log1989
index about link bbs mail


20041113

男が戦うこと、女が戦わないこと

「赤毛のアン」は続編が9作あって、あわせて全10作でアン・ブックスを成している。
本当のところ、男でありながら「赤毛のアン」の話をするのは気恥ずかしいなんてもんじゃないのだけれど(特にこの作品の日本における受容のされ方を見ると)、好きなのはしょうがないよね。
以前、ロバート・ブラウニングの詩を引用したところ、「あなた、赤毛のアンをお好きですね」というメールをいただいた。その通りである。
言い訳を言えば、中学生の時、私はとにかくひたすら長い小説が読みたくて、長ければ長いほどいい、本を選ぶのに目方で選んでいた時期があった。
「赤毛のアン」そのものは、1冊だけれども、アン・ブックス全体では10冊もある。
「赤毛のアン」はマシュウが死んだ後、アンとギルバートが仲直りするところで終わるけれども、アン・ブックスはその後も延々と続いて、二人の婚約、結婚、子供を持ち家族が増えていく様子を描いている。
時系列的に最後の作品になる「アンの娘リラ」の頃には(それにしても説明的な邦題だな)、アンとギルバートの6人の子供たち(最初の子は死産だったので、アンは7人の子を産んだのだ)も育ちあがって、末娘のリラ(マリラ)も15歳くらい。
この最後の作品がアン・ブックスとしては極めて異色なのが、第1次世界大戦を背景としている点だ。
効果的な伏線がいくつも織り込まれ、作家としてモンゴメリの円熟を感じさせる傑作であるが、戦争を背景にしていることから、否応なくこの作品は戦争に対してカナダの一般市民がいかに向き合ったかが描かれ、カナダにおける銃後を描いているという点では、類書も余りないので、とても興味深いものになっている。
そうしたテーマの重さを除外しても、構成の巧みさ、人物造詣の鮮やかさなど、この作品は「赤毛のアン」よりも私は評価しているのだけれど、なんといってもアン・ブックスの最終巻なので、アン・ブックスを読もうと言う人でもなかなかこの作品までたどり着かないのが残念だ。
時系列的には前の話になる「アンをめぐる人びと」「虹の谷のアン」の方が実際には「アンの娘リラ」よりも後で書かれたのだけれど、時系列的には最後の作品ではある「アンの娘リラ」が少女小説には似つかわしくないやや黙示録めいた陰鬱さで覆われているのは、モンゴメリが戦争に大きな衝撃を受けたからであろうか。

アンの3人の息子、ジェム、ウォルター、シャーリーは第1次世界大戦が始まると軍隊に入隊し、欧州の戦地に赴く。
ジェムとシャーリーは割りと典型的な志願兵なのだけど、複雑さを見せるのが次男のウォルターだ。
ウォルターは文学を愛する心優しい(そして優秀な)青年で、戦争が勃発すると、戦争自体に嫌悪を覚えつつ、軍に志願する「勇気」のない自分にも嫌悪を感じている。
キッチナー卿のもたらすプロバガンダに興奮する登場人物の中で、彼だけが、歴史を越えた眼差しを持っている。
ウォルターが結局、戦争に赴くことを決意するきっかけになったのは、どこぞの女から送られてきた鶏の羽である。
鶏=チキン=臆病者、であり、つまり他の男たちが戦っているのに志願しないおまえは卑怯者だと言うメッセージである。
それに動かされたわけではないだろうけれども、彼は家族の名誉のために志願し、そして戦死するのである。
男は戦う。戦場で戦う。それ自体がからめとられた幻想ゆえかも知れないけれども、抑圧装置でもある市民という義務を果たすために、男は銃を取らざるを得ないのである。あるいは取らざるを得なかった、のである。
女たちも戦っている、と言うかも知れない。もちろん、国家総力戦においては程度としてはそうである。しかしそれは男たちが戦うのとは全然意味が違う。
銃弾が行き交う戦場で、塹壕に入って足が腐れて行くことや毒ガスをあおることは、後方で「銃後の守り」を固めることとは全然違う。
少ない配給で腹をすかせるのと、飢餓の極限から戦友の遺体を食うのとでは全然違うのだ。
戦うことにもし意味があるのだとすれば、戦争において女たちが男たちと同じように戦ったというのは明らかに嘘である。
もちろんレジスタンスなどで銃を取った女はいるだろうが、それは男たちがごく例外的な存在を除けば、男であるがゆえに戦うことを法的にあるいは慣習的に義務として課せられたのとは全然訳が違う。個人の選択はそこにはなかった、あるいはほとんどなかったのである。

