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20041209

君主と神と共和国

サン・ジュストは今に残っている肖像画などを見る限り、美貌ではあるけれども、目の覚めるというほどでもないように感じる。シシィの肖像であれば何時間見ても見飽きないのとはちょっと違う。
もっとも、静止画で見るとそれほどでもないが、動きを加えると何倍もチャーミングになる人がいる。
例えば石原裕次郎などは、顔の造詣的には美貌とは言いかねるけれども(石原慎太郎に言わせると、“ぶす”ということになるようだ)、彼の匂い立つような魅力は日本人の多くが認めるところである。
ともあれ、サン・ジュストはその美貌(or魅力)と大革命にかける情熱と大きな貢献から、“革命の大天使”と言われる。フランス革命の人物たちはあだ名がつけられていることが多いけれども(例えばシエイエスが“革命のもぐら”と呼ばれているようなもの)、“革命の大天使”は特に破格の華麗さであろう。
今日、焦点を当てるのは、国王裁判の時に検察側のサン・ジュストが言った言葉である。
「ルイ(16世)は王なのだ。共和国においては王という存在そのものが犯罪なのだ。人は罪なくして王たり得ない。私としてはその中間は認められない。ルイは反逆者として死ぬか、さもなくば王として統治しなければならない」
これはルイ16世の個人的な犯罪行為(オーストリアと内通したこと、亡命しようとしたこと)ではなく、共和国における君主主権という概念そのものを攻撃したものとして、共和政体のありようを喝破している。
もっとも、サン・ジュストは「私としては中間は認められない」とは言っているが、これはサン・ジュストが敢えて極端な国民主権か君主主権かの両極に立っているからで、実際には英国で既に成立しつつあった議院内閣制のように中間はある。
ラ・ファイエットらが推進しようとした、ミラボーもあるいはそうであった君主と共和国の共存、つまり立憲君主制というシステムが革命側のまとまりのなさと王室側の非妥協的な、妨害的な行為のために破綻した結果、サン・ジュストの極端な二者択一は出てきたのだけれども、共和国の本質が君主制度とは相容れない、仮に共存できるとしてもそれは妥協的な、慣習法的な立場に拠るものであるということは言えるだろう。
共和国のベースとなる国民主権と、王権神授説的な君主主権の世界観の対立である。
英国などは歴史的に君主主権をベースとしながら、議会の事実上の権力拡大、政府化によって、君主主権に制限を加えた形での国民主権という形が出来ている。ベースは君主主権なのだろう。
日本の場合は日本国憲法で、天皇の地位は主権者である国民の総意に基づくと規定されている。これは国民主権がベースになっているので、君主制度に付随する法概念的な矛盾は日本においてより著しい。
弘法大師は官寺として高野山に真言宗の総本山を建立した時、天皇を国主と呼び、それに招請するという形をとっている。この時代の国が日本と言う国家内の地域的な概念からすれば空海の国主という言い方はやや特殊だけれども、日本と言う国家の私的な所有者というニュアンスがそこにはあるように感じる。
天皇家はアマテラス大神よりニニギノミコトを通して日本と言う地の主に封じられたという神話に国主という地位が由来するのであれば、これは王権神授説そのものと言ってもいいだろう。
権力の法的な根拠が外部的な権威にあるのだとしたら、国家内における最高の権威者である専制君主は、外部によってその権威を担保されなければならない。
ヨーロッパではその権威の担保者が法王であったり、皇帝であったり、あるいは神であるわけだが、この構造そのものは普遍的に見られるものである。
そしてこの構造が、権威者としての神を国家が必要とすることから、その代行者としての天皇の存在を歴代の権力者たちが必要とした、つまり天皇にとってかわることが出来なかった最大の理由であろう。
日本の場合は特にアマテラス大神によって血統原理によって天皇たる身分が担保されている。アマテラスを最高神とするこの国の形に、歴代の権力者が所属するならば、この神話にまた彼らも拘束されざるを得ないのである。
本来、価値の原点というものは君主制においては虚空の存在である神に由来するのだが、日本の場合はその神があらかじめ天皇家を唯一の正統、つまり国主であると規定しているために君主原理によって統治するのであれば、ほぼ絶対に天皇家を乗り越えることは出来ないのだ。
この構造から、私は統一的な君主制国家においては多神教はいずれにしても実質的には一神教化していくだろうと考えている。
エジプトの幾つかの王朝が多神教をベースにしながらもアテン神などに収斂していったように、あるいはヒンズー教がシヴァ神やヴィシュヌ神をひとつなるものとして考えていったように、そして日本においても最高神としてアマテラスが位置づけられているように、多神教と言われるものにおいても時代が下るにつれ、つまり国家化が完成していくにつれ一神教的な性格が強くなっていく。
なぜならば価値の源泉は必ずひとつは存在しなければならず、ひとつ以上存在してはならないからである。
ローマの多神教はどうかというとローマは君主制に基盤を置いた国家ではないのだ。
価値の源泉としての役割は神には期待されていない。だから複数、しかも並立的に存在していても、別に構わないのである。
こうした一神教的な価値観、価値の源泉からの親疎を理由とした権威の大小を乗り越えるためには、君主制度を乗り越えるしかない。
サン・ジュストの言葉に戻れば「ルイは反逆者として処刑されるか、王として統治しなければならない」のだ。
では共和国の価値の源泉は何かというとそれは国民ということになる。国民の価値の源泉は、と問うと、その先はない。
無批判の絶対的な価値の源泉として人権宣言の名において、国民は究極の存在として想定されている。
1789年、人は神となったのだった。



