本とアメリカにとって構造的な同盟国となり得る存在である。
EU+中国vs日本+ロシア+アメリカ、というのがこれからの世界の基本的な対立関係になり、先進国首脳会議の枠組みや、上海協力機構、NATOのような従来型の枠組みがいまだあるにせよ、それらはすでにレアルポリティークの基盤を失っている。
意義があるとすれば、それは異質かつ複数の「枢軸」間での対話の場としての意味だけである。世界的な問題、事実上の世界政府としての役割はそうした機関が担ってゆくことになるだろう。
一方、アメリカはすでにそうした従来型の機関が歴史的な役割を負え、意味を変えつつあることに気づくべきであり、アメリカ陣営のレアルポリティークに根ざした同盟機構の構築を急ぐべき時にきている。
サミットにそうしたものを期待すればこそ、ウィリアムズバーグの頃のような役割を求めて、「西側先進国」の枠組み維持を欲するのだろうが、アメリカがはっきりと認識しなければならないことは、EU、つまりドイツやフランスはもはや潜在的に敵であるということだ。英国がどちらにつくかははっきりとはしないが、このまま何もしなければ独仏枢軸に引き寄せられるだろう。
英国は既にサミットへの中国の参加、つまりサミットの世界政府化に賛成の意向を示している。
アメリカはNATOを解体し、カナダやトルコと二国間安全保障条約を締結するか、それを「アメリカ陣営」に拡大したほうがいい。更にEUに相当するような組織をアジア太平洋諸国、メキシコ、カナダなどと構築することも視野に入れるべき時期にきている。



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20080517

ヴェノナ文書とマッカーシズム

1995年にヴェノナ文書が公開されてから、既に13年が経過するのだが、この文書の扱いはよく言って現在進行形、アカデミズム的には黙殺に近いように感じる。
いわゆるジャーナリズムというか、アン・コールターのようなキワモノ扱いされる政治評論家からの言及はしばしばあるのだが、そこで指摘されていることが相当に根拠のある、公文書的には事実と見なされるようなことであるにも関わらず、リベラル側からの総括なり、批判なりはほとんどないようだ。
赤狩りとその時代をどのように評価するのか、非常に難しくなったのは確かだ。
少なくとも以前のように、エド・マローを持ち上げてしゃんしゃんとするわけにはいかない。
リベラル派でならす俳優・映画監督のジョージ・クルーニーなどは2005年になってなお、赤狩りを複眼的には見れない、「グッドナイト&グッドラック」を上梓していたが、べつだんマローを持ち上げるのはいいとしても、現実にソ連のスパイがマッカーシーが指摘した以上の規模と程度でアメリカの各分野に浸透していたことをどう評価するのか、21世紀の現実を見据える視線はそこには感じられない。
赤狩りに関する書物、そのほとんどはヴェノナ文書以前に書かれたものだが、実に惨々たる状況が繰り広げられている。
ヨーロッパ諸国は同時代から見てアメリカが集団ヒステリーに陥ったと見たものだし、おおむね狂気の時代なる認識の合意があったと言ってよい。
それがヴェノナ文書でご破算になった。
ここで問われるべきは、アン・コールターの言うような「リベラルの背信」ではない。確信犯のスパイはもともとソ連に忠誠を誓っていたのだから、背信者ではないし、多くのリベラルは単に知らなかったのだから。
本来、問われるべきは、自由や人権をより尊重するはずのリベラル勢力であればたやすく細胞の潜入を許してしまったという、民主主義社会の脆弱性なのだ。
もちろんリベラル(とされる勢力)がまったく批判を受けないわけがない。すでにフルシチョフ回想録が出た時点で、ローゼンバーグ夫妻のスパイ行為は明らかで、となれば赤狩りの犠牲者とされる人たち、デクスター・ホワイトやロクリーン・カーリーについても洗いなおしておくべきだったのに、それをせずにただひたすらマロー神話や犠牲者トランボ、抵抗者チャップリンの逸話に逃げ込んだこと。
本来、党派的な対立とは超越した国家安全保障上の問題を党派性の話に摩り替えてきたこと(だから同じことをされるのだ)。
「アメリカを変えた50人」という本の中で、マローの項目は劇作家のアーサー・ミラー(著名な赤狩りの抵抗者)が書いているが、すべてのアメリカ人は彼に感謝すべきだ、と彼は書いている。
非米活動委員会に呼び出されたミラーは、当時、妻だったマリリン・モンローを「貸し出す」よう暗に要求されたというが、そういう話もなかったとは言い切れない。それもまた確かに赤狩りのぬぐい難い側面のひとつである。
数え切れぬ無実の人たちがどさくさに糾弾されたことはあるだろう(無実かどうかの研究もぼちぼちなので、大物以外についてはまだ分からないことが多いのだ)。
しかし、エドガー・フーヴァーが果たした役割を、ヴェノナが明らかになった今日見直せば、必ずしも否定的にばかりは捉えられないのだ。少なくとも私はそうだ。
ケネディ兄弟がマッカーシーと親しかったようにリベラルといって、すべてがことごとく、スパイだったわけではない(当たり前の話だが)。ただ、少なくともルーズヴェルト政権やその上級政治職者を引き継いだトルーマン政権にあって、かなりスパイが浸透していたことは間違いなく、エレノア・ルーズヴェルトはとくに利用されたと言ってもいいのだ。
あれほど高貴で慈悲深く、聡明な女性にして。
民主主義社会におけるスパイの浸透、政治工作、世論操作をどのように考えるべきなのだろうか。
民主主義が持つ高貴な言論の自由につけこみ、常にプロバガンダや闇夜の脅迫に訴えかけようとする勢力は存在する。この現代日本社会においてさえ存在する。
そうしたものを一掃して民主主義社会は成り立たない。ある程度の毒を飲み込むことなしに、善なるものもまた担保は出来ない。
しかし、とも思う。今日多くの民主主義社会においてレイシズムの信条を公開することが違法であるように、極端な民主主義社会の徹底は民主主義社会を危うくすると考えられている。
ならばやはりスパイの浸透や、暴力やプロバガンダを伴った勢力の野放図な跋扈に対しても、リベラルこそが懐疑の声を上げるべきではないか。
彼らはリベラルだから保守から叩かれるのではない。リベラルを現実に築く上で、党派的に過ぎるから叩かれるのだ。



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20080516

アメリカ合衆国大統領継承順位

アメリカ合衆国の場合、厳密な三権分立が定められているから、副大統領が上院議長を名目的に務める例を除いて、行政職の政治家と立法職の政治家が交差することはない。
例外的とも言えるのが、アメリカ合衆国大統領継承順位であるが、これには、下院議長や上院仮議長が順位の上位に含まれている。
しかし、実際に仮に彼ら立法職の政治家が大統領職を継承した場合には、立法職を辞めなければならない。その点、同時に立法職と行政職を兼務できないという三権分立の要諦は守られているのである。
実際に、大統領が死亡するなり辞任するなりなどをして、大統領職が継承された例としては、9例ある。
この他、大統領権限が一時的に委譲された例としては、2例あり、そのいずれもが、副大統領による継承・代行である。
仮に、副大統領が何らかの事情で不在の状況で、その次に大統領職を継承する者は下院議長であるが、一時的に大統領職を代行する場合であっても、三権分立の必要から、その場合、下院議長は下院議長と下院議員の身分を辞任しなければならない。
なぜ副大統領の次の継承者が上院議長ではなく下院議長なのかというと、上院議長とはつまり副大統領だからだ。上院議長職を副大統領は兼務するが、この職分は実際には名誉職以上の意味合いはなく、副大統領は立法府には基本的には関与しない。
副大統領が行うのは、票決で可否同数となった場合の決定だけである。
実際の議長としての職分は上院仮議長が行い(下院議長に次ぐ大統領職継承者)、日常の議事運営は上院仮議長代行が行う。
上院議長と副大統領が兼務されていることを、立法府による行政府への権限の侵攻と見るか、もしくはその逆と見るかは難しいところである。
先述の通り、実際には上院議長の職分は名誉職以上の意味合いはないのだが、可否同数の場合、つまり国論が真っ向から対立している重要な局面において、行政府が立法権を左右できる僅かな可能性があることを意味しているのも確かなことだ。
実際にはこうした局面はまったく稀というわけでもない。
思うにこの部分は、アメリカ合衆国憲法に残された僅かな旧宗主国の英国の議院内閣制の痕跡であり、実際には上院議長の権限の拡張(副大統領職の兼務)が三権分立の厳密な成立とともに、むしろ行政府が立法府に獲得した僅かな足がかりとなったと見るのがよい。
アメリカ合衆国大統領には立法権はなく、政令制定権もない。
現実にそうした立法権限からまるっきり切り離されて行政職は成立しないので、大統領と立法府は非制度的な影響力を行使しあう、補完的な関係にある。
それをつなぐ立場として、副大統領があり、大統領職が危機に陥った場合、むしろ議会指導者の方が閣僚よりも上位に置かれることにつながっている。

現実には、大統領職・大統領権限を下院議長が継承した例はそれに非常に近い例としてはフォード大統領の大統領職継承がそれにあたる。
ニクソン大統領はウォーターゲイト事件の責任をとって大統領職を辞任しているが、それに先立って、副大統領のアグニューはメリーランド州知事時代の贈収賄事件の責任をとって、副大統領職を辞任していた。
フォードはその時、下院議長ではなかったが(共和党が下院で少数派だったため)、共和党の下院院内総務であり、大統領職継承順位に擬して、副大統領職を継承している。
実際には副大統領職の継承順位を定めた法律はなく、必要な手続きとしては上下両院での信任決議である。
実際、フォードが大統領に昇格した後に副大統領に承認されたのは、議会人ではなかったニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーである。
つまり、フォード副大統領からロックフェラー副大統領への継承は、大統領継承順位は考慮されなかったものの、アグニュー副大統領からフォード副大統領への継承は少なくともそれが参考にされたと考えられる。
しかしここでいう参考があくまで共和党内部での参考であって、厳密に大統領継承順位そのものが参考されたとは言いがたい。
というのも、大統領継承順位にある副大統領に次ぐ継承者は下院議長であって、与党の下院院内総務ではないからである。
ここで、仮に大統領職・大統領権限の下院議長への継承が行われた場合、無視しがたい矛盾が生じる可能性があることを指摘しておかなければならない。
下院の多数党が大統領が所属するのとは別の党、野党である場合、下院議長は当然野党である多数党から出す。
共和党の大統領が死亡し、副大統領も不在の場合、下院議長である民主党の議員が大統領職を継承することもあり得るのだ(あるいはその逆もあり得る)。
これは可能性としてはごく低いものであるが、ニクソン政権で副大統領が不在だった時に、仮にニクソンが暗殺でもされていたならば、当然、当時、下院の多数党を掌握していた民主党の下院議長であったカール・アルバートが大統領になっていたかも知れない。



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20080515

暫定王位継承者

英国の王位継承は次のようになされる。番号が若い方が、基準としては優先される。

1.直系と傍系では直系優先
2.男系と女系では男系優先
3.男子と女子では男子優先
4.長系と幼系では長系が優先

それぞれを解説すると、基準1は、要はまずは君主の子の中で王位が継承されるということだ。
王に娘がひとりいて、王の弟に息子がいるとしても、王位は男子である王の弟やその息子に継承されずに、王の娘へと継承されるということだ。
基準2は、王に子がいないまま崩御したとしよう。そして、甥と姪がひとりずついたとする。甥は王の姉の子で、姪は王の弟の子だとする。この場合、甥は王から見て女系であり、姪は王から見て男系である。この場合は男系が優先するので、王位は姪の方へ行く。
基準3は、王に長女、次女、長男の順で子がいるとする。長男は末っ子だけれども、男子なので、女子よりも継承権が優先されるので、ふたりの姉をとばして王位は末っ子の長男へ行くということだ。
基準4は、王に長女と次女がいる場合、年長の長女へと王位が継承されるという意味だ。

以上を前提とすると、英国では女子の王位継承権も女系の王位継承権も認めてはいるものの、同一の兄弟姉妹の中では、男子が優先される仕組になっている。
仮に、王が70歳で、子は娘がひとりいるだけだとしても、王が新たに息子をもうける理論的可能性は残されている。
皇太子(皇太女)とは次に王位につくことが確定している人との本来の意味を考慮すれば、そういう場合、どれほど王女が次に王位を継ぐことが確実でも、皇太子にはなれないことになる。
単に王位継承権第一位であるにとどまらず、諸般の状況から王位を継ぐことがほぼ確実な女性は、これまでは皇太子にはならずに(「ほぼ確実」は「確実」とは違うので)、暫定王位継承者として遇されてきた。
暫定王位継承者とはその立場であると同時にある種の称号でもある。
つまりこの者は暫定王位継承者であると勅令で宣言された女性であり、英国史上、これまで3人の女性がそう名乗り、そう遇されてきた。
一人目はジョージ4世の一人娘シャーロット王女である。
ジョージ4世は王妃のキャロライン妃とはひどく不仲で、結婚直後に同居したのみで、すぐに長い別居状態になっている。自身が即位する時も、王妃の即位式への出席、戴冠を許さないという嫌がらせをしていて、彼が崩御した際にタイムズ紙が激烈に故人となった王を非難する理由のひとつとなった。
シャーロット王女はそうした夫婦の唯一の娘だったが、当然ながら父親をほとんど呪っているほどに嫌悪していた。それでも、王の唯一の娘ではあるので、彼女は暫定王位継承者として遇された(王と王妃の間にその後に息子が生まれる可能性は事実上皆無だったので)。
シャーロット王女の夫がザクセン・コーブルク・ゴータ公子で、後に初代ベルギー国王となるレオポルト1世である。レオポルト1世の姉は、ヴィクトリア女王の母であったので、ヴィクトリア女王にとっては叔父、ということになる。
シャーロット王女は、出産のおりに命を落とした。子も死産だった。
こうして、ジョージ4世の血統は断絶したので、ジョージ4世が崩御した後は、その次弟のウィリアム4世が即位した。
ウィリアム4世がまだ王位につく前、クラレンス公だった頃、彼は王位を継ぐ立場になかったので、気ままな生活を送り、女優のドロシー・ジョーダンと事実婚関係にあった。彼らの間には十人の庶子がいたが、庶子であるので王位継承権はなかった。ウィリアム4世はこれらの子にフィッツクラレンス(クラレンスの子、という意味)なる姓を与え、長男のジョージ・オーガスタスは初代ミュンスター伯爵に叙されている。
シャーロット王女が悲劇的な死を迎えた後、王位を継承する見通しとなったクラレンス公は、次代の王位継承者を確保するために、ドロシー・ジョーダンとの関係を終わらせ、新たにザクセン・マイニンゲン侯女のアデレードを正式の妃に迎えた。
ウィリアム4世とアデレード王妃との間には、7人の子が生まれたが、いずれも死産か夭折していて、直系の王位継承者は得られない見通しになった。
ウィリアム4世夫妻にとって最後の子が1824年に死産となった結果、王のすぐ下の弟ケント公(その時点では既に故人)の一粒種で忘れ形見のヴィクトリア、当時5歳が事実上の王位継承者となり、その後、暫定王位継承者となった。
これが二人目の暫定王位継承者で、ヴィクトリアは1837年、18歳で連合王国の女王となった。
三人目の暫定王位継承者はもちろん現在の女王、エリザベス2世である。
彼女の父、ジョージ6世には子供の時から言語障害があり、非常に引っ込み思案な性格だった。本来、王位を望む立場でもなく、そうした野心もまったく皆無だったが、彼の兄のエドワード8世はウォリス・シンプソンと結婚するために王位を投げ出した結果、即位せざるをえなくなった。
内気で社交的な場をとても苦痛に感じる夫に、非常な重荷を背負わせたとして、恋女房だったエリザベス王妃(エリザベス2世即位後はエリザベス皇太后)は生涯、エドワード8世(ウィンザー公)とその妻ウォリスを許さなかった。
彼女は国王の責務が決して頑丈ではない夫の命を縮めさせたと考えていた。
ジョージ6世とエリザベス王妃にはなかなか子供が生まれず、エリザベスとマーガレットの王女たちも人工授精によって誕生している。
人工授精としてはごく初期の例であり、現女王エリザベス2世はもちろん英王室の中で初めて人工授精によって誕生した人物である。
そうした不妊傾向がある夫妻だったから、マーガレット王女が生まれた後は、新たに息子を得られる可能性もほぼ皆無であり、エリザベスが事実上の王位継承者であることは早い時期から確定していた。そして彼女もまた、暫定王位継承者となった。
ちなみに、ウィキペディアのこちらのページではヴィクトリア女王の長女ヴィクトリア(ドイツ帝国皇帝フリードリヒ2世妃)を暫定王位継承者としているが、暫定王位継承者とは単に王位継承権第一位の女性ではなく、王位を継ぐことがほぼ確実な女性に与えられる称号の一種なので、これは正確ではない。
遠からぬうちに、彼女に弟が生まれるだろうことは確率的に決して低い予想ではなく、実際、翌年には弟のエドワード7世が誕生しているからだ。
ただ、彼女の誕生が特別だったのは、彼女の誕生によって、ヴィクトリア女王の叔父のカンバーラント公アーネストとその子らの家系に英国王位が行く可能性が潰れたからだ。
ヴィクトリアが即位するまで、英国はハノーヴァー王国と同君連合だったが、ハノーヴァー王国は女子・女系継承を認めていなかったので、ヴィクトリアが即位すると同時に同君連合は解消され、彼女の叔父のカンバーラント公アーネストがハノーヴァー王エルンスト・アウグストとして即位した。
非常に評判の悪い人物で、ハノーヴァー王としては、ゲッティンゲン大学からグリム兄弟を含む七名の自由主義的な教授たちを追放する愚を犯している。
英国国民はこの人物だけは絶対に英国王になって欲しくなかったので、女王夫妻に長女が生まれたことから、「カンバーラント公の脅威」から解放され、それを喜んだのだった。



