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20080514

沿海都市、内陸都市

私がこれまで居住した幾つかの都市はすべて沿海都市だった。日本で都市に住もうと思えば、だいたい海沿いに住むことになるのだが、世界の大都市には内陸に所在するものもかなりある。
沿海部にあることの利点、欠点、内陸部にあることの利点、欠点はそれぞれある。
各国の首都を見れば、歴史の古い都市は内陸部にあることが多く、新興の都市は沿海部にあることが多い。
かつては内陸にあることの利点が、欠点を上回り、現在は状況は違っている、ということだ。
巨大なメガロポリスに生きる者としては、このようなメガロポリスが沿海部にないことの不都合は非常に甚だしく思える。
それは大都市・東京が問題の最終的解決として海に非常に多くを依存していることからも言える。
ゴミの埋め立て、排水を沿海部のメガロポリスは海に依存しているが、内陸都市は基本的には、そうした問題の解決方法として海には依存できないか、できるとしてもコストが非常に高くつく。
内陸の大都市パリであれば、下水施設を延々と沿海部まで延長しなければ最終的な排水は出来ない。そうでなければ川に流すだけであり、飲料水として河川の水を利用できる余地が小さくなる。
もうひとつ問題として思いつくのは輸送の問題である。
内陸の都市は、大量輸送手段として外洋船を利用できない。
実際には内陸都市であっても、河川を利用したり、運河を掘って、船舶での輸送路を海から内陸へと確保している場合が多いのだが、逆に言うとそうしたインフラを余分に整備しなければならず、また積み替えなどのコストが余計にかかることにもなる。
重慶のように、一大工業都市を内陸にこしらえることなど、環境と輸送を考えればほとんどきちがい沙汰なのだが、もちろんそうなるにはそうなっただけの理由が別途にある。
日本は島国だから、日本人は内陸にあることの不利をいまひとつ理解できていないかもしれない。
内陸に首都があっても、国そのものが内陸国でない場合、海への道は確保できている。そうした場合はだいたい、港のある都市がその国の重要な商工業都市になっていて、表玄関になっている。
19世紀にイタリアが統一する中で、トリエステだけはオーストリアの支配下に置かれて「未回復のイタリア」と呼ばれ、オーストリアとイタリアの外交関係を甚だしく悪化させることになった。
イタリアはドイツを通してオーストリアとも「同盟」関係にあったが、第一次大戦でこの同盟から離脱して連合国側についたのはオーストリアとのトリエステをめぐる係争が原因である。
それだけ、トリエステはイタリアにとっては国土統一の最終目標として重要だったわけだが、オーストリアにとってもトリエステは絶対に手放すことが出来ない重要な都市だった。
オーストリア(当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国)は広大な面積を誇る帝国だったが、そのほとんどは内陸部にあり、トリエステはオーストリアにとっては唯一の海への出口、距離はあるにしても帝国全土の唯一の外港だったからだ。
海への交通路がないということは、交通路を他国の領土に依存しなければならないということである。
日本は島国だから、日本領海を抜け公海を通り、相手国の領海に入り直接貿易することが、可能である。内陸国であれば、この輸送路が他国に押さえられているのだ。
これが経済的に過重な負担であり、安全保障上も危険であることは明らかだ。主要な大国にそもそも内陸国がほとんど無い原因のひとつでもある。
かつて多く見られた内陸の都市国家でも、勢力が伸張すれば、最重要で行われることは外港の確保だった。中世イタリアの海洋都市国家といえば、ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァ、アマルフィだが、ヴェネツィアを除いて他の都市は中世後期には内陸国家によって征服されている。港を持つ都市は狙われやすいのだ。
海岸を持つ国であっても内陸に首都があれば、程度は違うにせよこの種の経済的、安全保障上の問題は生じる。輸送コストが増える問題もあるが、海への道を確保しなければならないという問題が生じるのだ。
ロシア革命後、ソ連は首都をサンクトペテルブルクからモスクワに移転したが、サンクトペテルブルクの生存のためにはサンクトペテルブルクの防衛が必要だが、モスクワの生存のためには外港としてのサンクトペテルブルクとモスクワ自身の防衛が重要だった。スターリンによる、フィンランド戦争などはサンクトペテルブルク、ひいてはモスクワの軍事上の強化が目的として考えられる。
外港がなければ大国は生存できないのだ。
ではなぜ、内陸に首都を置くのかという問題が生じる。
現在では新たに首都を築くのであれば、内陸に首都を置く理由はほとんどない。しかし過去にはあった。それはやはり安全保障上の理由である。
海は交通の道にもなるが、海には同時に敵国の海軍も存在している。
日本が近海の制海権を失えば、敵国が日本の首都を攻略することはたやすい。実際、江戸湾にまでアメリカ艦隊が入り込んだことが、幕末の日本を開国させる決定的な要因となった。首都の内臓を晒しつつ、戦うことは出来ないのだ。
重慶のような工業都市が内陸部にあるのは毛沢東三線建設計画に由来している。
敵は海から来るとの認識の下、重要な軍事工業施設を毛沢東は四川のような内陸部に建設させた。先日の四川大地震で、核開発施設などの被災がささやかれているが、なぜ四川に核開発施設のような重要な軍事施設が重点的に敷設されているのかは、毛沢東の軍事思想によっている。
人は成功体験に拘泥するものだが、毛沢東にとってはそれは奥地への逃走の過程で強大化することに成功した長征体験だった。
経済上、環境上は明らかに不合理な内陸の工業化、内陸の都市化は、軍事的には必ずしもそうではないのだ。
ローマ帝国時代には交通の便が良い沿岸部に置かれていた修道院も、ヴァイキングの略奪が横行するようになって、奥地へ、奥地へと川を遡行して移転している。
それに従ってヴァイキングも河川を奥へ奥へと遡行するようになり、ついには河川とも切り離された要害の地に修道院は建てられるようになった。修道院が峻険の地にあることが多いのは、べつに修行のためではないのだ。
逆に、海外の文物を吸収するために海沿いに首都を移転したロシアのピョートル大帝は、首都を守るために積極的な外征を行わなければならなかった。大帝が北方の流星王を下して得たものは、首都の安全と、海沿いに首都があることによって得られる、ロシアの近代化だった。



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