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20041116

マリー・オランプ・ド・グージュの言葉からの連想

マリー・オランプ・ド・グージュは、フェミニズム運動の魁を成した女性である。大抵のフェミニストがそうであるように、彼女も世間的に言えばきつい性格で、自作に絶対の自信を持つ小説家であり、しかも世間から受け入れられない小説家だった。
たまたまフランスが大革命に差し掛かったため、彼女の持つ使命感と毒舌はフル回転することになった。
彼女の扱われ方、処遇のされ方は最初の活動的フェミニストであった彼女にして、まさしくフェミニズムに対する扱われ方の典型が見られるのは、興味深い。
つまり敵意と無視、嘲笑である。
フランス人権宣言(Declaration des droits de l'homme et du citoyen)の示す「人」が homme,すなわち「男」であることからこれでは不充分だとして、彼女は「女権宣言」を発表した。
これは彼女の言いがかりであったというよりは、事実、この人権が男を対象としていたのであり、当時、最左翼のエベール派でさえ、女権の拡充などまったく想定外であった。
この人は、革命派、王党派のどちらにもいわばジョーカー扱いされた人で、王政vs共和政、特権身分vs民衆、有産階級vs無産階級という対立軸の他に、男 vs女という視点を持ち込もうとした彼女を、ほとんど例外なくあらゆる男が憎んだ。そしてそれ以上に女からも憎まれた。
しかし彼女はめげない性質であり、しかも論舌鋭く、彼女を嘲笑する人たちを次々と論破していった。しかしその後に来るのが、彼女への尊敬や屈服ではなく、憎悪と無視であったのも、時代的な限界だったと言わざるを得ない。
彼女が言っていることは、今日ではごくごく当たり前のことであるけれども、大革命の速度の速さと比較しても、オランプ・ド・グージュは早過ぎたのである。
しかし一歩がなければ二歩目はない。そういう意味では彼女は、第一歩の人だった。
ポンパドゥール夫人、ロラン夫人、スタール夫人のように、母、あるいは妻という立場から政見を出したり、実際に政治に関わった女性は少なからずいる。しかし、そうした遠隔操作なしで、女性が直接政治に関わろうとした時、拒否反応が現れるのは、それほど珍しいことではない。
妻は家庭にあってしっかり夫を遠隔操作、それが賢い女の生き方とする考え、こうした女性はえてしてオランプ・ド・グージュのような自らのキャリアでもって立とうとする女性に批判的であるが、そうした一歩引いて男を立てて実質を掌握するのをよしとするのが「正しい」女の生き方だとする考えは最近まで、あるいは現在もあるのではないだろうか。
ロラン夫人は実際にはジロンド派の頭目だったけれども、公式には私人でありつづけたので、ロベスピエールが彼女を処刑しようとした時、口実を見つけるのに苦労したとも言う。
一方、オランプ・ド・グージュには、さっさと反革命容疑をつきつけて処刑している。
少なくとも彼女は自分自身の言動によって処刑されたわけで、未だに嘲笑されることも多い人ではあるけれども、私は彼女を立派だと思う。自分の足で立った自由人として。
フランスが女性参政権を憲法の規定に盛り込んだのはドゴール臨時政権からのことであって1944年のことである。ほとんど日本と同じ時期であり、ヨーロッパの大国としては著しく遅かった。

