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20041116

マリー・オランプ・ド・グージュの言葉からの連想

マリー・オランプ・ド・グージュは、フェミニズム運動の魁を成した女性である。大抵のフェミニストがそうであるように、彼女も世間的に言えばきつい性格で、自作に絶対の自信を持つ小説家であり、しかも世間から受け入れられない小説家だった。
たまたまフランスが大革命に差し掛かったため、彼女の持つ使命感と毒舌はフル回転することになった。
彼女の扱われ方、処遇のされ方は最初の活動的フェミニストであった彼女にして、まさしくフェミニズムに対する扱われ方の典型が見られるのは、興味深い。
つまり敵意と無視、嘲笑である。
フランス人権宣言(Declaration des droits de l'homme et du citoyen)の示す「人」が homme,すなわち「男」であることからこれでは不充分だとして、彼女は「女権宣言」を発表した。
これは彼女の言いがかりであったというよりは、事実、この人権が男を対象としていたのであり、当時、最左翼のエベール派でさえ、女権の拡充などまったく想定外であった。
この人は、革命派、王党派のどちらにもいわばジョーカー扱いされた人で、王政vs共和政、特権身分vs民衆、有産階級vs無産階級という対立軸の他に、男 vs女という視点を持ち込もうとした彼女を、ほとんど例外なくあらゆる男が憎んだ。そしてそれ以上に女からも憎まれた。
しかし彼女はめげない性質であり、しかも論舌鋭く、彼女を嘲笑する人たちを次々と論破していった。しかしその後に来るのが、彼女への尊敬や屈服ではなく、憎悪と無視であったのも、時代的な限界だったと言わざるを得ない。
彼女が言っていることは、今日ではごくごく当たり前のことであるけれども、大革命の速度の速さと比較しても、オランプ・ド・グージュは早過ぎたのである。
しかし一歩がなければ二歩目はない。そういう意味では彼女は、第一歩の人だった。
ポンパドゥール夫人、ロラン夫人、スタール夫人のように、母、あるいは妻という立場から政見を出したり、実際に政治に関わった女性は少なからずいる。しかし、そうした遠隔操作なしで、女性が直接政治に関わろうとした時、拒否反応が現れるのは、それほど珍しいことではない。
妻は家庭にあってしっかり夫を遠隔操作、それが賢い女の生き方とする考え、こうした女性はえてしてオランプ・ド・グージュのような自らのキャリアでもって立とうとする女性に批判的であるが、そうした一歩引いて男を立てて実質を掌握するのをよしとするのが「正しい」女の生き方だとする考えは最近まで、あるいは現在もあるのではないだろうか。
ロラン夫人は実際にはジロンド派の頭目だったけれども、公式には私人でありつづけたので、ロベスピエールが彼女を処刑しようとした時、口実を見つけるのに苦労したとも言う。
一方、オランプ・ド・グージュには、さっさと反革命容疑をつきつけて処刑している。
少なくとも彼女は自分自身の言動によって処刑されたわけで、未だに嘲笑されることも多い人ではあるけれども、私は彼女を立派だと思う。自分の足で立った自由人として。
フランスが女性参政権を憲法の規定に盛り込んだのはドゴール臨時政権からのことであって1944年のことである。ほとんど日本と同じ時期であり、ヨーロッパの大国としては著しく遅かった。

さて、以上は前振りである。
今日この記事で焦点をあてたいのは、「女性にギロチンにかけられる義務があるならば、政治に参加する権利もあるのだ」というオランプ・ド・グージュの言葉である。
これは「代表なきところに課税なし」の考えに近いけれども、政治に参加する権利は果たして、刑法的な責任を引き受けることだけに由来するのか、ということを考える。
これは政治の舞台である国家をいかようなものと見なすかということにも関わる。
自然発生的な所与のものであると見なすならば、まったく人の手が加わっていない天体を所有しようとすることがどうも奇妙であるように、それは歴史的な所産であり、それに向き合う個人にまったく優劣はない。
ブルジョアも貧民も男も女も、個人的な行動とは直接的な因果関係がないところで国家が成立しており、国家対個人の関係において、個人ごとの特殊性は存在しない。
そういう見方に対して、国家を株式会社のように閉鎖的な団体と見る場合がある。
この場合、国家に対する貢献と国家に及ぼす影響力が比例的になる。
歴史的に見た場合、国家観は後者のものとして発し、前者のものになりつつある過程のように見える。
国家に対する貢献とはひとつは政治的、軍事的な貢献である。その貢献の法的な証明として、勲功貴族があり、勲功を根拠として特権を有する。
財政的な貢献もある。普通選挙以前、選挙権が主に財産で規定されていたのは「代表なきところに課税なし」の逆、「課税あるところに代表あり」の考えがあったからである。もちろん、税は、富裕階級のみが支払っていたわけではないが、税の多くは確かに富裕階級によって支えられていたのである。
フランスで男子普通選挙が成立するのは、女性参政権が実現するほぼ100年前のことだけれども、国家株式会社に対する貢献で権利を得るという考えがベースにあるならば、税の支払いの多寡で区別するのは、少なくとも合理的であるけれども、男女の別で分けた場合、そこにいかなる国家への貢献の違いの合理的な理由があるのだろうか。
もちろんそこには「一応」の合理的な理由がある。血の購い、つまり兵役である。
選挙権を女性に与えない理由として、兵役の有無がそこにあったのであり、兵役のない女性が参政権を得たということは、貢献あるものが権力を握るという国家株式会社観が否定されたと見なすことも出来る。
私はここで考えたいのは、なぜ女性に兵役が課せられなかったのか、ということだ。