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20080514

沿海都市、内陸都市

私がこれまで居住した幾つかの都市はすべて沿海都市だった。日本で都市に住もうと思えば、だいたい海沿いに住むことになるのだが、世界の大都市には内陸に所在するものもかなりある。
沿海部にあることの利点、欠点、内陸部にあることの利点、欠点はそれぞれある。
各国の首都を見れば、歴史の古い都市は内陸部にあることが多く、新興の都市は沿海部にあることが多い。
かつては内陸にあることの利点が、欠点を上回り、現在は状況は違っている、ということだ。
巨大なメガロポリスに生きる者としては、このようなメガロポリスが沿海部にないことの不都合は非常に甚だしく思える。
それは大都市・東京が問題の最終的解決として海に非常に多くを依存していることからも言える。
ゴミの埋め立て、排水を沿海部のメガロポリスは海に依存しているが、内陸都市は基本的には、そうした問題の解決方法として海には依存できないか、できるとしてもコストが非常に高くつく。
内陸の大都市パリであれば、下水施設を延々と沿海部まで延長しなければ最終的な排水は出来ない。そうでなければ川に流すだけであり、飲料水として河川の水を利用できる余地が小さくなる。
もうひとつ問題として思いつくのは輸送の問題である。
内陸の都市は、大量輸送手段として外洋船を利用できない。
実際には内陸都市であっても、河川を利用したり、運河を掘って、船舶での輸送路を海から内陸へと確保している場合が多いのだが、逆に言うとそうしたインフラを余分に整備しなければならず、また積み替えなどのコストが余計にかかることにもなる。
重慶のように、一大工業都市を内陸にこしらえることなど、環境と輸送を考えればほとんどきちがい沙汰なのだが、もちろんそうなるにはそうなっただけの理由が別途にある。
日本は島国だから、日本人は内陸にあることの不利をいまひとつ理解できていないかもしれない。
内陸に首都があっても、国そのものが内陸国でない場合、海への道は確保できている。そうした場合はだいたい、港のある都市がその国の重要な商工業都市になっていて、表玄関になっている。
19世紀にイタリアが統一する中で、トリエステだけはオーストリアの支配下に置かれて「未回復のイタリア」と呼ばれ、オーストリアとイタリアの外交関係を甚だしく悪化させることになった。
イタリアはドイツを通してオーストリアとも「同盟」関係にあったが、第一次大戦でこの同盟から離脱して連合国側についたのはオーストリアとのトリエステをめぐる係争が原因である。
それだけ、トリエステはイタリアにとっては国土統一の最終目標として重要だったわけだが、オーストリアにとってもトリエステは絶対に手放すことが出来ない重要な都市だった。
オーストリア(当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国)は広大な面積を誇る帝国だったが、そのほとんどは内陸部にあり、トリエステはオーストリアにとっては唯一の海への出口、距離はあるにしても帝国全土の唯一の外港だったからだ。
海への交通路がないということは、交通路を他国の領土に依存しなければならないということである。
日本は島国だから、日本領海を抜け公海を通り、相手国の領海に入り直接貿易することが、可能である。内陸国であれば、この輸送路が他国に押さえられているのだ。
これが経済的に過重な負担であり、安全保障上も危険であることは明らかだ。主要な大国にそもそも内陸国がほとんど無い原因のひとつでもある。
かつて多く見られた内陸の都市国家でも、勢力が伸張すれば、最重要で行われることは外港の確保だった。中世イタリアの海洋都市国家といえば、ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァ、アマルフィだが、ヴェネツィアを除いて他の都市は中世後期には内陸国家によって征服されている。港を持つ都市は狙われやすいのだ。
海岸を持つ国であっても内陸に首都があれば、程度は違うにせよこの種の経済的、安全保障上の問題は生じる。輸送コストが増える問題もあるが、海への道を確保しなければならないという問題が生じるのだ。
ロシア革命後、ソ連は首都をサンクトペテルブルクからモスクワに移転したが、サンクトペテルブルクの生存のためにはサンクトペテルブルクの防衛が必要だが、モスクワの生存のためには外港としてのサンクトペテルブルクとモスクワ自身の防衛が重要だった。スターリンによる、フィンランド戦争などはサンクトペテルブルク、ひいてはモスクワの軍事上の強化が目的として考えられる。
外港がなければ大国は生存できないのだ。
ではなぜ、内陸に首都を置くのかという問題が生じる。
現在では新たに首都を築くのであれば、内陸に首都を置く理由はほとんどない。しかし過去にはあった。それはやはり安全保障上の理由である。
海は交通の道にもなるが、海には同時に敵国の海軍も存在している。
日本が近海の制海権を失えば、敵国が日本の首都を攻略することはたやすい。実際、江戸湾にまでアメリカ艦隊が入り込んだことが、幕末の日本を開国させる決定的な要因となった。首都の内臓を晒しつつ、戦うことは出来ないのだ。
重慶のような工業都市が内陸部にあるのは毛沢東三線建設計画に由来している。
敵は海から来るとの認識の下、重要な軍事工業施設を毛沢東は四川のような内陸部に建設させた。先日の四川大地震で、核開発施設などの被災がささやかれているが、なぜ四川に核開発施設のような重要な軍事施設が重点的に敷設されているのかは、毛沢東の軍事思想によっている。
人は成功体験に拘泥するものだが、毛沢東にとってはそれは奥地への逃走の過程で強大化することに成功した長征体験だった。
経済上、環境上は明らかに不合理な内陸の工業化、内陸の都市化は、軍事的には必ずしもそうではないのだ。
ローマ帝国時代には交通の便が良い沿岸部に置かれていた修道院も、ヴァイキングの略奪が横行するようになって、奥地へ、奥地へと川を遡行して移転している。
それに従ってヴァイキングも河川を奥へ奥へと遡行するようになり、ついには河川とも切り離された要害の地に修道院は建てられるようになった。修道院が峻険の地にあることが多いのは、べつに修行のためではないのだ。
逆に、海外の文物を吸収するために海沿いに首都を移転したロシアのピョートル大帝は、首都を守るために積極的な外征を行わなければならなかった。大帝が北方の流星王を下して得たものは、首都の安全と、海沿いに首都があることによって得られる、ロシアの近代化だった。



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20080513

貴賎結婚

ヨーロッパの王族において、貴賎結婚とは、王族以外の者と結婚することである。この場合の王族とは君主の一族ということであって、称号はさして重要ではない(格の違いはあるが)。公爵であっても、独立した君主としての公爵、王族でもある公爵であるならば、王族と結婚しても貴賎結婚にはならないが、単なる貴族である公爵では貴賎結婚になる。
ヨーロッパの王族の歴史で、「貴賎結婚を批判された」と言うような場合、ほとんどが王族と貴族との結婚であって、王族と平民との結婚ではない。
「身分卑しい」と評されていても、大抵は貴族の子女なのであって、臣下と結婚することが問題視されたのである。

21世紀の現在、100年前とヨーロッパの地図は大きく変わった。まず、国の数自体が100年前は少ない。共和国はフランス、スイスだけであって、他はすべて君主国だった。
今では、かつての帝国は崩壊し、幾つかの国々に分かれ、共和国が半分以上を占める。
このような状況では、従来のような、国境を越えての王族同士の結婚はほとんど見られなくなった。貴族との結婚さえ少なくなり、平民との結婚が当たり前になっている。
ざっと英国のここ数代の状況を見てみよう。
黒字が平民出身者、赤字が貴族出身者、水色字が王族出身者、青字が君主の子女もしくは君主である。

【エリザベス2世女王の子女の結婚相手】
チャールズ皇太子妃(コーンウォール公妃)カミラ
チャールズ皇太子妃(ウェールズ公妃)ダイアナ
アンドリュー王子妃ヨーク公妃セーラ
エドワード王子妃ウェセックス伯爵夫人ソフィー
アン王女夫君マーク・フィリップス大尉
アン王女夫君ティモシー・ローレンス海軍大尉
【ジョージ6世の子女の結婚相手】
エリザベス2世女王夫君エディンバラ公フィリップ
マーガレット王女夫君アンソニー・アームストロング・ジョーンズ(結婚後、叙爵されスノウドン伯爵)
【ジョージ5世の子女の結婚相手】
エドワード王子妃ウィンザー公妃ウォリス
ジョージ6世王妃エリザベス・バウズ・ライアン
メアリー王女夫君第6代ヘアウッド伯爵
ヘンリー王子妃グロスター公妃アリス・クリスタベル・モンタギュー=ダグラス=スコット
ジョージ王子妃ケント公妃マリナ・オヴ・グリース
【エドワード7世の子女の結婚相手】
ジョージ5世妃メアリー・オヴ・テック
ルイーズ王女夫君ファイフ公
モード王女夫君ノルウェー王ホーコン7世
【ヴィクトリア女王の子女の結婚相手】
ヴィクトリア王女夫君ドイツ皇帝フリードリヒ3世
エドワード7世妃アレクサンドラ・オヴ・デンマーク
アリス王女夫君ヘッセン大公ルートヴィヒ4世
アルフレッド王子妃ザクセン・コーブルク・ゴータ公妃マリア(ロシア皇帝アレクサンドル2世の皇女)
ヘレナ王女夫君シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール
ルイーズ王女夫君アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル
アーサー王子妃コンノート公妃ルイーズ・オヴ・プロイセン(プロイセン王族)
レオポルト王子妃オールバニー公妃ヘレナ(ヴァルデック・ピルモント侯女)
ベアトリス王女夫君バッテンベルク公ハインリヒ

英国を例に示したが、他国でも同じようなもので、代が下がるにつれ「貴賎結婚」の度合いが大きくなっている。
20世紀初期までは君主の子女同士が直接通婚する例も見られたが、ほとんど見られなくなり、かわって傍系の王族との通婚が増え、それが更に貴族の子女に置き換えられ、更には平民との結婚が一般化している。
やはり直系の継承ラインにいる王族の結婚相手は、それなりに家格が重視されていて、代が下るにつれ「軽く」はなっているものの、チャールズ皇太子は初婚時には平民ではなく貴族の娘であるダイアナを結婚相手に選んでいる。
エドワード8世は、アメリカ人ウォリス・シンプソンとの結婚を貫くために、王位を捨てなければならなかったが、彼の姪の子の代には、ほとんどが平民と結婚しており、変化が急激であったことを物語っている。
エリザベス2世の妹、マーガレット王女は、離婚歴のあるタウンゼント大佐と恋仲になり、結婚を考えるまでになったが、相手側の離婚歴が問題視されて、破談とせざるを得なかった。
現在では、離婚歴のあるコーンウォール公爵夫人カミラが皇太子の妻に収まっている。
マーガレット王女といえば、アームストロング・ジョーンズ氏と結婚したのだが、身分を釣り合わせるために、アームストロング・ジョーンズ氏にはスノウドン伯爵位が叙爵されている。
しかし女王の娘のアン王女が平民であるフィリップス大尉、ローレンス大尉と結婚しても、両者は叙爵されていない。
特に、フィリップス大尉の息子と娘は女王夫妻にとってそれぞれ初めての男女の孫であるにもかかわらず、爵位は授与されていない。
これも1960年代より徐々に浸透してきた英国の脱貴族社会化、民主化路線の一環であろう。



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20080512

大統領制と議院内閣制

アメリカは世界の通例から見ると、政治体制においてはわりあい特殊な国で、決して標準的な国ではない。
先進七ヶ国、これに「西欧型社会、民主主義、先進国」というくくりを加え(ベネルクスや北欧、オーストラリアとニュージーランドを加えるという意味)、旧西側資本主義先進諸国を見るに、そのほとんどは議院内閣制を採用しており、実はこのカテゴリーの中では大統領制を採用している国はアメリカとフランスしかない。
フランスの場合は元々は議院内閣制の国であって、第五共和制発足に際して大統領に権限を集中したことから大統領は議会に対しても解散権を持つ。重要な案件について国民投票にかける権利、つまり変種の法案提出権も持つ。
このことから正確にはフランスの政治体制は大統領制ではなく半大統領制ともいう。
半大統領制というとなにやら不十分な権力しか持たない大統領を想起させるが実態は逆で、立法府に対しても権限を持ち、立法権の一部も持っているという意味である。
アメリカの大統領制は、完全に三権分立が徹底した政治体制であり、実は政治体制で見る限り、アメリカ大統領はけっして強大な存在ではない。
日本のような議院内閣制の場合、首相は行政府の長であると同時に、議会においても与党を率いる立場であり、議員でもあり、行政府と立法府双方に権限を有する。
議院内閣制の首相の方がむしろ在任期間が長い傾向が一般にあり、政治制度としては議院内閣制の方が強力なリーダーシップ、政府の権限の増大を生じさせやすいのである。

議院内閣制の中心的な機能は、議会によって首相が指名されるということである。
多くの場合は議会の過半数を得た政党(もしくは連立政党)が首相を選ぶ。つまり首相は、議会の代表的な指導者でもあり、原理的には議会と政府の分裂は生じないか、生じる可能性が著しく低い。
政治の安定度合いでいえば議院内閣制の方がはるかに適しているのだ。
大統領制は発展途上国で多く見られる政治制度だが、大統領は議会によって選ばれるのではなく国民の投票によって選ばれるので、議会の多数党と与党が別、ということが生じやすい。
フィリピンや韓国など、フランスやアメリカを含めて、行政府と立法府の対立がしばしば生じる国のほとんどが大統領制の国であるというのは決して理由がないことではない。

三権分立は権力が権力を互いに抑制しあう仕組だが、それが徹底しすぎれば、統一的な統治が難しくなる。大統領制は抑止を重視するばかりに、権力の統一性を毀損した、ある種の欠陥的な制度だといえる。
国民的な政治的コモンセンスが充実していない発展途上国にあっては、大統領制は政治の不安定化を増大させるという意味で決して適当な政治体制ではないのだが、アメリカでは比較的うまく機能しているように見える。
フランスの場合は、大統領制の内部に構築された議院内閣制が安定を担保しているともいえるのだが、アメリカは非常に徹底した三権分立を敷いていて、容易に政治が不安定になりそうなのだが、必ずしもそうなっていない。
大統領制を採っているにも関わらず、全体として統一しているというのもアメリカが特殊なところである。