第2次世界大戦後、あの戦争をスターリンは大祖国戦争と呼んだが、余りに多くの男が失われたので、女たちが男の職場に入り込むことになった。社会主義国ソ連で少なくとも女性の社会進出はかなり進んでいたのは、そもそもはそういう理由もある。
また、当たり前のことながら結婚できない女性が増えたが、ソ連政府はこれに対して、なんと言うか下品な表現だけど的確なものをとれば「種付け」をするよう奨励した。
夫は得られなくても、せめて子供は与えようという「配慮」からである。
生き残った者にも、苦難はあった。しかしそれを苦難と感じられるのも生きていればこそである。
死んだ者にはなにもない。
生きると死ぬは大違いである。決して等価ではない。
戦争では女性に比して男性がはるかに多く死ぬ。これを男性差別だと言うつもりはない。そういう仕組を作っているのは得てして男性自身でもあるからだ。
私が言いたいのは生きると死ぬとでは大違いであるということ、そして戦争がより多く、そして強く、女性よりも男性に対して死を強いたということである。
戦争で男が負った苦難と女が負った苦難は、絶対に等しくはない。

あるフェミニストは「人形の家」を呼んで慟哭したという。
フェミニストに対立する概念としてメイリストなるものがもしあるとしても私はそれではないが、男である私が、鶏の羽を送られたウォルターの場面を読んだ時、いかほどの怒りを覚えたか、彼女には理解できるだろうか。
もちろん国家指導者はおうおうにして男である。
男と言う枠組で言えば自業自得である。
しかし徴兵された男に何の選択があっただろうか。彼が体制の陥穽を引き受けなければならないとするならば、彼に「勝って帰れ」「○○のために死んで来い」「盾に乗って帰れ」と送り出した女、あるいは素直に送り出されようとしなかった男に鶏の羽を送る女が、どうしてその陥穽から免責されるであろうか。
しかも送り出された男は死に、送り出した女たちは生き残ったのである。
ヴェトナム戦争で戦った男たちにその戦功は嘘であるといい、戦わなかった男たちに卑怯であるという女たちがいる。
私は聞く。
「君は戦ったのか?」
そんなことが質問されること自体、そうした女は心外であるかもしれない。よき母であり、よき妻である私に戦えなんて!
臆病者の、卑怯者なのだろう、この男は、とおそらく私は女から相手にされなくなるだろう。そして女に相手にして欲しい男、つまりほとんどの若者は、戦争が起きれば「I want you」と指を指す国家の命じるがままに戦場に赴き、そして盾に乗って帰ってくるのだ。
この醜悪さに敏感である女は、ほとんどがフェミニストだろう。
だからある種のフェミニストたちは女も戦えることを証明しようとした。それは醜悪さへの嫌悪からだと思う。
イラク戦争ではかなりの数の女性兵士が、前線に立った。
しかしそれは男たちが守るべきもの、つまり戦う理由そのものの消失にもつながる。女が自分で戦うならば、どうしてそれを守る必要があるのか。
今、それが浮かび上がらないのは、GIジェーンが少ないからである。
私は女を殴ったことがない。殴っても当然というようなことを言われたことはある。相手が男だったら殴っていただろう。それを押しとどめたのは、男は女に手を上げてはいけないという刷り込まれた教えである。
もし、戦場で私に銃を向ける女であれば、おそらくその縛りは効果をなくすだろう。
醜悪さを乗り越えるためにジェンダーフリーがあるのであれば、そこからも更に乗り越えなければいけないものがある。



| | Permalink | 2004 log


inserted by FC2 system