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20080423

天皇家男系の末裔

藤原氏のうち、主流である北家、その中で更に嫡流にあたる御堂関白(藤原道長)の子孫のうち、主要五家を摂家、または五摂家という。
近衛家、鷹司家、一条家、二条家、九条家がそれであり、豊臣秀吉と秀次が就任した二例を除いて、関白はこの五摂家から輩出されてきた。
公家の中で最高の家格を誇る家々だ。
五摂家のうち、近衛家、鷹司家、一条家に江戸時代に天皇の息子が養子として入っており、天皇家の男系子孫が今もなお、これらの家系を通して多数存在している。
天皇家の男系血筋が入って以後の摂家を皇別摂家という。
第二次世界大戦後に臣籍降下した旧皇族たちは、室町時代初期に天皇家から分離した家系だから、皇別摂家の方がはるかに嫡流に近い。
皇位の男系継承にこだわる人たちのうち、少なからぬ人たちが旧皇族の復帰を言うのはまったく解せぬ話である。旧皇族などは、傍系の傍系もいいところで、他に近縁の者がいないならばともかく、皇別摂家系の男子が存在する以上、彼らになど用は無いはずだ。
旧皇族が皇位継承において有利だったのは、皇族だったという一点に尽きる。それもひとたび臣籍降下してしまえば、その点の条件は皇別摂家と同じなので、ひたすら血の近さが優先されるのであれば、旧皇族がいまさらとやかく持ち出されるのもおかしな話である。
旧皇族の復帰を言う人たちは、単に、江戸時代に天皇家から他家に養子に入った男系子孫が存在するという事実を知らないだけなのではないか。

戦国時代の末期に近衛前久という人物がいる。近衛家の当主で、関白にもなった人だが、一時、各地を流浪していて、上杉謙信の元で軍師の真似事のようなこともしていた。
地方大名の力を借りて全国規模での秩序回復を図ろうとした人だが、謙信にそれだけの意思がないと見定めた後は信長に接近した。
信長が武田家を滅ぼした後の甲斐巡行にも同道しており、富士見物がてら家康の領地の駿河にも足を伸ばそうとしたところ、饗応のため家康の負担が重くなるのを察した信長から叱責されている。
本能寺の変後は秀吉に接近し、秀吉の関白就任を実現するため、秀吉を猶子にしている。つまり秀吉は近衛前久の子、藤原(近衛)秀吉として関白に就任した後、豊臣という新たな姓を朝廷から与えられている。
そういう、戦国末期から江戸初期にかけての、朝廷側の黒幕的な人物なのだが、この人の娘の前子は後陽成天皇に女御として入内し(中和門院)、後水尾天皇のほか、皇子ふたりを産んだ。
皇子のうちひとりは実家の近衛家を継ぎ、もうひとりは一条家を継いだ。
近衛家は、昭和初期に首相を務めた近衛文麿までが、天皇家の男系子孫になる。文麿の嫡男の文隆はシベリアに抑留され、帰国できぬまま凍土に永眠した。
文隆には弟の通隆がいたがどういうわけか近衛宗家は文麿の娘の息子、近衛忠輝が継承したため、現在の近衛家は女系が入ったため皇別摂家とは言えない。もっとも忠輝の実家の細川家も清和源氏の名門であり、皇裔ではある。
近衛忠輝の実兄が首相を務めた細川護煕である。
文隆には庶子の男子がおり、この人物も更に男子をもうけている。皇位継承者を今後増やすのであれば、有力候補のひとりだ。

後陽成系の子孫よりも、更に現在の天皇家に近縁な男系子孫が東山天皇の男系の孫、鷹司政熙を通しての子孫である。
鷹司家自体は現在は他家から養子を迎えたため、皇別ではないが、この家系から他家に養子が出ており、それらのうちの男系子孫は現在の天皇家に最も近い男系集団と言える。この中には最後の元老と呼ばれた西園寺公望が含まれており、西園寺は皇統に非常に近い位置にあった。西園寺公望自身は男系子孫を残していない。
徳大寺家、末広家、住友家(住友財閥当主家)、あるいはその系統の男系子孫が、東山系の男系皇裔として存在している。



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