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20080511

Finlandia

シベリウス作曲の交響曲(シベリウスは交響詩としているが)「フィンランディア」を地名を示す接尾辞が二重についている奇妙な固有名詞である、とするのはどうなんだろうと思う。
確かに、-land も -ia も固有名詞と結合し、「何々の土地」を意味する地名接尾辞ではある。
「フィン人の土地」という意味であれば、Finland もしくは Finia/Finnia で必要充分であり、Finlandia とするのは、「いにしえの昔の武士のさむらいが馬から落ちて落馬して」に似た不要な重複になる。
しかし -ia が必ずしも地名接尾辞だけかというとそういうこともないのであって、抽象化して名詞化する際にも用いられることがあり(historia/historiae などがそう)、私としてはむしろこちらのニュアンスに近い用法ではないかと思う。
つまりフィンランディアとは、フィンランドという具体的な地名固有名詞を意味するのではなく、文化やそれに対する思い入れ、その歴史、人々の生活等等をすべてひっくるめた「フィンランドというもの」を意味しているのではないかと思う。
フィンランドという固有名詞はもちろん限定的な概念だし、それに対する思い入れはフィンランド人ローカルなものではあるけれど、それをより抽象化することで、フィンランドを通して祖国愛なる普遍的な感情を表現しているのだと思う。
つまりフィンランディアを聴いて感動する時、私たちはいずれも「フィンランド人」なのである。
フィンランディアという楽曲自体は、確かにフィンランドの第二国歌であるようにフィンランド国家と密接に結びついているが、そこに描かれた故郷の人々や山河を想う気持ちは、普遍的なものであり、フィンランディアはフィンランドを描いたものではなく、フィンランドを通して「フィンランドというもの」を描いた楽曲なのだ。
冷戦期において、ジョン・ケネディが言ったように自由のために戦うものはすべてベルリン市民であったように、故郷を想い、歴史を尊び、生まれては生きてゆくことを肯定する人々はすべてフィンランド人なのだ。
そういう意味ではこの曲は patriotism ではあっても nationalism ではない。ましてエスノセントリズムではない。個人的なことがもっとも普遍的なことにつながる一例である。

調べてみると、シベリウスはわりあい長生きした人で、1865年に生まれ、1957年に死んでいる。フィンランディアは1899年に作曲されている。
シベリウスはフィンランド現代史の中で、ロシアによる統治の時代、フィンランド独立の時代、ソ連との戦争の時代、ソ連に協調的なフィンランド化の時代を生きたが、フィンランディアはそのすべての時代を彩ったことになる。これが個人的には、わりあい不思議な感触を受ける。
それほどフィンランディアは神話化されているにもかかわらず、ルーツとしてはほとんど同時代であるということへの奇妙な感触。
以前聞いた話で、南太平洋の某島で、太平洋戦争中の日米両海軍の決戦の様子が、すでに神話化されて語られているというが、それと似たような感触である。

スターリンは書記局に権限を集中させ、レーニンの死後実質的に独裁体制を確立すると、トロツキーなどの主要な政敵を追放粛清したのみならず、自らの対抗馬となりそうな人物はことごとく粛清した。
特に赤軍は、軍事力を掌握している関係から、その粛清の度合いが甚だしく、赤軍の英雄トゥハチェフスキーのみならず、優秀な将官をことごとく粛清していた。
当然、赤軍の弱体化は甚だしかったのだが、その中からも次世代の将官が育ちつつあり、1939年の春から夏にかけて満蒙国境地帯で日本軍と衝突したノモンハン事件では、第二次世界大戦を軍事的に指導することになるジューコフが頭角を現している。
ノモンハンでのソ連軍の勝利は、赤軍全体の弱体化を考慮すればむしろ例外的な、状況を得て、人を得た、幸運によるものとも言えるのだが、それがスターリンをしてソ連軍の実力を過信せしめた。
この時期、スターリンはナチスドイツに接近している。
第一次大戦後のドイツと、革命後のロシアとの接近はこの時期にいきなり成立したものではなく、両者ともヴェルサイユ体制下では国際社会から掣肘を受けたため、1922年にはラパッロ条約を締結して、互いの承認および秘密裏の軍事協力関係を結んでいる。
スターリンとヒトラーの接近も基本的にはこれに沿うものなのだが、1939年8月には独ソ不可侵条約が締結されて、両国の勢力範囲も確認されている。
ポーランドの東半分に加え、バルト三国、フィンランドもこの時、両国の間でソ連領にいずれ組み込まれることが確認されており、その後のスターリンの行動はこの時の合意にそって行われている。
スターリンはドイツに配慮して、外務大臣(外務人民委員)をユダヤ人のリトヴィノフからモロトフに換えることまでしている。
9月に入って、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、ドイツとの事前の協定に基づいて、ソ連軍はポーランド東部、バルト三国を接収、11月30日にはフィンランドに侵攻した。
ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて、英仏両国はドイツに宣戦布告をしていたが、ソ連に対しては将来の連合国化を期待する考えもあって宣戦布告には至っていなかった。
しかしこの時期のソ連はむしろドイツ側に立っており、西部戦線にまったく動きが見られない「まやかし戦争」の時期だったことから、連合国と枢軸国のある種の代理戦争としてフィンランド冬戦争が注目を浴びた。
英国はフィンランドを支援する意思はあったが、すでにノルウェーとデンマークをドイツによって押さえられていたことから、物理的に支援は不可能だった。スウェーデンを通じての支援もスウェーデンが中立国である以上不可能であり、フィンランドは単独でソ連軍と戦わざるを得なかった。
この時期、英米の交響楽団でフィンランディアがしきりに演奏されたが、精神的な支援以上のものではなかった。
ノモンハンを経て、赤軍の実力を過信していたスターリンだったが、フィンランド軍とそれを率いるマンネルハイムの徹底したゲリラ抗戦の前に思わぬ苦戦を強いられる。長期的な野戦において、ゲリラ戦を展開する相手に対して対応できるほどの充分な数の士官が大粛清後の赤軍には育っていなかった。詳しくはウィキペディアの冬戦争の項目を参照されたし。
結果、直接支配を諦めざるを得ず、外交交渉を通じてフィンランドのカレリア地方の割譲によって「満足」として軍を引かざるを得なかったが、ソ連軍の予想外の弱体ぶりを目の当たりにして、ヒトラーは後々の独ソ戦の開始を決意したらしい。
日本軍はノモンハンの経験があったから、大戦末期、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して侵攻してくるまではソ連とは戦わなかったが、フィンランドの善戦ぶりがヒトラーの判断をゆがませたというしかない。
1941年6月にヒトラーは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻していたが、スターリンはまったく予想もしておらず備えてもおらず、独ソ戦を行う意思もなかったので、ヒトラーさえ侵攻を決定しなければ、独ソの擬似的な同盟関係は継続していた可能性が高い。
そうであれば英国を屈服はさせられないものの、少なくとも10年やその倍程度はドイツの西欧支配は継続していた可能性はある。そうであれば状況は少し違っていたはずで、今日の世界も随分と違っていたはずである。
ある意味、フィンランドの善戦は世界を変えたのだった。



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20080510

ラ・マルセイエーズ

1992年の冬季五輪はフランスのアルベールビルで開催された。
その開会式で、少女があどけない顔で、ラ・マルセイエーズを歌うのを見て、フランス国内では、自国のこの国歌が余りにも血なまぐさ過ぎるとの声が改めて上がった。
戦争や革命の情景を描いた国歌は決して珍しくはない。
旧西側主要先進七ヶ国にロシアと中国を加えて比較してみるに、

1.革命や戦争など歴史的な事件に由来する歌詞を持つ国歌
(アメリカ、フランス、イタリア、中国)
2.王室を賛美する国歌
(日本、英国)
3.風土・自然を賞賛する国歌
(カナダ、ロシア、ドイツ)

に分類される。カテゴリー2やカテゴリー3に属する国歌であっても、「君が代」が過去の軍国主義と結び付けられて批判されたり、ドイツ国歌の「世界に冠たるドイツ」というフレーズが問題視されたり、あるいは旧ソ連国歌のメロディをそのまま流用したロシア国歌がウクライナやバルト三国などからロシア帝国主義のあらわれと批判されるなど、文脈的に「暴力的」な要素がまったくないわけではないのだが、直接的に敵の粉砕を称揚するカテゴリー1の国歌は、そうした文脈云々以前にテキストとして暴力性が強い。
その中でも、他国の歌詞の暴力性など、礼儀正しいと思えるほどに抜きん出て圧倒的に暴力的なのがフランス国歌ラ・マルセイエーズで、成立の特殊性がそれに起因している。
多くの国では国歌は作詞作曲者が別、元々別の曲に別の歌詞をあてはめた、というような例が多く、少なくとも成立にしばらくは時間がかけられているのだが、ラ・マルセイエーズはほとんど1日で作られている。
1792年4月、フランス革命政府(ジロンド派内閣)の決定に従って、名目上の王であったルイ16世はオーストリアに宣戦布告をした。
この戦争は革命を守る戦いであり、同時に祖国防衛戦でもあった。ストラスブール駐屯軍の若き工兵大尉ド・リールは、宣戦布告の知らせを受けるとただちにライン方面軍軍歌の作成にとりかかり、後にラ・マルセイエーズと呼ばれることになる、この楽曲を発表している。
宣戦布告の高揚した感情と情勢の中で作られたこと、ほぼ1日で作られたと言う即興性、革命の大義を守り祖国を防衛するという使命感、更にはストラスブールが最前線に位置し、その方面軍に属する軍人によって作られたという事情が、ラ・マルセイエーズを抜きん出て血なまぐさいものにしている。
その一番の邦訳を以下に載せる(ソースはウィキペディア)。

 いざ進め 祖国の子らよ
 栄光の日は やって来た
 我らに対し 暴君の
 血塗られた軍旗は 掲げられた
 血塗られた軍旗は 掲げられた
 聞こえるか 戦場で
 蠢いているのを 獰猛な兵士どもが
 奴らはやってくる 汝らの元に
 喉を掻ききるため 汝らの女子供の
 
 武器を取れ 市民らよ
 組織せよ 汝らの軍隊を
 いざ進もう! いざ進もう!
 汚れた血が
 我らの田畑を満たすまで



平和の祭典である五輪で、各国の選手団や首脳が集い、世界にテレビ中継する中で、あどけない少女がこのような血なまぐさく、外国人に対して敵対的な歌をうたったものだから、さすがにこれは今の時代の歌としていかがなものかという意見が出されたのである。
同じく戦争を歌った国歌であるにせよ、アメリカ合衆国の国歌は「イギリス軍に攻撃されたけど、砦にはまだアメリカ国旗がはためいている、ああうれしや」という内容なので、フランス国歌と比較すれば攻撃性に段違いの差がある。
敵兵の血を田畑の肥料にしようというのだから、いくらなんでも攻撃的に過ぎるが、この歌がほとんど開戦当日に作られた、それも最前線で、それも実際に戦う軍人が軍隊向けに作成したという事情をふまえずして歌詞の過激さは説明できない。
アルベールビル冬季五輪が開催された1992年の3年前、1989年はフランス革命200年際であり、フランスではこの年の巴里祭(革命記念祭)は盛大に行われた。ちょうど先進国首脳会議がフランスで開催される年にあたり、ミッテランが主導して行われたパリ大改装計画のシンボルである新凱旋門(アルシュ)に、ブッシュ、サッチャー、コールらの先進諸国首脳が一堂に会し、フランス革命200年を祝した。
1989年はちょうど冷戦の終わりの終わりの年にあたり、中国では天安門事件が起こり、その年の秋以後にかけては東欧革命が勃発するのだが、アルシュ・サミット、ならびにフランス革命200年祭は西側諸国の結束を誇示するとともに、フランス革命をひとつの起源とする民主主義思想の勝利を喧伝する場にもなった。
一方で、フランス革命の歴史的な意義についても賛否両論の議論がフランス国内でさかんに行われ、むしろ否定派が多数を占める(あそこまで残虐になる必要はなかった、革命を経ずしても穏健な改革によってその成果はおのずと達成されていたはず、成果があったにせよ犠牲が大きすぎ)結果となった。
私自身はフランス革命を肯定的に捉えているが、もちろん批判的に検討されるべき点も多いと考えている。
ラ・マルセイエーズ見直し論も単に五輪を理由として生じたものと言うよりは、そうした大革命見直し論に沿って提出されたものだと考えたほうがいい。
もっとも、アルベール五輪以後、この問題は再び世論の関心を失って、なにごともなかったかのように、ラ・マルセイエーズは歌われ続けている。そんなことよりも人々は日々の暮らしの中に生きてゆくことを優先しなければならないのだ。

以下は余談として。
ラ・マルセイエーズと比較すればほとんどの国歌は穏健なものになるが、日本国の国歌「君が代」は軍国主義を想起させると言うコンテクストを排除すれば、テキスト自体はなんの変哲もない、平和なものである。
「君の代が永遠に続きますように。いやさかにいやさかに」
というだけのことであって、問題があるとすれば、君とはいったい誰なんだよ、ということだけだ。
普通に解釈すれば天皇だろうが、江戸時代には遊女を対象とした恋歌として知られていたともいう。
「君」という語には多義性があって、もちろん君主という意味もあったのだが、想い人を指す言葉でもあった。
源氏物語で「~の君」という場合、恋愛モードで用いられており、三人称として用いられる時は、やや格下の相手を指している。源氏の愛人になるような女性ならばともかく、正室になるような立場の女性には用いられないということだ。
豊臣秀頼の母を淀君と呼ぶのはこれは江戸時代に広まった呼称で、ある種の蔑称である。
遊女なり、きちんとした身分の女性には用いられない言い方をしているのであって、同時代の将軍の側室などには、「~の御方」という言い方はしても「~の君」というような言い方はしない。
もちろん君と書いて、君主の意味に用いる例も江戸時代にもあるのだが、その場合は「くん」と音読みをするのであって「きみ」ではない。
仮に「きみ」が天子を意味するものだとしても、厳密に天子個人を指すのではなく「この世」というような茫漠とした意味を含んでいると解釈されるべきものだろう。



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20080509

Femme fatale

ナポレオンの妻ジョゼフィーヌは、悪女として有名だが、ナポレオンにとっては幸運の女神であって、彼女と共にある時にナポレオンの運は向き、彼女と別れてからはナポレオンの運命に暗雲が射すようになった。
有名な人物なので、細々としたプロフィールは言わない。男が女に求める、コケティッシュな魅力を体現したかのような女性だ。
バラス、ナポレオンと結果的にフランスを代表する権力者に相次いで愛され、ロシア皇帝アレクサンデル1世をも魅了している。
決して忠実な女ではなかった。不貞も働いたし、カネにだらしなく、頭も決して良くはなかった。
セントヘレナでナポレオンが回想して言うには、「余は彼女を心から愛していた。しかし尊敬はしなかった」ということで、女性らしい善良さも持ち合わせていた。
基本的には同情心溢れる人で、多くの人に利用されたが、愛されもした。権力的な嫉妬とも無縁で、誰かを見下したり、陰謀をたくらんだり、苛めるようなこともしなかった。
私としては女に望むものとしてはそれだけでもう充分であるように思うのだが。
ナポレオンが彼女に望んだ最大のもの、ナポレオンの息子を彼女は与えることが出来なかった。
1809年に、嫡子なきを理由として彼女は離婚されている。以後、マルメゾンの離宮で余生を送った。
1811年、ナポレオンの継室のマリー・ルイーズが、ナポレオンの嫡男ローマ王(ナポレオン2世、ライヒシュタット公)を産んだことを聞くと、ジョゼフィーヌは一度でよいからとローマ王に面会することを熱望した。
しかし何をされるか分からないとマリー・ルイーズが難色を示し、ナポレオンも却下したが、ジョゼフィーヌは秘密裏にパリを訪れ、伝手を辿って宮殿に忍び込み、乳飲み子のローマ王に面会している。
「どれほど多くの犠牲によってあなたがお生まれになったのでしょう」
と嘆きつつ、臣下の礼をとり、「陛下」に祝福を与えている。
1814年、ナポレオンは連合軍に敗れ、4月に退位した。ロシア皇帝アレクサンデル1世率いる連合軍はフランスに入り、アレクサンデル1世はすぐにマルメゾンに前皇后を表敬訪問している。
アレクサンデル1世は引き続き彼女の地位と生活が守られることを保証し、フランス女の魅力の粋を集めたようなこの女性に熱烈といえるほどの関心を抱いたが、直後にジョゼフィーヌは体調を崩し、ナポレオン退位からひと月もしないうちに、マルメゾンで逝去した。
エルバ島でこの知らせを聞いたナポレオンはひどく動揺したという。ナポレオンはこの後、乾坤一擲の逆転を狙ってフランスに再上陸し、皇帝に復位した後にワーテルローで最終的な敗北を喫するのだが、その後は大西洋の孤島セントヘレナに隔離されている。
セントヘレナで没し、その最期の言葉は「フランス、軍、軍司令官、ジョゼフィーヌ」であったと記録されている。