インドヨーロッパ語族には、基本的な社会構造として「祈る人」「戦う人」「働く人」の構成員の三分割がある。
徴兵制度によって、国民皆兵化が進んだ時、徴兵の枠から外れる女性は国民の枠からも外れたのだった。
徴兵制度は文字通りの血税として、庶民に大きな負担を強いたけれども、これは同時に庶民に「働く」こと以外の世界を見せることにもつながった。
最も大きな税、血税を支払っていることからくる国家への貢献の主張、社会・軍事への関心のたかまりが「働く人」が「戦う人」の特権へ侵食することを可能にし、これが普通選挙という果実に結集していく。
そういう意味では徴兵制度はネガティヴな意味だけではなく、国民の創生、更に言えば国民の学校としての機能もあったわけで、女性が兵役の義務を負わなかったということは、同時にそうした利点も得られなかったということを意味する。
国民と見なされなかったから兵役の義務を負わなかったのか、あるいは兵役の義務を負わなかったから国民とみなされなかったのか。
一部の国にある男女平等の徴兵制度は、「男性差別是正」の観点から説明されがちだけれども、徴兵自体は義務だけれどもそれを根拠にして導き出される参政権などの特権があるとすれば、兵役を権利と見なすことも、概念的には可能ではないだろうか。
その場合、女性の兵役は、やはり女性解放のひとつの表れではあるのである。
男女、兵役の有無、国家への貢献から来る発言力という3点で相を分けて考えて見ると、男性に兵役がある国で男子普通選挙がある国は、国家への貢献と権利が比例している。男女に兵役がある国で、男女普通選挙がある国も同じく国家への貢献と権利が比例している。兵役がない国で男女普通選挙がある国では、国家への権利は貢献と結びつけられてはいない。
問題は男性のみに兵役がありながら、選挙権は男女とも有する国、つまり徴兵制度を敷いている大抵の国の場合である。
男性のみに義務を強いる、あるいは兵役を権利と考えるならば女性から権利を剥奪している根拠は何なのだろうか。体力差は理由にはならない。銃の引き金を引けば子供でも敵を殺傷できるのである。肉弾戦になる機会、しかもそれが勝敗を決する機会は近代戦ではまずないのだから、女性も前線で戦うことは充分に可能だし、事実、そうしている女性兵士も存在する。
母体保護ということであれば、保護されるべきは母体であって、女性ではない。人生の圧倒的長期の時間を非妊娠状態にある女性が、妊娠していない時期に兵役を免除される合理的な理由がない。
国家への貢献が国家に対する権利と無関係であるとするならば、男性のみに兵役があってなおかつ参政権は女性も有していたとしても、不都合はないように思わなくもないが、財産などと違い、男女の別は先天的なものであり、これは選択の結果ではない。
先天的なもの、つまり選択の結果でないもの、当人の自由意志を排除する形で現れるものに社会制度としての義務を付随させることはそもそも近代思想の大前提から外れている。これは封建思想である。
実際には、兵役を男性のみに負わせている国でどういう現象が起きるかということを考えると、兵役を経験しない女性の二級市民化が起こり得る。
兵役そのものが国家への貢献であるのは間違いないのだから、この貢献に欠けている女性が貢献において致命的に欠落していると見なされるのはある種の必然である。
出産は女性にしか出来ないが、これで兵役の義務を相殺させることは出来ない。男には出産は出来ないが、女は兵役を果たすことは可能なのだから。前者は生物上の規制だとすれば、後者は社会制度上の規制である。
市民とは抽象化された存在なのだから、生物上の規制はここでは問題にならないのである。
もし出産行為が市民であることと甚だしく両立しがたいのであれば、それは市民という設定自体が間違っているのだ。明らかに市民という場合、男性を想定していることが多いが、男性には可能な市民化が女性には難しいのであれば、市民という概念がそもそも男女平等の社会とはそぐわないことになる。
市民という概念が女性の女性性と両立できるように改変されるべきだとしたら、男性のみにしか果たせないような市民的義務はそれ自体が市民社会への反逆である。
兵役という義務があるのだとすれば、それは市民が果たさなければならない。その市民に女性が内包されないのだとすれば、その義務は存在してはならない。
兵役があるのであればそれは男女によって区別されてはならないし、性の違いによってそれに応じることが格段に困難なのであれば、兵役は廃止されるべきなのである。
オランプ・ド・グージュが「女性にギロチンにかけられる義務があるのならば、政治に参加する権利もあるのだ」と言った時、フランスには市民的義務としての徴兵制度はなかったけれども、それが市民的義務であれば、彼女はおそらく女性の兵役を主張しただろう。
男性のみの兵役は社会制度的に男女の別を固定しようとする制度である。市民は生物上の規定を越えて抽象化されなければならないのだから(男女平等にたつならば)これは不合理である。
これに比較すれば、財産別による参政権の制限の方がまだしも不合理ではない。そこには絶対の先天的な規制がないからである。
男性のみの兵役がある国はそれだけでもう、抽象化された市民社会としては不健全なのだ。



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