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20041015

晴れた日のリベラル、雨の日の保守

晴れた日のリベラル、雨の日の保守、という言葉がある。諸条件が恵まれている時には、リベラル的な政策を採って国民福祉の向上を目指し、状況が困難であれば、大胆な冒険主義的な政策を採らずに保守に政権を委ねて乗り切ると言うような意味の、英国議会政治に伴う諺のようなものである。
歴史の例を見ていく上で遡り過ぎるのが私の悪い癖だが、英国史をつらつらと眺めてみると、確かにこの傾向は当てはまる。
ハノーヴァー朝の初代、ジョージ1世が英国王に迎えられた時、後に保守党へと連なっていくトーリー党の有力者の中に、旧王家スチュアート家の支持者が多かったこともあって、ジョージ1世はホイッグ党(後の自由党)系のウォルポールを重用して、事実上ここに責任内閣制が始まることになった。
18世紀の英国はこのホイッグ党の治下にあって、大きな戦争に巻き込まれることもなく、順調に発展していき、大英帝国の礎を築いていくのだが、18世紀後半から大きな国難に見舞われ続けることになる。
大陸のバランサーとしてはある程度はやむを得なかったとしても、度重なる同盟者を裏切る行為が「不実なるアルビオン」との評を生むことになり、英国包囲網をもたらした(アルビオンはイングランドの別名)。
アメリカの独立革命では英国は不面目な敗北を喫し、大英帝国の栄光はこの時一度地に落ちたとも言える。
啓蒙専制君主として著名な神聖ローマ帝国皇帝にしてオーストリア大公のヨーゼフ2世は、この時期の英国を評して「スウェーデンやデンマーク並の二流国家に転落した」と述べている。
特にフランス革命と、その後に生じたナポレオンの脅威に晒される中で、愛国主義を旗頭に掲げたウィリアム・ピットが保守的な立場から政権を担当することによって、英国としてはアルマダ以来の未曾有の国難を乗り切れたという面もある。
第2次大戦後に話を移せば、労働党のアトリー内閣以後、おおよそ23年間、労働党が政権を握っていたことになる。これが58年7ヶ月のうちだから、逆に言えば35年程度は保守党政権下にあったわけだ。
もし、雨の日の保守というのを杓子定規に適用すると、英国は戦後35年程度は「雨」だったということになるけれど、実際にはもっと長い期間、「豪雨・雷雨」に晒されたのではないだろうか。
第2次大戦の国難ほどのような危機はなかったけれども、英国の衰退は誰の目にも明らかだったのだから。
晴れた日のリベラル、という諺をこれまた杓子定規に適用すれば、1997年5月、ブレア率いる労働党が総選挙に勝利して以来、英国は晴れの中にいることになるが、この時期の英国の経済状況を見ると、せいぜいが堅調というもので、失業率は英国としては低い水準だけれども経済成長率はほとんど足踏み状態である。
悪くはないというところであって、快晴とは言えないのではないだろうか。
「晴れた日のリベラル、雨の日の保守」と言う言葉は歴史的に見て傾向的には言えるけれども、それをそのまま今現在の状況に当てはめられるか少々疑問を覚える。
この言葉を保守の人たちがつぶやきがちだというのも、利用のされ方として党派的な匂いを感じる。
ひとつには、保守とリベラルという区分が、時代ごとに意味合いがかなり違っていることがあるからである。
フランクリン・ルーズヴェルトは保守か革新かと聞かれて「民主主義の諸制度を守ると言う点では保守であり、よりよい社会を築いていくという点では革新である」というような返答をしているが、何が保守であって何がリベラルなのかは時代的にずれていくものだ。
ウィンストン・チャーチルはキャリアを保守党の議員としてスタートさせているが、これは彼が大貴族の一族であることと、父親のランドルフ・チャーチルがかつて保守党の有力政治家であったこと(蔵相を務めている)が理由だろう。
しかし貿易問題をめぐる議論の中で、自由貿易維持を主張したチャーチルは保護主義に傾きがちな保守党とは袂をわかち、自由党に移籍している。
自由党ではロイド・ジョージの郎党めいた存在になり、ロイド・ジョージの地位が上がるにつれ、チャーチルも自由党で重みを増していった。結果的に土地貴族を徹底的に打ちのめし、崩壊せしめることになったロイド・ジョージ蔵相の「人民予算」でも、チャーチルは推進派として行動し、そのため、貴族階級からは裏切り者視されることになった。
ウェールズの貧乏人のせがれ、ロイド・ジョージがそれを提唱するのはまだしも、モールバラ公爵家の一族として、仮にもブレニム宮殿で生まれたウィンストン・チャーチルがそれを推進しようとするなど、気が触れたと思われるようなことだった。
英国議会で「議場を横切ること」、つまり所属政党を変えることは忌むべきこととされるが、チャーチルは2度も横切っている。最初の海軍大臣を務めたときは自由党の政治家だったが、二度目の海軍大臣、首相を務めた時は保守党に復帰していた。
これには労働党の躍進の煽りを受けて国民政党としての自由党が崩壊するという事情があったからなのだが、チャーチルの経歴、彼が行った政治的な業績(あるいは悪業)を考えれば、彼を典型的な保守政治家と見なすのはやはり誤りだと思う。
マーガレット・サッチャーを典型的な保守政治家とは見なせないのと同様である。ある意味、彼女ほど「リベラル」な政治家も珍しいのであって、サッチャリズム以後、保守党は旧自由党的な思想に乗っ取られた感もある。
何をして保守、何をしてリベラルとするか、簡単には言えない。
もともと保守、リベラルという区分事態が曖昧なので、「晴れた日のリベラル」云々も曖昧なものだと、考えておいたほうがいいかも知れない。



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