ジョゼフィーヌが最初の夫、ボーアルネー子爵との間に儲けたふたりの子供、息子ウジェーヌと娘オルタンスを通して、彼女の血統はヨーロッパの幾つかの王室に流れている(スウェーデン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクなど)。
また、フランス皇帝ナポレオン3世の母方の祖母でもある。
日本では塩野七生が紹介して有名になったのだが、オスマン帝国のスルタン、マフムト2世の母は、ジョゼフィーヌの従姉妹のエイメではないかとする説もある。近年では別の説もあるようだが、依然としてエイメ=ジョゼフィーヌの従姉妹説は一般に流布している。



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20080508

ある閨閥の末裔

英国貴族で、初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵に叙されたルイス・アレキサンダー・マウントバッテン(バッテンベルク)は元はドイツのヘッセン大公家の一族である。
王侯がコスモポリタンであるように、王侯の一族や有力な政治家も時にそうであって、生まれた国を離れて、他国の君主に仕えることも決して珍しいことではなかった。それは19世紀に入ってもなおそうだった。
有名な話では、ロシアに外交官として赴任したビスマルクが、ロシア皇帝から宰相としてスカウトされたようなことは(ビスマルクは断っている)、19世紀になってもなお稀ではなかったのである。
ヘッセン大公家と英国とのつながりでは、ヴィクトリア女王の次女アリスがヘッセン大公妃になっている。
ヘッセン大公家の支流、バッテンベルク家に生まれたルイス・アレキサンダー・マウントバッテンも当初はアリス大公妃とのコネクションを通じて英国海軍の軍人となり、後の国王エドワード7世から絶大な信頼を寄せられ、その重要な側近として、他国では海軍参謀本部幕僚総長に相当する第一海軍卿(制服組のトップ)にまでなっている。
外国の貴族がここまで高位公職を得るのは英国ではさすがに珍しいが、同時代でもさすがに反感はあったようである。引退後にルイス・アレキサンダー・バッテンベルクはヘッセン大公家に連なる身分とバッテンベルクの家名を放棄、家名をマウントバッテンと英語風に変え、侯爵に叙爵されて完全に英国人となった。
ルイス・アレキサンダー・マウントバッテンの長女アリスは、ギリシア王ゲオルギオス1世の次男アンドレアスと結婚した。国籍で言えば、英国人とギリシア人の結婚だが、その実はいずれもゲルマン人貴族であり(バッテンベルク公家とデンマーク王室のグリュックスブルク家)、両者の間に生まれた子らも、ギリシア王室のメンバーではあっても、血統的にはほぼ純粋なゲルマン系である。
ギリシア王子アンドレアスとその妻アリスの夫妻の末子にして唯一の息子がフィリッポス、現在の英国女王エリザベス2世の夫エジンバラ公フィリップである。
従ってエジンバラ公フィリップは、ギリシア王子であり、かつデンマーク王子であり(ただし両方の王子の称号は英国に帰化した際に放棄)、本来の家名はグリュックスブルク、つまりデンマークとギリシアの王朝である。
しかし、今、彼の家名はマウントバッテンとされている。母方の家名を名乗っているわけだ。
彼が1歳の時、ギリシアで革命が起こり、以後、フィリップ(フィリッポス)はパリ、次いで英国で養育された。母の母であるヴィクトリア(ヘッセン大公妃アリスの娘で、ヴィクトリア女王の孫にあたる)とその弟たち、二代ミルフォード・ヘイヴン侯爵と、初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵ルイス・マウントバッテン(第二次大戦中の東南アジア地域軍総司令官、最後のインド総督でもある)が、フィリップの養育にあたった。
つまりフィリップはマウントバッテン家によって養育されたようなものであり、自身も英国海軍に後に入った。英国海軍ではマウントバッテンの家名は絶大な影響力があったから、フィリップはドイツ風で馴染みの薄いグリュックスブルクの家名を捨て、マウントバッテンを名乗っている。
彼はギリシア王ゲオルギオス1世の孫、デンマーク王クリスチャン9世の曾孫、英国女王ヴィクトリアの玄孫だった。
当時の英国王ジョージ6世は、ヴィクトリア女王の曾孫にあたるのはもちろんながら、父方の祖母がデンマーク王女アレクサンドラ(ギリシア王ゲオルギオス1世の姉)であることから、父方を通しても母方を通しても、フィリップ・マウントバッテンは近縁の親戚ということになる。
ごく近い、親戚付き合いを通して、暫定王位継承者のエリザベス王女との関係が生じ、1947年7月に結婚している。その時点で、すでにギリシアとデンマークの王子の称号を帰化に際して放棄していたフィリップは、ただのフィリップ・マウントバッテンであったため、義父のジョージ6世からエジンバラ公に授爵されている。
ただこの時点では His Royal Highness の敬称はつけられていたものの単にエリザベス王女の夫というに過ぎず、王子ではなかった。
エリザベス2世が即位後の1957年に Prince の称号が授与されている。ギリシアとデンマークの王子として生まれ、その称号を失った後に、英国の王子になったわけである。

1960 年に勅令で女王夫妻の間に生まれた子孫の姓がマウントバッテン・ウィンザーとなることが決まった。従って夫妻の子と男系の子孫の姓はマウントバッテン・ウィンザーになる。このことがそのまま次代の王朝名がマウントバッテン・ウィンザーとなることを意味しない。王家の家名と王朝名は必ずしも一致しない(英国の場合はおおよそ一致してきたのだが)。前例を踏まえれば、チャールズ皇太子が即位後はマウントバッテン・ウィンザー朝となることは予想されるが、まだ決まっているわけではない。



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20080507

王家と国家と国民と

先の項目で、スウェーデン王オスカル1世が王妃に迎えたのが、ロイヒテンベルク公オイゲン(ウジェーヌ・ド・ボアルネ)の娘ジョゼフィーヌであることを言った。
ロイヒテンベルク公家はバイエルン王国の貴族であり、ナポレオンの義理の息子(ジョゼフィーヌ皇后の連れ子)であるウジェーヌ・ド・ボアルネはワーテルローの戦いまでは義父に忠実だったが、ナポレオンがセントヘレナに流された後にはバイエルン王に帰順した。
バイエルン王女アウグステが彼の妻だった。
この閨閥のつながりが非常に面白いと思うのは、スウェーデン王家を通してデジレ・クラリーとジョゼフィーヌ皇后の血統がひとつになっている点。
もうひとつが、まったくの外来王朝であるベルナドッテ朝が結婚に際して、スウェーデンとのつながりを重視していない点。
スウェーデン王になるオスカル1世の父は元フランス元帥であり、母は元はと言えばマルセイユの町娘である。
スウェーデンにおいて確固たる地位を築きたいと思えばスウェーデンの土着の貴族と縁組をするのが普通だろう。私は今、「普通だろう」と書いたが、その普通はやはりヨーロッパにおける普通ではない。日本人の感覚の普通であって、王室が王室外の人々と結婚するようになったのは、それほど遠いことではない。
王家とはファミリービジネスであり、資本家は資本家同士で結婚し、決して従業員とは結婚しないということである。
ここのところが根本的に日本人と感覚が違うところだ。
日本人は国があって王がいると考える。市があって市長があるように、王は国に付随するものと考える。それはヨーロッパでもまったくそのような考えが無いわけではないのだが、資本家にとって資本が重要であって経営する企業が必ずしも最重要ではないように、ヨーロッパでは王家と国が、企業プロパーと資本が分離しているように分離している。
たとえるならば銀行を中心にした財界が、傘下の資本関係のある企業に経営者を送り込むようなもので、王家とはこの種の財界のようなものと考えると分かりやすい。
ロイヒテンベルク公オイゲンはベルギーがオランダから分離独立したときにベルギー王候補にもなったが(実際には英国の後押しを受けた、ヴィクトリア女王の叔父のレオポルト1世が即位した)、本来、ベルギーとは何のゆかりもない人であって(妹のオルタンスが‘オランダ王妃’であったことはあるが)、そのような人であっても財界の総意、つまり国際社会の合意があれば、王に迎えられるのである。
銀行からいかなる人物が経営に送り込まれるか、プロパー社員にはあずかり知らぬことであるように、国民にとって王を認める/認めないは問われるところではない。
それを承認するのはその国の国民という以上に、国際社会、つまるところ列強の合意なのである。
19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパには続々と新王国が形成されるが、その国の人が王位につく例はほとんどない。おおよそ大半が、列強の合意に基づいて、デンマークやドイツの諸侯が王位に即いている。
主要な例を列挙してみる。

1831年 ベルギー王国成立 初代国王レオポルト1世(ドイツ、ザクセン・コーブルク・ゴータ公子、英国暫定王位継承者シャルロット王女の夫、英国ヴィクトリア女王の母の弟)
1890年 ルクセンブルク大公国成立 初代大公アドルフ(オランダ王室傍流のナッサウ=ヴァイルブルク家出身)
1866年 ルーマニア王国成立 初代国王カロル1世(プロイセン王族、ホーエンツォレルン・シグマリンケン侯子)
1908年 ブルガリア王国成立 初代国王フェルディナント1世(ザクセン・コーブルク・ゴータ公子。ベルギー初代国王レオポルト1世の甥の息子。英国女王ヴィクトリアの従兄弟の子。英国女王ヴィクトリアの夫アルバート公の従兄弟の子)
1832年 ギリシア王国成立 初代国王オソン1世(バイエルン王子)
1863年 ギリシア王国クーデターに伴い即位 ゲオルギオス1世(デンマーク王子。デンマーク王クリスチャン9世の次男。長兄はデンマーク王フレデリク8世、姉は英国王妃アレクサンドラ、英国王ジョージ5世は甥)。
1905年 ノルウェー王国成立(スウェーデンとの同君連合を解消) 初代国王ホーコン7世(デンマーク王子。デンマーク王フレデリク8世の次男)

こうした新国王たちのいずれもが、同族である各国王室と通婚し、自国の土着の貴族とは結婚しなかった。民族主義の台頭著しい国民国家成立の時代にあって、王家を介して血の国際主義がヨーロッパでは成立していたと言える。
これらの諸国の王がなぜドイツ、デンマークから輩出されたのかと考えると、ひとつには歴史の古い家系であるということが言える。デンマーク王家はヨーロッパで最古の王家であるし、ドイツのヴィッテルスバッハ家やホーエンツォレルン家、ザクセン・コーブルク・ゴータ家もまたかつては神聖ローマ皇帝を出したこともある家柄である。
また、歴史が古いということは、各国王室に縁戚が広がっているということでもある。候補として考慮されやすかったといえるだろう。
そして彼らの元々の輩出国が弱小国であるのも理由である。ルーマニア王家はドイツ皇室の一族であるから例外として、他は吹けば飛ぶような弱小国ばかりである。勢力の均衡がなによりも重視される外交にあって、合意をとりつけやすい存在だったということだ。

19 世紀、20世紀はヨーロッパにとってナショナリズムの世紀であると同時に、それを越えて王室を通して国際社会が形成された時代でもある。今日においても、王室のありようを眺めることは決して単に趣味的な事柄にとどまらない、それはヨーロッパの血のつながりを見ることでもあり、ヨーロッパという世界のありかたを理解することでもある。



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20080506

あるガリア人の王

カエサルが征服し、戦記で記したガリアとは、現在ではフランスに相当するが、ガリア人そのものはより広範囲に居住していた。
スイスを意味するヘルヴェティアとはもともとはガリア人の一部族名に由来し、スイス、フランス、ブリテン諸島までがガリア人の住む所だった。
イギリスで言えばアーサー王もストーンヘンジを作ったのも、ガリア人になる(イギリスではケルト人と呼ぶ)。
フランスは国名こそはフランク、つまりゲルマン人であるフランク族に由来するが、国民の大部分にはガリア人意識があるようで、‘Astérix’なるガリア人少年の活躍を描いた漫画も大人気である。
ブリテン諸島においては周辺に追いやられたケルト人たち、つまりスコットランド人やアイルランド人にとって民族の「誇り」であるアーサー王伝説も、フランスでは人気があるようで、アルチュール(アーサー)なる名前を持つ男子も珍しくはない。

1760年、ジェイムズ・マクファーソンなる青年がスコットランドの高地地方で採譜したスコッチ・ケルトの古謡「オシアン」が英訳されると、次々と各国語に翻訳され、西欧で大ベストセラーとなった。
今日では「オシアン」は偽書であるとも言われ、少なくともマクファーソンが元々の民話を相当に膨らませて書いているのは間違いないのだが、これがなぜ受けたのかというと、スコットランド人にとってはアーサー王物語に代わる、自分たちのオリジナルの伝説が得られたという、ナショナリズムに訴えかけるものがあったからだという。
アーサー王伝説は本場はどうしたところでアイルランドだからである。
同様に、ガリア・アイデンティティに訴えるという意味では、フランスでも非常に評判になった。
ナショナリズムの時代はそれからまもなく本格化するのだが、民族主義の動きは18世紀にも底流として勃興しつつあったことが伺える。

