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20050115

Another Life

ネットライフとリアルライフ、対比させて切り分けて、例えばネットゲームに嵌っているような人を、リアルとネットの区別がつかないだとか、ネットよりもリアルが大事などということがある。
しかしこれはそんなにきっちり分けられるものだろうか。
私のことでいえば、職業人としての自分、家庭人としての自分、猫と戯れる自分、自由主義者としての自分、そして standpoint1989 としての自分、いずれも自分である。生活をしていく上で、いわゆるリアルライフは欠かせないし、このブログを書き、そこから多くの人たちと有意義なつながりを持てるのも、決して軽いものではない。
すべてを含めて自分の人生なのだ。
ネットゲームに嵌っている人にすれば、ネットをやっている自分が「本当の自分」であり、それ以外の付随は「やむを得ざる仮の姿」かも知れない。
Real と Another を分けて、人がリアルを生きることこそが正しいとするのはどうも違うような気がする。人にはいろんな顔がある。何をもってして自分の顔とするかは余人には計り知れないものがある。
今月号の文藝春秋にとあるルポライターの Amazon.co.jp 潜入記が掲載されているけれども、かつて鎌田慧が「自動車絶望工場」で潜入記を書いた時など、彼は労働者として働き賃金を貰うことが Another だったわけだ。
彼はそれをルポルタージュにしたから、それはフィールドワークだけども、仮に本にしなくても、他のところにアイデンティティを持ち、「これは生活のためにやっている」と割り切ったならばそれはフィールドワーク的なものかも知れない。
エリック・ホッファーを私たちは今、哲学者として知っているけれども、彼の身近な人たちは港湾労働者としての彼こそがリアルであるというかも知れない。
宮沢賢治を文学者とするのか、あるいは教師とするのか。人はどう見られるかと同時にどうであると自己認識するかがそのアイデンティティに据えられるのかも知れない。
実際にはそのすべてが、ひとつの人間を形成しているわけであって、私がここで言いたいのは、Real と Another を分けられないし、分けるべきでもないということだ。

R・ライト・キャンベルに「すわって待っていたスパイ」という小説がある。
第1次世界大戦中にスコットランドに潜伏したドイツのスパイが、スコットランド北端の町に酒場の親父として溶け込み、結婚して子供ももうけながら、北海方面の英国海軍の動きを待機スパイ(スリーパー)として監視する話である。
そのスパイは、25年が過ぎ、町の顔役となり、愛する家族ももうけながら、第2次大戦に入ると、ドイツのスパイとしてドイツに情報を送り、遭難死したと思わせながらドイツに帰国する。
彼にとって Real はドイツ国家への忠誠にあったのだろうか、それとも25年の歳月を費やして築き上げたスコットランド人としての日々にあったのだろうか。
その答えは彼自身にも分からない。やがて戦争が終わっても、彼は家族の元へは帰れない。そこは帰るべき場所ではない(かも知れない)からだ。

新興宗教が、社会的に不遇な人、故郷から切り離された人たちに受け入れられやすかったのは、リアルライフでは得られなかった価値ある人生をそれが提供してくれたからだ。
信者としての自分、信者の世話役としての自分、あるいは地区幹部としての自分こそがリアルの自分であって、職業人としての自分はかりそめである、そういうフィールドワークとしての人生をそこに作り上げることに成功したからである。
これを幻想と笑うのはたやすいが、それは幻想なのだろうか。
一書記官に過ぎなかったマキアヴェッリを偉大な政治思想家として捉え、貧窮なる農夫ロバート・バーンズをスコットランドの偉大なる国民的詩人として見ている私たちに、果たしてそれを幻想と言い切る資格があるだろうか。
人はパンのみによって生きるのではない。人は生きる使命によって生きるのである。
その使命をもたらすもの。
それは思索かも知れない。あるいはミューズかも知れない。あるいは政治的信念かも知れない。あるいは信仰かも知れない。

イスラームというこの生きた宗教を見る時、私が経済的合理性だけではこの宗教とそれがもたらす諸々の現象は計りきれないと思うのは、これが人びとに生物的な生以外の生であり、そしてその価値をもたらす Another Life = Real Life としての価値体系であるからだ。
今の日本にはこのような価値体系は希薄であるが、イスラームではそうではない。
彼らが経営者、労働者、教師、技術者などとして生きていると誤解してはならない。彼らはムスリムとして生きているのだ。世過ぎは仮の姿であって、本質ではない。
貧乏な最底辺の工場労働者が「私は神に選ばれた」と確信することを、Another であると笑うことが出来るだろうか。たかだか経済的な価値観でしか世界を図れないような私たちこそが笑われているのかも知れないのである。
世界は虚構によって成立している。ここでは虚構こそが現実なのである。



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