オシアンの主要登場人物でオスカルという英雄が登場するのだが、ナポレオンは彼にとって非常に重要な女性が産んだ子に、「オシアン」にちなんでその名を与えている。
その女性、デジレ・クラリーはマルセイユ時代のナポレオンの婚約者であり、ナポレオンがジョゼフィーヌに恋したがために婚約は破棄されたのだが、クララの姉は、ナポレオンの兄のジョゼフの妻ジュリーはデジレ・クラリーの姉だったから、非常に親密な親戚ではあり続けた。
ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットはジャコバン派の将軍として、ナポレオンと並ぶ国民的な人気を得ており、一時はナポレオンの対抗馬でもあった。
ベルナドットは後にナポレオンの有力な元帥になったが、ミュラやネイのように、ナポレオンの子飼いではなく、元々は独自に栄達した人物だった。ナポレオンとは必ずしも仲は良くなかったという。
この人と、デジレは結婚した。
ボナパルト家・クラリー家が、ナポレオンとは必ずしも親しくはないが非常に有力な人物であるベルナドットを自分たちの側に取り込もうと画策した結果だとも言う。
しかしその後もベルナドットはナポレオンに必ずしも全面的に心酔した風でもなく、距離をとりつづけた。デジレがその夫人であるために、ナポレオンとしてはかえってベルナドットを失脚させられないことになってしまった。
デジレに何の非もないにもかかわらず結果として「棄てる」形になってしまったことについて、ナポレオンは生涯贖罪の気持ちを持っていたようで、ベルナドットとデジレの間の長男にも名付け親になっている。その長男というのが、オスカルである。
大陸を制覇する中で、ナポレオンは親族を次々と各地の王につけている。
長兄のジョゼフはナポリ王、次いでスペイン王。
エリザ・ボナパルトはトスカーナ女大公。
ルイ・ボナパルト(ナポレオン3世の父)はオランダ王。
カロリーヌはナポリ女王(夫のミュラはナポリ王、共同君主)。
ジェロームはヴェストファーレン王。
デジレの姉ジュリーは夫のジョゼフに伴い、スペイン王妃になっていた。自分と結婚していれば、フランス皇后であったかもしれないデジレを不憫がって、ナポレオンはベルナドットがスウェーデン王になることを承認した。
ベルナドットがスウェーデン王になる話はナポレオンが画策した話ではない。王統の絶えようとしていたスウェーデン王国が、フランスとのつながりを得るために、ベルナドットの王太子就任を打診してきたのである。ベルナドットはかつてスウェーデン軍捕虜を親切丁寧に扱ったことから、スウェーデンでも人気が高い人物だった。
必ずしもナポレオンに忠実ではない(忠実でないことは最初から分かっていた)ベルナドットを、北欧の要のスウェーデン王太子(すぐさま摂政につく見込みだった)につけることは、フランス帝国にとっては危険な行為である。
しかもベルナドットはひとたびスウェーデンに迎えられれば、フランスよりもスウェーデンの国益を優先することを明言している。ベルナドットは言ったことは必ずその通りにする男だった。
デジレがベルナドットの妻でなければ、ナポレオンが了承したかどうかは疑わしい。
しかしナポレオンはこれを了承し、そのことが後々、フランス帝国にとっては災厄となるのである。
ベルナドットはスウェーデン摂政となるやいなや、スウェーデンの国益に沿って行動し、ナポレオンの没落を促す活発な動きを見せるのである。
第一帝政の崩壊と共に、ナポレオン・ボナパルトによって作られたヨーロッパの傀儡国家はことごとく崩れ落ちた。
しかしベルナドットはスウェーデンにおいて地位を確かにし、1818年にはカール14世ヨーハンとして、スウェーデンとノルウェーの王に即位している。フランス第一帝政が崩壊直後、ベルナドットはフランス王となる意思を示して王位を狙ったが、フランス人からすれば彼は「裏切り者」であり、この案を推したロシア皇帝アレクサンデル1世も早々に諦めなければならなかった。
ベルナドットがスウェーデン王として崩御した後、王位を継いだのがナポレオンの名づけ子オスカル(スウェーデン王オスカル1世)である。
ガリアの伝説の英雄の名を与えられた青年王は、ガリアの地フランスを遠く離れ、北方のゲルマン人たちの王となった。
デジレ・クラリーは息子のオスカルよりも長く、1860年まで生きた。終焉の地はストックホルムという。
息子の嫁はジョゼフィーヌの息子(ジョゼフィーヌの先夫との間の息子で、ナポレオンの養子)の娘で、その間に生まれ、スウェーデン王位を継いだカール15世は、ナポレオンの元婚約者デジレにとっては孫、ナポレオンの元妻ジョゼフィーヌにとっては曾孫にあたる。
デジレの死後、彼女の枕元から、ナポレオンに宛てた大量の恋文が発見されたという。



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20080505

南北正閏論

南朝・北朝の正閏を言う前にまず確認しておきたいのは、両統の分裂は南北朝期に始まったのではなく、それぞれ交互に天皇を出してきた、ということである。
つまり両方ともが天皇家であるには違いない、ということだ。
私が北朝が正統であるとする根拠は、血統である。北朝、つまり持明院統は後深草天皇に端を発する。一方、南朝、つまり大覚寺統は亀山天皇に端を発する。
両者は同じ父(後嵯峨天皇)、同じ母(西園寺姞子)から生まれた正真正銘の兄弟であり、後深草天皇が兄である。
こうした場合、天皇家でも長幼の序が示されるのが普通であり、まして兄弟共に天皇になったのだから、条件はイーブンであり、そうであればなおのこと長幼の序で決定されるべきである。
従って、北朝と南朝のどちらが宗家かと敢えて言うのであれば北朝がそうであり、おのずと北朝が正統、ということになる。

対して南朝正統論の主な根拠は三つ挙げられる。

1.神器を南朝が掌握していたこと
2.北朝の天皇は武家によって擁立された傀儡政権であること
3.西園寺姞子が後嵯峨天皇の遺言として亀山上皇が院政を執る、としたこと

1 については神器は即位の絶対条件ではなかった。安徳天皇が神器と共に入水した状況で、異母弟の後鳥羽天皇が擁立された前例があり、後鳥羽天皇の子孫である南朝・北朝は、神器が欠ければ皇位の正当性を欠くというのであれば、そもそもいずれも正当性がないことになる。従ってこれはナンセンスな論である。
2 について、もともと、後嵯峨天皇自体が、朝廷公家の意向を抑えて、鎌倉幕府によって擁立された天皇であり、武家の介入がなければ南朝も北朝も天皇家たりえなかった。武家の介入がなければ、土御門天皇系の後嵯峨天皇ではなく、順徳天皇系の岩倉宮に皇位が行っていたはずで、武家によって擁立されれば不可というのであれば後嵯峨天皇ならびにその子孫の南朝・北朝のいずれもが正統ではなくなるのである。
3についてはあくまで院政を誰が行うかと言う問題であり、当時、皇位にあったのは亀山天皇(亀山上皇)の息子の後宇多天皇だったのだから、父親が院政を敷くのはむしろ自然である。この一件をもって、後深草院の系統に亀山院の系統が優越するとはまったく言えない。

水戸光圀が編纂した「大日本史」においては、南朝が正統としているが、これは神器の所在を根拠にしており、従って南北朝が合同した後は、北朝系の以後の天皇も正統としている。
吉野朝が健在であった時は南朝が正統、合同してからは北朝が正統という系図は、現在の天皇家歴代の数え方と基本は同じである。
朱子学イデオロギーの日本における代表的人物として、楠木正成があてはめられ、楠木が忠臣であるためには南朝が正統でならなければならない、という倒錯した考え方である。
同父母兄弟であれば大兄(皇位継承者)になるのは兄であるという常識的かつ伝統的な考え方をすれば、おのずと北朝が正統であるのは明らかなのだ。
もちろん、天皇家の長い歴史の中では例外は確かにある。
たとえば、安徳天皇が死去した後、後白河院は高倉天皇の遺児のうち、後鳥羽天皇を選んで皇位につけている。後鳥羽天皇には同父母の兄の守貞親王がいたから、順当に行けば、守貞親王が皇位につくべきだったが、守貞親王は異母兄の安徳天皇とともに平家に同道している。
これは守貞親王が安徳天皇の皇太弟に擬せられていたからで、平家滅亡後は京都に帰還しているが、すでにその時は後鳥羽天皇が擁立された後だった。
しかしこの例は、守貞親王と後鳥羽天皇の同父母弟のうち、安徳天皇の後継者にそもそも擬せられていたのは兄である守貞親王だった、ということを意味し、ここでも本来は兄が弟に優越するのである。そのままそうはいかなかったのは、平家政権の没落という特殊な事情があったからだ。
普通であれば、兄が弟に優越するものだということがここからも言える。
天皇家でも公家でも武家でも、兄を差し置いて弟が家督を継いだ例はごまんとあるが、それらはほぼ間違いなく母親の身分に由来するのであって、側室が生んだ兄よりも正室が生んだ弟が家督を継いだという例である。
後深草天皇の亀山天皇の兄弟の場合、両者はいずれも天皇の正室である中宮を母とする、同父母兄弟なのだから、後深草天皇の系統が優先するのは当たり前なのだ。
その当たり前が、当たり前にならなかったのが日本の歴史のいびつなところである。
現実に即さない虚構のイデオロギーに現実の政治が振り回され、馬鹿げたことに朱子学的狂信は天皇機関説をも攻撃し、戦前の泥沼化を招いたのだ。

だから今、私たちが南朝正統論なる馬鹿げた虚構ときっぱりと決別することは、単に系図上の趣味的な整理を意味するのではない。それは国家に妄想が入り込むことを拒否するという態度表明である。皇居から、楠木正成の像を撤去するべきだろう。



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20080504

連合王国

イギリスの正式な国号は、
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
である。アメリカ合衆国の正式名称、
United States of America
と似ているが、重要な相違はアメリカにおいて State は States と複数形になっているのに対して、United Kingdom は複数形にはなっていない点である。
「合同する」には主体が複数に分かれている必要がある。複数であるから「一緒になる」ことができるのだ。アメリカ合衆国の場合、複数の州が寄り合ってひとつの国家を形成するという、素直な作りの国名になっている。では連合王国はなぜ複数形になっていないのかと考えると、複数の王国が連合して連合王国を作ると言うよりは、連合王国というひとつの国がそこに成立したのだ、という事情による。
つまり United Kingdom はそれ自体がひとつの固有名詞なのである。
連合王国を規定する連合法はスコットランドとイングランドの合併を規定した1707年連合法と、連合王国とアイルランドの合併を規定した1800年連合法がある。
いずれの場合も各国の従来の議会は解体され、新たに統一的な連合王国議会が形成されている。
1800年連合法の第一条では、

in the year of our Lord one thousand eight hundred and one, and for ever after,
be united into one kingdom, by the name of the United Kingdom of Great Britain and Ireland

と、「ひとつの王国になる」と明記されている。
つまり1707年連合法ではイングランド王国とスコットランド王国が解体されグレートブリテン連合王国が成立し、1800年連合法ではアイルランド王国(イングランド王、ならびにグレートブリテン王が王位を兼務)とグレートブリテン連合王国が解体して、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立した、ということである。
そういう意味では、先の項目で紹介した、エリザベス2世がイングランドの先人を踏まえて「2世」を名乗るのは連合法違反である、というマコーミックの主張はそれはそれで道理があると言える。
連合王国が成立した時点で、それも1800年の連合法が形成された時点で、その君主は新たにカウントされるのが本当だということになる。
ただ、王/女王が自分の名前として何を名乗ろうが国王大権に属することだとするならば、極端な話、過去の歴史とはなんら通じるところのない、たとえばアーサー129世などと名乗ったとしてもそれはそれで自由だということになり、実際、法理的にはそうなのである。
もちろん法理的にはともかく、現実には、イングランドとの継続性が重視されているのは明らかであって、だからこそマコーミックがエリザベス2世の名乗りにスコットランド人としてクレームをつけた意味が生じるのである。
スコットランドは1999年に独自議会を制定し、2007年の同議会選挙でスコットランド民族主義政党のスコットランド民族党が第一党を占め、党首のサモンドがスコットランド首相に就任したが、これは連合王国政府が実際にはイングランドに限りなく同義であるからである。
エリザベス2世即位の際には、名乗りに対してスコットランド側からクレームが生じたが、それよりも前の国王、エドワード7世、エドワード8世、ウィリアム4 世にも同種の問題が生じたはずなのに、あたりまえのようにイングランド王国を起点としての通代が計られたということが、スコットランドがいかに二級の地域として軽視されてきたかの表れである。
ロンドンの政府、バッキンガムやセントジェイムスに住まう王たちは、ひとつの国、連合王国が成立したと言いながら、実際にはイングランドであり続けたわけで、連合王国という虚構の虚構性ゆえに、スコットランドの独自行政をなすことさえ適わないことが1999年まで続いていたのである。
つまりアメリカが United States であるように、連合王国が United Kingdoms であったならば、複数の並立した王国政府があっただろうと想定され、その限りにおいて地方における主権は確保できていたのではないかと考える。
Kingdoms から複数形の s が欠落したために、それは限りなくイングランドと同義になってしまった。
エリザベス2世以前の王たちはそれが当たり前であるかのように、連合王国成立を起点として自らの名乗りを決定することさえしなかったのだ。



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20080503

最後の授業

カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世(フランスでは敬虔王ルイ1世)には四人の息子がおり、このうち、帝位(西ローマ皇帝)とフランク王国の王位は本来は長子のロタールがひとりで継ぐべきものだった。
分割相続が普通だったフランク族にあっても、皇帝にロタールを据え、他の息子たちをその封建的な臣下とすることで、帝国の統一性を計る予定だった。
しかしルートヴィヒ1世の後妻、ユーディート皇后が自らが産んだ末子のカールにも、王位を与えるようごり押ししたことから、フランク王国は一転して、継承戦争の様相を呈した。
結果的にロタールが帝位とイタリア、中フランク王国の王位を継承し、三男のルートヴィヒ2世がドイツならびに東フランク王国を、四男のカールがフランスならびに西フランク王国を継承することで決着した。
東フランク王国がドイツの、西フランク王国がフランスの直接的な前身となったのだが、今日、焦点をあてたいのはロタールが継承した中フランク王国である。
この王国は、北部イタリア、スイス、アルザス・ロレーヌ地方、つまりイタリアからオランダにかけての独仏国境地帯を領有していたのだが、いつしかこの国を人々は、ロタールの国、ロタリンギアと呼ぶようになった。
この王国は更に分割されて、イタリアとプロヴァンスを除いた地域を狭義のロタリンギアと呼ぶようになったのだが、やがて870年のメルセン条約により、ドイツ王(東フランク王)とフランス王(西フランク王国)に分割され、ロタリンギアは名実共に、独仏国境地帯となった。
ロタリンギアをドイツ語ではロートリンゲンと呼ぶ。フランス語ではロレーヌと呼ぶ。
この地域は隣り合ったアルザスと共に、ドイツ圏に組み込まれたり、フランス圏に組み込まれたりを繰り返すのだが、1697年にオーストリアとフランスの間で合意が成立し、ロレーヌ・ヴォーデモン家が神聖ローマ帝国諸侯のロートリンゲン公(ロレーヌ公)として、エルザス・ロートリンゲンを統治することになった。
1729年にロートリンゲン公に襲封したフランツ3世シュテファンは在位9年の後、オーストリア・ハプスブルク家女性相続人マリア・テレジアと結婚することになった。
この結婚によってオーストリアの勢力が直接、北フランスに及ぶことを嫌ったフランス王ルイ15世は結婚に反対し、絶対阻止の構えを見せたが、フランツ3世シュテファンはトスカーナ大公国を見返りとする代わりにロートリンゲン公国を放棄し、それによって無事、マリア・テレジアと結婚した。
トスカーナ大公国(フィレンツェ)はメディチ家の支配するところだったが、この頃、メディチ家男系が断絶し、大公位が空位となろうとしていた。
フランス王家はアンリ4世妃マリー・ド・メディシスを通してメディチ家女系の子孫であったから、トスカーナ大公位への潜在的な請求権を有していたが、ルイ 15世としても、トスカーナをフランツ3世シュテファンに与える代わりに、ロートリンゲン(ロレーヌ)を確保することを優先した。
ある意味、双方の痛み分けである。
フランツ3世シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)がマリア・テレジアと結婚して以後のハプスブルク家は、一般にハプスブルク・ロートリンゲン家と呼ばれるが、以後、ロートリンゲンそのものはドイツではなくフランスに組み入れられることになる。

エルザス(アルザス)とロートリンゲン(ロレーヌ)を、本来的にドイツかフランスかと問うことは無意味に近い。それはドイツやフランスと同時期に成立した、ロタリンギアなのだ。
ドイツでもなければフランスでもない。さまざまな時期においてドイツだったこともあり、フランスだったこともあるというだけのことだ。
しかし敢えてどちらかを言うのであれば、むしろドイツだと考える。フランスそのものがフランク王国という意味においてドイツだったのだし、言語的にはドイツ語にむしろ近い。
皇帝フランツ1世が領有を放棄した1737年から、普仏戦争の結果、再び領有がドイツに移動する1871年までの134年間、アルザス・ロレーヌはフランスであった。
フランス語で教育が行われ、フランス語で行政が行われ、知識人たちはパリに出て研鑽を積み、青年たちはフランス兵として欧州各地で戦った。
アルフォンス・ドーテの「最後の授業」では、初等教育がフランス語で行われるのが排され、フランス人教師が「フランス万歳」と黒板に書く、フランス愛国主義をたぎらせる場面が描かれる。
しかし皮肉なことに、フランス語はアルザスにあっては、外国人統治者の言葉だった。アルザス人が話していたのはドイツ語に近いアルザス語であって、フランス語も、プロイセン人の話す標準ドイツ語も、異邦人の言葉であるには違いなかった。しかもドイツ語の方がむしろ母国語に近似していたのである。
また、フランス語の学習がドイツ統治下にあっても別に禁じられたわけでもない。フランス語はドイツ本国にあっても主要な外国語であって、フランス語学習教育が行われていたのであって、アルザスでそれが禁じられるはずもない。
今日、ドーテの「最後の授業」を読む者は、ドーテの意図したフランスナショナリズムの掲揚ではなく、ドーテの無知、無理解、ナショナリズムから生じる盲目的な側面を見るのである。
当時のアルザス人は確かにフランス語を流暢に話すことはできただろうが、ドイツ軍が駐屯したその日から、何の不自由も無くドイツ語を話したのもまったく確かなことである。
アルザス人はフランスにあってはドイツ人であり、ドイツにあってはフランス人だった。
彼らがドイツ第二帝国に組み込まれ、フランス革命で革命軍として戦った過去の記憶がすぐさまに蘇り、特別な対応を帝国に要求したのはアルザス(エルザス)というロタリンギア性による。
同時に第二次大戦後、フランスがこの地域を再領有した後、推し進めた純フランス化政策に多くの住民が徹底抗戦の構えを見せたのもやはりそのロタリンギア性による。
異質なものは、つなぐ者でもある。エルザス・ロートリンゲン、あるいはアルザス・ロレーヌは、ドイツとフランスにあっていずれにおいても独特の異邦人であり、ドイツとフランスをつなぐ場所でもある。
アルザスの首都、ストラスブールはドイツ語で言えばシュトラースブルクであり、つづりを見れば完全にドイツ語の地名である。しかし現在はフランス共和国の重要な都市のひとつであり、ヨーロッパの主要な都市のひとつである。
現在ここにはヨーロッパをつなぐ町に相応しく、EU議会などが置かれている。



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20080502

ERII

1707年にイングランドとスコットランドが連合王国となって以後、12人のグレートブリテン王/女王がでている。彼らの「名乗り(君主としての名前)」を見ると、3つに分類できる。

1.イングランドでもスコットランドでも連合王国以前には君主の名前としては用いられていなかった名前
アン、ジョージ(1世から6世まで)、ヴィクトリア
2.イングランドでのみ君主の名前として用いられていた名前
エドワード(7世と8世)、エリザベス(2世)
3.イングランドでもスコットランドでも過去に用いられていた名前
ウィリアム(4世)

一番目のカテゴリーの名前は、連合王国になってから初めて用いられたのだから、代数の問題は生じない。代数の問題とは何か?
二番目のカテゴリー、エリザベス2世を例にとれば、彼女はイングランド女王ではなく連合王国女王であって、連合王国の君主としては初代のエリザベスである。
連合王国女王として「エリザベス1世」を名乗ってもよさそうなものだが、実際にはエリザベス2世を名乗っている。イングランド女王エリザベス1世を継続性のある先人とみなしているわけである。
同様に、エドワード7世は連合王国王だが、エドワード6世はイングランド王であって、エドワード6世までをカウントして、7世を称しているということは、連合王国をイングランドの継承国家と見なしている、ということである。
では、スコットランドはどうなのかと考えるに際しては、三番目のカテゴリーが参考になる。
ウィリアム4世が即位するよりも前には、スコットランドには2人のウィリアム王が、イングランドには3人のウィリアム王がいた。
このうちスコットランド王ウィリアム2世と、イングランド王ウィリアム3世は同一人物である(同じ人がイングランド王でもありスコットランド王でもあった)。
連合王国の王ウィリアム4世の「4世」は明らかにイングランドにおける代数のカウントを基にしている。このことから、代数のカウントは、スコットランドでのカウントよりも、イングランドでのカウントが優先される、とも言えそうだが、結論を急がないほうがよさそうだ。
別の可能性もあるからである。
つまりイングランドとスコットランドで代数が異なる同名の君主が過去に存在する場合、「代数の多い方を基準にしてカウントする」ということも考えられるからだ。
ウィリアム4世が「4世」なのはイングランドでのカウントをスコットランドでのカウントに優先させているのではなく、単に代数が多い方を名乗っている、ということもあり得る。
私がいろいろな人に聞いたところでは、どうもこの方法がとられているようである。
「ようである」と頼りない言い方になってしまうのは、はっきりとそれと示す資料を私がいまだ入手できていないからだが、話を総合すると、そういうことになるらしい。
つまり、イングランドではデイヴィッドを君主名として名乗った王は過去にはいないが、スコットランドには2名いる。
新たに連合王国にデイヴィッド王が即位すれば、「代数の多い方を優先して」デイヴィッド3世になる可能性が高いということだ。

このことは筋は通っているが非常にややこしい状況をもたらすことが予想される。今のところは、一応は代数のカウントにおいて、結果的にイングランド王国と連合王国には首尾一貫したつながりがあるのだが、スコットランドにおける代数を優先させる場合、この首尾一貫性が損なわれる。
連合王国にデイヴィッド3世王が登場すれば、実際にはイングランド王デイヴィッド1世やデイヴィッド2世は存在していないにも関わらず、そういう人物がいたのだろうと類推されてしまう危険が生じる。
このため、「スコットランドの方がイングランドよりも代数が多い君主名」は実際には連合王国の君主名としては避けられることが予想される。
それに相当するのは以下の名前である。

ケネス、ドナルド、コンスタンティン、アレキサンダー、ジェイムス、エイ、ヨーカ、マルカム、ダンカン、インダルフ、ダリン、カフ、デイヴィッド、マクベス、ルーラッハ、マーガレット、エドマンド、エドガー、ロバート

これらの名前が王/女王の名前として連合王国で用いられることはまずないだろう。女王の夫で述べたように、メアリー1世の夫として、スペイン王フェリペ2世は結婚期間中、イングランド王フィリップでもあったのだから、この「女王の夫である‘夫’」を代数に含めるかどうかという問題も生じさせるので、フィリップ、なる名前も避けられるに違いない。

[追記]
灯台下暗し、で、wikipedia の「スコットランド」の項目に該当部分が掲載されていた。
スコットランド - Wikipedia
1952 年にエリザベス王女が連合王国の国王に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王」(Queen Elizabeth II)となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王がいなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王」(Queen Elizabeth)となるからである。

そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミックは、新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは1707年連合法違反だとして裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。王がどう名乗るかは国王大権(royal prerogative)に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められないとされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。

なお、イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。

エリザベス 2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「~世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王」(King James III)となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王」(King James VIII)となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。

この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世、エドワード7世、エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。



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20080501

イギリスの首相

イギリスは慣習法の国で、議会制民主主義国家としては最古の国だから、思わぬ古い制度が、現在まで持ち越されていることがある。
日本の場合、近代化とは、外来の文明を受容することであって、過去の文物との間にある時点で断絶がある。
もちろん、内閣制度が発足する前は太政官制度が政府の役割を果たしていたように、過去の制度の残滓はあったのだが、やはりそのまま律令制というわけではなく、制度的な革命が近代化の前提になっていた。
日本に限らず、だいたいの国はそうだ。
ただイギリスだけは近代化がそのまま自然発展した自国の歴史である点で特異な存在だ。
Secretary of State でも述べたような、非常に古い歴史的な呼称が、そのまま残っているのもイギリスの特徴だ。

1904年、勅許で正式に確認されるまで、イギリスには首相職がなかった。
もちろんそれ以前にも事実上の首相と認識されていた人たちはいたが、彼らがついていた職務は第一大蔵卿(First Lord of Treasure)であって、首相(Prime Minister)ではなかった。
首相なる語が登場したのも19世紀の後半、ディズレーリが「第一大蔵卿ならびに首相」と署名してからのことで、ここでいう首相とはあくまでディズレーリ個人の自称であるに過ぎなかった。
現在も第一大蔵卿という職務は存在しており、首相が兼務することになっている。よく、イギリスの首相官邸と呼ばれるダウニング街11番地は正確に言えば第一大蔵卿官邸であって、首相官邸ではない(もちろん事実上は首相官邸なのだが)。
第一大蔵卿は、もともとは、王室ならびに国家の財政を担当する大蔵委員会の長であって、フランスで言う財務総監に相当するものである。つまりはもともとは財務大臣なのだが、いずれの国でも財務省(大蔵省)が国家の中の国家化するのは通例のようで、フランスの財務総監がそうであったように、政府の首座を占めるようになった(もちろん国王自身を除いて)。
第一大蔵卿の前身は大蔵卿だが、バーリー卿ウィリアム・セシルなど、やはり首相格の人物がこの地位を占めていた。
第一大蔵卿が「首相化」するに伴い、事実上の財務大臣は大蔵委員会の次席の公庫主宰(Chancellor of the Exchequer)が務めるようになったのだが、現在でもイギリスの財務大臣は正確にはそのように呼ばれる(メディアでは Finance Minister とされることも多いが)。
第一大蔵卿のもとで内閣化した大蔵委員会(つまり内閣)に王の国務秘書(外務と内務)が加わることによって中央政府が形成されたのだが、形式的にも、由来的にもイギリスの内閣が王の輔弼、つまり王によって信託された個人的な機関として生じたことが名称からも明らかである。
このことは、非常に不可解な軋轢を19世紀に生じさせることにもなった。
ハノーヴァー朝において「君臨すれども統治せず」の原則が確立してなお、政府は王の形式的には秘書であったため、王の事実としての秘書の存在を二重権力が生じるものとして忌避するようになった。
べつだん権力的な意味ではなくとも、王も公的な存在ではあるのだからスケジュール管理などをなす秘書が必要なのだが、そうした職務をこなす王室秘書を政府は長らく秘書という呼称を与えることを拒否してきた。
彼らは侍従であって秘書ではない、なぜなら王の秘書はわれわれ政府だからだ、というのが政府の立場であって、これはヴィクトリア女王の治世の中頃まで、そうした扱いがなされてきた。
自然発生的近代国家イギリスならではの、ある種の喜劇的な出来事だった。



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20080430

氏姓、夫婦別姓

氏姓については混同した用いられ方がされている。
日本においては氏とは祖先を同じくする同族集団であり、姓は朝廷より授けられた身分であった。これに氏族内部での家系の違いによって苗字がある、というのが基本的な分類である。
例えば、源朝臣徳川家康と言う場合、氏(源氏)+姓(朝臣)+苗字(徳川)+個人名(家康)で構成されていることが分かる。
姓というのは天武天皇が定めた八色の姓のことで、ある種の「爵位」に相当するものである。宿禰、真人などの姓があるが、すぐに朝臣にほぼ統一されたので、個人識別としては意味のない部分だ。
ただ、いわゆる氏を示す語として本姓という言い方をすることがあって、氏を示す語として混乱して用いられることがある。
古代、朝廷に仕えた豪族たちの氏は機能としてほぼ苗字と同様だった。それは一族の名前であり、一族が大きくは分化していなかったのであれば同時に家名でもあった。
朝廷に仕える豪族にも、朝廷ともともとは対等であったと考えられる臣族と、朝廷の使用人から豪族化したと考えられる連族がいた。蘇我氏や葛城氏が前者であるのに対して、中臣氏(藤原氏)、物部氏、大伴氏は後者である。連族は犬養氏のように役職がそのまま氏族名になっていることが多い。
対して臣族は地名に氏族名が由来していることが多い。
いずれにせよ、公的な呼称としては氏族があるのであって、苗字は私的な呼称である。
単に居住した土地などに因んで、区別目的で用いられているのがそもそもの始まりだが、武家政権以後は、氏族は朝廷に参内するなど特殊な時にしか用いなくなったので、家名としては苗字が主になった。
戦国大名のうち、家系図がはっきりしている武田家(源氏)、今川家(源氏)、毛利家(大江氏)などいくつかの例外を除いて、新興の家系は氏が二転三転していることが多い。
平氏になったり源氏になったり、藤原氏になったりと、時々の必要に応じて変えている。
そもそも氏がいずれであるのか、はっきりとしない場合も多く、そうした場合は怪しげな家系伝承や、気分でこしらえる場合がほとんどだった。
加藤清正が石田三成に讒言されて、秀吉から叱責された例では、朝鮮で勝手に豊臣氏を名乗ったという一件があったが、清正いわくもともと当家はいずれの氏が判然としないから秀吉に育てて貰ったのは確かなのだから豊臣氏を名乗った、ということだが、これは豊臣本姓の授与を大名統制に用いていた秀吉には都合が悪いことだった。
ちなみに豊臣氏は苗字ではなく、藤原氏、源氏などと同等同列の氏である。
系図上は今では加藤清正は藤原氏、ということになっている。
甚だしい例では、南部家の一族から端を発し、後に自立した大名になった津軽為信だが、本来、南部家の傍流であるのは確かなので、氏族でいえば源氏である。
しかし南部家との関係が悪化したことから、系図上分家の立場であることは嫌だと思ったのか、近衛家に接近し、贈り物をして、近衛家のご落胤の末裔、ということにしている。だから系図上では今では藤原氏ということになっている。
周辺諸大名と差別化をはかるために、公家の末裔を名乗る例はこれにとどまらず、土佐一条家、西園寺家のように正真正銘の公家が大名化した例を除いても、公家の末裔を名乗る例は他にもある。
浅井氏は、三条家の末裔ということになっている。漂泊していた公家がご落胤を残し、それが浅井氏の祖先という、雲をつかむような話で、力を握ればこっちのもの、生まれは後からついてくる一例である。
そもそもそれでいうならば天下人となった秀吉も誰がどう見ても作り話の皇胤説を主張しているし、徳川家の新田流源氏の子孫という話も限りなく虚構に近い。
こうした事実から、家柄といってもその程度の融通がきくものだったと見るのか、そうしたあからさまな作り話をして外形を整える必要があるほど家柄には価値があったと見るのかは人それぞれだ。
私は後者の見方をしていて、先述したように、一条家や西園寺家のように家柄しかない家系の者たちが地方に下って大名化した例もあるのを踏まえるならば、やはりそれなりの価値はあったのだ。

現代において、あなたの氏族はなんですか、と聞かれても答えられない人がほとんどだろう。先祖があやふやだという場合もあるだろうし、系図がはっきりとしていても、そもそも興味がない人がほとんどだからだ。
いい世の中になった、というしかない。

源平藤橘のような氏族名(ウジナ)を氏とすると先の記事で言ったが、八色の姓が実際上意味をなくした時点ですでに姓が氏の意味で用いられてるようになっていた。氏姓の用法に混乱があるというのはこのことだ。
源氏ともいい、源姓ともいい、氏を賜ることを賜姓ともいう。
従って、氏と姓の違いは実際にはほとんど意識されず、つまり氏族名、あるいは本姓のことを言うのだと考えればよい。
本来のファミリーネーム=クランネームはこの氏姓の意味であり、苗字は仮の名に過ぎない。
私個人の例で言えば私の氏は菅原氏だが、苗字は菅原ではない。苗字が菅原である人が菅原氏であるとは限らず、菅原氏の系統のはっきりしている人たちの大部分は苗字は菅原ではない。
菅原氏はだいたいが梅紋を用いているので、梅紋ではない菅原さんはおそらく菅原氏ではない。
苗字を、家名とも言うが、これは家名ではないという研究者もいる。それは単に土地の名前に過ぎぬと。たとえば法事の席で、東京の叔父さんと言うようなもので、この場合の東京は居住地を言うのであって家名ではない。
もちろん苗字のもともとの意味や由来は確かにそのようなものであって、京都の公家といえば京都の地名が家名になっているのはつまりは所在地が転じたものだ。
ただ、別所に移動してなお、地名が家名化してついてゆくことがあって、そのような場合にはやはり苗字は家名化したといえるのではないか。
例えば戦国大名の毛利家は、源頼朝の側近、大江広元に由来しているので大江氏である。広元の子、季光が相模国毛利庄を領有し、毛利を称したが、毛利季光は三浦家の乱に巻き込まれ取り潰されている。
ただし季光の三男の家系が越後に移っていて、そちらは存続している。この越後の家系から寒河江家や、安芸毛利家が派生していて、安芸毛利家は、相模-越後-安芸と転変しながらも「毛利」の地名ともども移動している。
このような例は、確かに単なる居住地とは言えないのであって、イエの名前というしかない。
このイエの名前は、個人にとっては、本来、より抽象性の強い名というべきものであって、社会的な拘束性はあるにせよ、個人とイコールではない。個人が本来属する氏族集団とは別の基準で切り取られた社会制度というべきである。
それはたとえば同業の複数の企業が集まる業界団体での会合における、自社名に似ている。
私が田中という苗字であるとして、アルファ建設なる企業の代表として、会合に出席していれば、アルファ建設さんと呼ばれる。田中という個人の祖先とのつながりのある集団ではなく、別の基準で切り取られた、名前である。
つまり発生初期のイエとは、氏族集団ではなく、むしろ結果的に複数の氏族出身者を包括的に統合した自営集団のようなものであって、自社名が個人のアイデンティティとは無関係であるように、イエの名前と個人が位置づけられる系譜的な呼称とは無関係なのだ。
従ってイエの存続のために最適との合意があれば、同一氏族内部での結婚や同一氏族外からの養子縁組も可能だということになる。それは氏族集団ではないのだから。
平安時代末期から江戸時代にかけての武家の時代とはつまりは氏族集団の論理がイエの論理に置き換えられてゆく過程であり、それは公家に対しても影響を与えている。
別項でもいったように、江戸時代初期に近衛信尹は実子がいなかったことから、妹の中和門院が産んだ皇子(父は後陽成天皇)を養子に迎えている。
近衛家は藤原氏であり、氏族集団の論理からすれば、同じ藤原氏からしか養子は本来迎えられない。しかし別の氏族集団ではあるが最近親になる甥を養子に迎えており、近衛家なるイエの一貫性は保たれても、氏族集団の面から見れば、近衛家はここで藤原氏から王氏に切り替わったというしかないのであって、このような融通無碍は氏族集団の論理では本来不可能である。
それが可能になったのは母系継承をも視野に入れたイエ制度の発達を抜きにしては考えられず、イエ制度が発達したことが、日本が他の東洋諸国と比較して特に顕著に異なる点であり、氏族制度を常識とする世界観からは無軌道なまでに融通無碍に見られるところである。

氏と姓、苗字に混用が見られることは指摘したが、氏と姓は混用されるものの、苗字はそれとははっきりと区別されるべきものである。
中国でも氏と姓は混用が見られ、はやくから区別がなくなっている。中国の場合は、姓が大分類、氏が小分類を示す。
姓が部族名、氏が部族内部における位置づけを示す名前と考えればよい。
たとえば始皇帝は姓が嬴(えい)、氏が趙、諱が政なので、嬴政とも書かれるし、趙政とも書かれる。
姫姓の者のうち、公(貴族)の末裔の者を公孫氏というように、氏は社会的な立場、居住地、出身地を示している。しかしこうした区別も、やがてはつけられなくなり、姓を氏として用いたり、またその逆であったりして氏姓の区別は失われた。
それでも、氏族レベルでクランネームが維持されたとも言える。秦室の末裔を称する秦氏は、中国の氏姓制度においては、姓ではなく氏を称している、大分類ではなく小分類を称していると見なせるが、日本における秦氏はこれは氏族の名であって苗字ではないのだから(氏族名由来の苗字として用いている人もいる)、小分類ではなく大分類の名だと言えよう。
つまり中国やそれを模した韓国における現代的な意味における姓とは、氏と姓が混用されている状態における姓であり、現代の日本における姓とは苗字のことである。
姓(大分類)-氏(中分類)-苗字(小分類)として考えれば分かりやすい。
現代日本における「姓」はそれがどれくらいあるかもはっきりしないほど膨大な数を記録しているが、中国や韓国における「姓」ははるかに少ない。ごく珍奇なものを含めても、1000は越えないだろうし、ほとんどの国民はせいぜいが20程度の姓に含まれるのだ。
これはつまり中国における「姓」が大・中分類であるのに対し、日本の「姓」が小分類であるがゆえの違いである。
日本でも、氏の数は、苗字にくらべると遥かに少ない。
おそらく多い順で藤原氏、源氏、平氏、菅原氏、橘氏。以下は順不同で清原氏、紀氏、小野氏、安部氏、大江氏、葛城氏、などなどである。
中国や韓国における家名とは、源氏や平氏のレベルでの話であって、韓国における同姓をめとらずとは、日本で言えば田中さん同士が結婚しないというレベルではなく源氏同士では結婚しないというようなレベルの話なのだ。
また、中国や韓国では夫婦は結婚しても、元の姓を変えないが、氏族名レベルでは実は日本でもそうなのだ。
氏族名を現在は用いないから分からないだけのことだ。
例えば、将軍秀忠の御台所、お江与の方は位階を授与される時に藤原達子と記名されている。同じく彼女の姉の茶々は藤原菊子として贈位されている。
このことから、結婚後も氏は変わらなかったことが明らかで、家名(苗字)が変わろうが変わるまいが、中韓でいうような「姓」の一貫性は保たれていることになる。
社会的な文脈ではなく、歴史的な文脈で、中国や韓国では結婚後も妻の姓は変わらないのに日本はどうだ?というのは上記の理由でナンセンスである。
日本でも氏姓は変わらないのだ。変わるのは苗字である。
やや例外的なのは豊臣秀吉の妻、北政所の例で彼女は豊臣吉子の名で贈位されている。豊臣姓は秀吉に与えられたものだから、その妻である北政所はいかなる意味においても豊臣氏ではありあえないが、彼女が豊臣氏を名乗っているとすれば、それは秀吉の妻だからでなく彼女自身に豊臣氏が与えられたからだと考えられるのであって、夫の妻であるから夫の氏族名を名乗っているのではなく、朝廷から賜るなどの特別な措置がとられたということだ。
つまり北政所は独立した豊臣氏の創始者であって、秀吉とは同姓ながら別系の豊臣氏ととらえられる。
別系でありながら、同姓であれば同一氏族と扱われるのかと言う問題については、源氏の例がある。
源氏には複数別系の系列があって、いずれもが皇裔ではあるが、同族としてのまとまりは事実上無い。しかし村上源氏であれ、嵯峨源氏であれ、清和源氏であれ、源氏であるには違いなく、淳和院・奨学院別当の地位が複数の系統の源氏において共通した「源氏長者」にあたると見なされ、多くは村上源氏の久我(こが)家がその地位を占めてきたが、室町時代には足利将軍家が、江戸時代には徳川将軍家がその地位を占めている。
村上であろうが嵯峨であろうが清和であろうが源氏は源氏、名誉職において限りなく蜃気楼のようにぼんやりとしたものであっても、同族集団としての外形はあった、ということになる。



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20080429

Secretary of State

アメリカ合衆国は若い国だが、近代的な共和国としては最古の歴史を持つ。
今日、いずれの共和国でも、大統領を意味する語として、President を用いるが、これもまたアメリカで用いられたのが最初の例で、もともとの意味は組織の長くらいの意味だ。
現在の感覚で言えば、たとえば CEO と呼ぶ感じに似ている。
国家といえどもひとつの組織体、国家をある種の「協会」と見なす、国家と対等の並立的な眼差しをこの語には感じる。
アメリカの基礎の部分にある、国家への本来的な不信感、自分たちのコミュニティと国家を、非内包的に見る思想がここにもあるように思う。
思えばそれは、共和国のもうひとつの原型であるフランスとは、対照的なのだが、それを述べるのは今日の本題ではない。
新しく築かれた共和国、アメリカでは、上院議員を senator (元老院議員)と呼ぶなど、古代の共和政を模した部分もあるのだが、もちろん旧宗主国英国を参考にした部分もあり、各省の長官を Secretary と呼ぶのは、英国の国家秘書の制を模している。
大臣職に相当する長官を「秘書」と呼ぶのはいかにも軽い感じがするが、内閣制度以前、王の輔弼として、職務にあたった国務秘書をそのまま英国からアメリカに導入した結果である。
当時、フランス革命は未だ起きていない状況において、「王なき国」としては欧米ではスイス、ヴェネツィアの例があるだけであり、いずれも村落共同体、都市国家という、アメリカとはかなり事情が違っていた。
アメリカが独立するに際して、ワシントンを王位につけようとする動きもあった。
国家とは王がいて成り立つもの、という常識がそれほど根強かったのだ。
もちろん、ワシントン自身王位を望まず、大統領、というその時点では不思議な地位をもってその代わりとしたのだが、各長官を「秘書」と呼ぶのは、王に仕える側近というニュアンスがそこにはある。
英国ではウォルポールによって責任内閣制が成立して以後、国務秘書は外務担当と内務担当に分離し、王個人の側近という立場を離れて、内閣の一員となった。
未だに、英国では外務大臣と内務大臣を minister とは呼ばず、secretary と呼ぶ。
この両者が、Secretary of State であるのだ。
アメリカでは、その語で、国務長官を意味する。
日本ではしばしば識者と呼ばれる人が、アメリカの外相が外務大臣ではなく国務長官と呼ばれることに特に重大な意味があるかのように言うことがある。
外交は、財政や教育と並立的な国家の職分のひとつではなく、まさに国家そのものとイコールである、そういうことを言いたいようだ。
言いたい内容自体は是とするとしても、歴史的な発想がなく、単に現在の字面だけを見るからそのような誤解が生じるのだ。
アメリカの外相が外務大臣ではなく国務長官と呼ばれるのは単に英国の制度を模倣したからで、英国で、Secretary of State という職分が生じたのは、統治者としての王の秘書が横滑りしただけのことだ。
しかも英国の Secretary of State は外交だけを職分とするのではなく、内政にも関与していたのであり、だからこそ後年、それが外務と内務に分かれた。
国務長官という名前だけで、そこに特別な深慮があるかのように言うのは、たとえば律令における太政官制度において、外務卿はなかったけれど(明治の太政官制度で新設された)、民部卿はいたから平安時代の日本は民政を大事にしていた、というような的外れな意見だ。



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20080428

女王の夫

王の妻は王妃である。では女王の夫は?
ヨーロッパの主要国で、初めて有夫の女王となったのが、カスティリアのイサベル女王である(イサベル1世)。彼女はアラゴン王フェルナンド2世と結婚したが、アラゴン王は彼女と結婚している期間においてカスティリア王だった。
彼ら夫妻をカトリコ両王と呼び、彼らの君臨をもって「スペイン」の開始とすることが多いが、実際には、カスティリアとアラゴンはそれぞれ別個の王国であり、単に、カスティリア女王がアラゴン王妃であり、アラゴン王が結婚の期間においてカスティリア王であったに過ぎない。
彼らのうち、妻の方が先に死ぬが、その時点で、フェルナンド2世はカスティリア王ではなくなったのである。
カスティリア王位は彼らの娘のフアナが継承し、女王となった。
フアナはすでに皇帝マクシミリアンの嫡男、ブルゴーニュ公フィリップと結婚していたが、前例に従って、ブルゴーニュ公フィリップも「女王との結婚期間において」カスティリア王となった。
フェリペ1世である。この後、王位は彼らの息子のカルロス(皇帝カール5世)、その息子のフェリペ2世へと継がれる。
さて、スペイン王(カスティリア・アラゴン両王)フェリペ2世は、実質的にはイングランド最初の女王であったメアリー1世と結婚していた。
イングランドでは、女王が玉座にあるのは事実上、初めてのことだったので、女王の夫をどのように遇するかという前例がなかった。
ここでは、ヨーロッパにおける前例であるスペインの例に引きずられた形になり、女王との結婚期間においてフェリペはイングランド王となった。
イングランド王としてはフィリップ1世となる。
その後、フィリップを称するイングランド王は登場していないが、今後、新たにフィリップ王が即位するとすれば、それはフィリップ2世となる可能性が高い。
メアリー1世の死去後、イングランドではエリザベス1世が即位したが、彼女は生涯独身を通した。
スコットランドではメアリー・ステュワートが即位しているが、彼女は三度、結婚している。最初の夫、フランス王フランソワ2世と、二番目の夫、ダーンリー卿ヘンリー・ステュワートはそれぞれ「女王の夫」としてスコットランド王となっている。
メアリー・スチュアートの三番目の夫となったボスウェル伯ジェイムズ・ヘップバーンは「スコットランド王ヘンリー」を殺害して、女王の夫となったがすぐに反乱が起きて大陸に逃れている。デンマークで捕らえられ、幽閉されたが、一説によると激しい拷問を受けたと言う。その罪状は「王殺し」であって、デンマークも王国なれば王殺しには厳しい態度で臨んだようだ。
ここからは、ヘンリー・ステュワートが単に女王の夫であるのみならず、名目にとどまらないスコットランド王として諸国に認識されていたことが伺える。
イングランドではその後、メアリー2世が女王として即位し、その夫、ウィリアム3世がイングランド王として「共同君臨」したことがあった。
これは、「女王との結婚期間において王」というのではなく、ウィリアム3世自身も独立して王である、という処遇のされ方だった。
メアリー2世とウィリアム3世の夫婦は妻が先に死んだが、ウィリアム3世はその後、単独の王として君臨した。
これはひとえに、ウィリアム3世の母がイングランド王チャールズ1世の娘であり、彼自身イングランド王家の血統だったからである。
ウィリアム3世崩御後は、メアリー2世の妹のアンが女王として即位したが、彼女の夫はデンマークの王子ジョージだったが、彼はイングランドにおいてはカンバーランド公に叙されたが、「イングランド王」にはならなかった。
これはイングランドにおいて女王の夫がイングランド王として遇されなかった最初の例である。以後、イングランドにはヴィクトリア、エリザベス2世とふたりの女王が登場するが、その夫はいずれも「イングランド王」にはなっていない。



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20080427

カトリックの英国王

Telegraph.co.uk の記事で、カトリックにも英国王位継承権が認められるよう政府が王位継承法の改正に乗り出そうとしている、という話があった。
1701年、英国王ウィリアム3世は、王位継承法を発布した。
それは名誉革命の結果、成立したプロテスタント体制を維持するために、カトリックのスチュアート王家を排除することを主眼とした法律だった。
それによれば、英国王位継承権所有者はスチュアート王家の子孫であり(正確にはハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーの子孫であること)、なおかつプロテスタントでなければならないとなっている。
当人がカトリックに改宗したり、カトリック信者と結婚した場合、王位継承権を失う。

この法律は今も有効で、過去に何人もの英国王室のメンバーが、カトリックに改宗したりカトリック信者となったために、王位継承権を失った。最近では、 2006年に王位継承権第27位だったニコラス・ウィンザー卿(国王ジョージ5世のひ孫。女王エリザベス2世の父方の従兄弟の次男)がカトリック信者のクロアチア人女性と結婚し、自らもカトリックに改宗したため、王位継承権を失った。
5月に、女王夫妻にとっては初孫にあたるピーター・フィリップス氏(アン王女の第一子で長男)が結婚する予定だが、彼は現在王位継承権第11位にあたる。お相手のオータム・ケリー嬢はカナダ人の経営コンサルタントで、カトリック信者であるため、彼女と結婚すれば、ピーター・フィリップス氏は王位継承権を失うことになるだろう。
もちろん実際には、王位継承権11位という位置は何の意味も持たない。実際に王位を継承する見込みは万に一つもない。
従って、ピーター・フィリップス氏の「失われた王位継承権」はほとんど無意味な肩書きがひとつ失われるというに過ぎないが、彼も産まれた時点では、王位継承権第5位だった。
今後、より上位の王位継承権者、たとえば、王位継承権第2位のウィリアム王子や第3位のヘンリー王子がカトリック信者と恋に落ち、結婚したいということになれば、現在の王位継承法は深刻な問題を引き起こす可能性がある。
カトリック教会や信者たちは、現在の王位継承法を当然のことながら差別的だと抗議し、国家に残された唯一の宗教差別法として直ちに改正すべきだと主張している。
19世紀末期に、規定が改められるまで、英国ではカトリック信者は公職や公務員から「合法的」に締め出されていたが、そうした規定もあらかた廃止された。王位継承法に残るカトリック排除は、唯一残されたカトリック差別の残滓だとも言える。
夫人がカトリック信者だった、ブレア前首相は王位継承法をより宗教的に平等にするよう、改正する意向を示したが、彼の長い在任期間中、実際には何もしなかった。
いざ、検討に乗り出せばなかなか厄介な問題をはらんでいることも明らかになったからである。
英国の王/女王は国家の君主であると同時に英国国教会の首長でもある。
そうした中で、英国国教会の首長がカトリックであるとしたら、いかなる混乱が生じるのか。
そうした状況の最後の実例となったジェームズ2世は、名誉革命で王位を追われた。
で、あるから、王位継承をカトリック信者にも開く改正をなす時、あらかじめ英国王室と国教会を分離しておく必要がある。
それには国教会側が抵抗を示している。
理念的には宗教平等のうえから重要ではあるが、実際には非常に困難でなおかつ実利に乏しいこの改正に、保守党は不熱心か反対であろうから、労働党政権のうちに改正されなければ、まず頓挫することは間違いない。



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20080426

王族公爵

イギリスの男子直系王族(王/女王の息子、もしくは皇太子の息子)は、これまでの例を見るに、成人するか、結婚する時点で、Duke に叙せられる。
これを Royal Duke 王族公爵という。
故ダイアナ妃の遺児、ウィリアム王子とヘンリー王子も成人したが、彼らはまだ Duke に叙せられていない。
扱いとしては、ウェールズ公の世帯員という扱いで、イギリス王室の公式ウェブサイトでもウェールズ公に付随的に扱われている。
ただしこれは彼らが未婚だからで、女王の息子、ヨーク公アンドリュー王子とウェセックス伯エドワード王子の例では、結婚する直前に爵位を叙されているから、ウィリアム、ヘンリーの場合も結婚する段階でそうなるだろう。
思うに、なぜ結婚直前に爵位を叙せられるかというと、これは夫人となる人の呼称のためではないかと思う。
先の記事で述べたとおり、たとえば、アンドリュー王子の妃のセーラという立場では、セーラはアンドリュー王子妃、Princess Andrew of Windsor となるよりない。
現在のイギリス王室では、マイケル・オブ・ケント王子の妃マリー・クリスチーンが同じ立場だ。マイケル・オブ・ケントは独立した爵位を有していないので、マリー・クリスチーンは Princess Michael of Kent と呼ばれるよりない。
女性を呼ぶのに、プリンセス・マイケルだとか、プリンセス・アンドリューというのはいかにも不都合なので、ヨーク公妃セーラと呼ぶためには、夫にヨーク公の爵位が叙されている必要がある。
女王の三男、ウェセックス伯エドワード王子は現在、公爵に叙されていない。これは君主の既婚の嫡出の息子としては極めて異例で、普通はこのような場合、公爵に叙せられる。
これはエディンバラ公の死後、エディンバラ公の位をエドワード王子が改めて帯びることが女王と皇太子、そしてエディンバラ公との間で合意があるからだとバッキンガム宮殿は伝えている。
ウィキペディアでの記述では、ウェセックス伯エドワード王子をエディンバラ公位の継承者と書いているが、これは正確に言えば誤りである。
貴族の爵位の継承は、あらかじめ定められているのであり、エディンバラ公位の継承者は長男のチャールズ皇太子以外にない。
しかしチャールズがエディンバラ公位を継承し、王位についた時点で、エディンバラ公位は王位に統合され、消滅する。
その時点で改めてウェセックス伯エドワード王子にエディンバラ公位が叙せられる、そういう予定になっている。
だからウェセックス伯エドワードは将来的にはエディンバラ公となる予定ではあるが、それは父親の爵位を継承するのではなく、改めて、「初代」のエディンバラ公になるということである。
名前だけでもエディンバラ公位を残したいという、王室の意思がそこにはある。



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20080425

HRH

イギリスにおける王族とは1917年にジョージ5世の発した勅許状によって定められた「His/Her Royal Highness」の範囲の人々を指すことが多い。この範囲の人たちが、いわゆる Prince/Princess で、それは王位継承の順位とは必ずしも一致しない。
ジョージ5世王族勅許状では、国王夫妻の他に、
「君主の子、君主の息子の子、ウェールズ公の長男の長男」を狭義の王族として、殿下の敬称とともに Prince/Princess で呼ばれるものとした。
イギリスには女王もおり、女系の継承も認められているが、直系と傍系では直系が優先されるものの、同一系統の中では男系が女系に優先されるように、ここでも男系は女系に対して優遇されている。
現在の女王の子と孫で具体的に見てみよう。
女王の子は上から順に、チャールズ皇太子、アン王女、ヨーク公アンドリュー、ウェッセックス伯エドワードである。
彼らは兄弟姉妹なので同一系統であり、その中では男系は女系に優先するから、長男(第一子)-次男(第三子)-三男(第四子)-長女(第二子)の系統順で王位継承権が発生することになる。
また、彼らは「君主の子」なので、一様に殿下の敬称と、王子/王女の称号で呼ばれることになる。
その次の世代では、チャールズ皇太子、ヨーク公アンドリュー、ウェセックス伯エドワードの子らは「君主の息子の子」であるので、一様に殿下のつく王子/王女だが、アン王女の子らは「君主の娘の子」なので格落ちになって、王族としては遇されない。
イギリスの狭義の王族には他にジョージ5世の息子のグロスター公とケント公の家系がある。
エリザベス2世女王はジョージ5世の次男の家系だが、三男の家系がグロスター公、四男の家系がケント公になる。
ジョージ5世の三男の息子が現在のグロスター公で、彼は「君主の息子の子」なので、殿下のつく王子である。同様にケント公家にはケント公、マイケル・オブ・ケント王子、アレクサンドラ王女と三名の狭義の王族がいる。
しかしグロスター公家やケント公家は現在の王室からは傍系なので、王位継承順位ではより直系に近いアン王女の平民である子供たちよりも下になる。

女王の子たちのうち上のふたりの子供、チャールズ皇太子とアン王女が生まれた時、祖父のジョージ6世は存命であった。
つまりその時点で、彼らは「君主の娘の子」であって、本来であれば、殿下でもなければ王子/王女でもなかった。
そのため、1948年にジョージ6世は別の勅許状を発効し、エリザベス王女(当時)とエディンバラ公の間に生まれた子供には殿下の称号と王子/王女の称号を与える措置をとった。
これによって、チャールズとアンは、生まれながらにして殿下であり、王子/王女であるということになった。
この措置はあくまで王位を継承することが確実だったエリザベス王女の、子供たちに限っての特別な措置であり、エリザベス王女の妹のマーガレット王女の子供たちには行われなかった。
そのためマーガレット王女の子供たちには通常の「君主の娘の子」という規定が適用され、狭義の王族の範囲から外れた。
エリザベスが1952年に即位して以後に生まれた子たちには(ヨーク公とウェセックス伯)、通常の「君主の子」規定が適用されている。

現在の王室、女王がいて、チャールズが皇太子で、という状況で、ウィリアム王子が結婚して、第一子が娘、第二子が息子、第三子も息子が生まれるとしよう。
その場合、長男には「ウェールズ公の長男の長男」という規定が適用されて王族となるが、長女と次男は規定外になるので王族扱いはされない(ただしおそらくウィリアム王子はなんらかの爵位を授与されるだろうから貴族の子としては扱われるだろう)。
チャールズ皇太子の次男のヘンリー王子に子が生まれても、同様にその場合は「ウェールズ公の次男の子」になるので、王族にはならない。
ただし、チャールズが王位を継げば、いずれも「君主の息子の子」になるので、おそらくチャールズ皇太子とアン王女のケースと同様、何らかの特別勅許状が出される可能性はおおいにある。



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20080424

旧皇族

現在の皇室典範では、親王/内親王、あるいは王/女王について、第6条で以下のように規定されている。

「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。」

嫡出とは法的な婚姻関係によって産まれた子の意(つまり私生児ではないということ)。嫡男とは一般的な意味では、「跡継ぎ」の意だが、法律用語では嫡出の男子の意味。
つまり、正式な婚姻によって産まれた子のうち、天皇の子と、天皇の息子の子を親王/内親王とし、それ以外の天皇家男系の皇族を王/女王とする、という規定である。
秋篠宮家の子女たちは、「天皇の息子の子」になるので、親王/内親王だが、寛仁親王家の子女は「天皇の息子の子の子」なので一段下がって女王になる。
このように、親王たる要件は現在ではあらかじめ決められているが、江戸時代以前はそうではなかった。
天皇の子女であっても、親王/内親王となるには、天皇から宣下を受けなければならなかった。だから天皇の子女で、なおかつ臣籍降下していない皇族であっても、宣下を受けなければ親王/内親王は名乗れなかった。
著名な例では以仁王の例がある。
逆に、天皇の子女でなくとも、皇族であれば宣下を受ければ、親王/内親王を名乗ることも出来た。
世襲親王家はその例である。
一般的には親王は、代が下がれば臣籍降下し、皇統から離れる。
桓武平氏や清和源氏はその一例だ。そうした一般的な親王とは別に、代が下がっても代々親王宣下を受けて、皇統の断絶に備える家系がかつて存在していた。
伏見宮家が最も古く、室町時代初期、北朝の崇光天皇の皇子、栄仁親王から発している。他に、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家が存在したが、有栖川宮家と桂宮家は断絶し、閑院宮家は江戸時代後期の光格天皇以後の現在の皇統となった。
つまり、明治以後に存在した非直宮の世襲皇族家(旧皇族)はすべて、伏見宮家の血統ということになる。
第20代の伏見宮家当主、邦家親王の子とその男系の孫らが旧皇族を形成した。
邦家親王の息子らがそれぞれ、山階宮家、久邇宮家、北白川宮家、東伏見宮家、伏見宮家、閑院宮家(復興)を継承もしくは創設し、北白川宮家からは更に竹田宮家が派生、久邇宮家からは賀陽宮家、梨本宮家、朝香宮家、東久邇宮家が派生した。
これらのうち東久邇宮家は男系子孫が豊富でありなおかつ女系を通して昭和天皇の血統であることから、旧皇族復帰の際は有力候補に挙げられている。
また、著作家として活動し、当人も皇族復帰に意欲を示している竹田恒泰氏は竹田宮家の男系子孫で、明治天皇の娘の昌子内親王が曾祖母にあたる。
明治天皇、昭和天皇には内親王が比較的多数いたことから、旧皇族との縁戚関係も強められている。
しかし皇位継承を言う場合、あくまで重要なのは男系であって、もし女系を通して皇子孫であることが何らかの意味を持つのであれば、そもそも女系継承を容認すればいいだけの話であり、女系の子孫であれば現在の皇室直系にも多数存在している。
そして男系を辿って言うのであれば、旧皇族は室町時代初期(というか南北朝時代)に皇統から分離しており、他に適当な候補者がいないならばともかく、より天皇家と近縁の男系家系が複数存在することを考えれば、あまりにも家系が遠すぎる。
そもそも彼ら、伏見宮家の家系を明治になって世襲皇族としたことが誤りだったというしかない。徳大寺家や西園寺家、近衛家などを皇族に復帰させておくべきだったろう。



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20080423

天皇家男系の末裔

藤原氏のうち、主流である北家、その中で更に嫡流にあたる御堂関白(藤原道長)の子孫のうち、主要五家を摂家、または五摂家という。
近衛家、鷹司家、一条家、二条家、九条家がそれであり、豊臣秀吉と秀次が就任した二例を除いて、関白はこの五摂家から輩出されてきた。
公家の中で最高の家格を誇る家々だ。
五摂家のうち、近衛家、鷹司家、一条家に江戸時代に天皇の息子が養子として入っており、天皇家の男系子孫が今もなお、これらの家系を通して多数存在している。
天皇家の男系血筋が入って以後の摂家を皇別摂家という。
第二次世界大戦後に臣籍降下した旧皇族たちは、室町時代初期に天皇家から分離した家系だから、皇別摂家の方がはるかに嫡流に近い。
皇位の男系継承にこだわる人たちのうち、少なからぬ人たちが旧皇族の復帰を言うのはまったく解せぬ話である。旧皇族などは、傍系の傍系もいいところで、他に近縁の者がいないならばともかく、皇別摂家系の男子が存在する以上、彼らになど用は無いはずだ。
旧皇族が皇位継承において有利だったのは、皇族だったという一点に尽きる。それもひとたび臣籍降下してしまえば、その点の条件は皇別摂家と同じなので、ひたすら血の近さが優先されるのであれば、旧皇族がいまさらとやかく持ち出されるのもおかしな話である。
旧皇族の復帰を言う人たちは、単に、江戸時代に天皇家から他家に養子に入った男系子孫が存在するという事実を知らないだけなのではないか。

戦国時代の末期に近衛前久という人物がいる。近衛家の当主で、関白にもなった人だが、一時、各地を流浪していて、上杉謙信の元で軍師の真似事のようなこともしていた。
地方大名の力を借りて全国規模での秩序回復を図ろうとした人だが、謙信にそれだけの意思がないと見定めた後は信長に接近した。
信長が武田家を滅ぼした後の甲斐巡行にも同道しており、富士見物がてら家康の領地の駿河にも足を伸ばそうとしたところ、饗応のため家康の負担が重くなるのを察した信長から叱責されている。
本能寺の変後は秀吉に接近し、秀吉の関白就任を実現するため、秀吉を猶子にしている。つまり秀吉は近衛前久の子、藤原(近衛)秀吉として関白に就任した後、豊臣という新たな姓を朝廷から与えられている。
そういう、戦国末期から江戸初期にかけての、朝廷側の黒幕的な人物なのだが、この人の娘の前子は後陽成天皇に女御として入内し(中和門院)、後水尾天皇のほか、皇子ふたりを産んだ。
皇子のうちひとりは実家の近衛家を継ぎ、もうひとりは一条家を継いだ。
近衛家は、昭和初期に首相を務めた近衛文麿までが、天皇家の男系子孫になる。文麿の嫡男の文隆はシベリアに抑留され、帰国できぬまま凍土に永眠した。
文隆には弟の通隆がいたがどういうわけか近衛宗家は文麿の娘の息子、近衛忠輝が継承したため、現在の近衛家は女系が入ったため皇別摂家とは言えない。もっとも忠輝の実家の細川家も清和源氏の名門であり、皇裔ではある。
近衛忠輝の実兄が首相を務めた細川護煕である。
文隆には庶子の男子がおり、この人物も更に男子をもうけている。皇位継承者を今後増やすのであれば、有力候補のひとりだ。

後陽成系の子孫よりも、更に現在の天皇家に近縁な男系子孫が東山天皇の男系の孫、鷹司政熙を通しての子孫である。
鷹司家自体は現在は他家から養子を迎えたため、皇別ではないが、この家系から他家に養子が出ており、それらのうちの男系子孫は現在の天皇家に最も近い男系集団と言える。この中には最後の元老と呼ばれた西園寺公望が含まれており、西園寺は皇統に非常に近い位置にあった。西園寺公望自身は男系子孫を残していない。
徳大寺家、末広家、住友家(住友財閥当主家)、あるいはその系統の男系子孫が、東山系の男系皇裔として存在している。



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