さて、以上は前振りである。
今日この記事で焦点をあてたいのは、「女性にギロチンにかけられる義務があるならば、政治に参加する権利もあるのだ」というオランプ・ド・グージュの言葉である。
これは「代表なきところに課税なし」の考えに近いけれども、政治に参加する権利は果たして、刑法的な責任を引き受けることだけに由来するのか、ということを考える。
これは政治の舞台である国家をいかようなものと見なすかということにも関わる。
自然発生的な所与のものであると見なすならば、まったく人の手が加わっていない天体を所有しようとすることがどうも奇妙であるように、それは歴史的な所産であり、それに向き合う個人にまったく優劣はない。
ブルジョアも貧民も男も女も、個人的な行動とは直接的な因果関係がないところで国家が成立しており、国家対個人の関係において、個人ごとの特殊性は存在しない。
そういう見方に対して、国家を株式会社のように閉鎖的な団体と見る場合がある。
この場合、国家に対する貢献と国家に及ぼす影響力が比例的になる。
歴史的に見た場合、国家観は後者のものとして発し、前者のものになりつつある過程のように見える。
国家に対する貢献とはひとつは政治的、軍事的な貢献である。その貢献の法的な証明として、勲功貴族があり、勲功を根拠として特権を有する。
財政的な貢献もある。普通選挙以前、選挙権が主に財産で規定されていたのは「代表なきところに課税なし」の逆、「課税あるところに代表あり」の考えがあったからである。もちろん、税は、富裕階級のみが支払っていたわけではないが、税の多くは確かに富裕階級によって支えられていたのである。
フランスで男子普通選挙が成立するのは、女性参政権が実現するほぼ100年前のことだけれども、国家株式会社に対する貢献で権利を得るという考えがベースにあるならば、税の支払いの多寡で区別するのは、少なくとも合理的であるけれども、男女の別で分けた場合、そこにいかなる国家への貢献の違いの合理的な理由があるのだろうか。
もちろんそこには「一応」の合理的な理由がある。血の購い、つまり兵役である。
選挙権を女性に与えない理由として、兵役の有無がそこにあったのであり、兵役のない女性が参政権を得たということは、貢献あるものが権力を握るという国家株式会社観が否定されたと見なすことも出来る。
私はここで考えたいのは、なぜ女性に兵役が課せられなかったのか、ということだ。

インドヨーロッパ語族には、基本的な社会構造として「祈る人」「戦う人」「働く人」の構成員の三分割がある。
徴兵制度によって、国民皆兵化が進んだ時、徴兵の枠から外れる女性は国民の枠からも外れたのだった。
徴兵制度は文字通りの血税として、庶民に大きな負担を強いたけれども、これは同時に庶民に「働く」こと以外の世界を見せることにもつながった。
最も大きな税、血税を支払っていることからくる国家への貢献の主張、社会・軍事への関心のたかまりが「働く人」が「戦う人」の特権へ侵食することを可能にし、これが普通選挙という果実に結集していく。
そういう意味では徴兵制度はネガティヴな意味だけではなく、国民の創生、更に言えば国民の学校としての機能もあったわけで、女性が兵役の義務を負わなかったということは、同時にそうした利点も得られなかったということを意味する。
国民と見なされなかったから兵役の義務を負わなかったのか、あるいは兵役の義務を負わなかったから国民とみなされなかったのか。
一部の国にある男女平等の徴兵制度は、「男性差別是正」の観点から説明されがちだけれども、徴兵自体は義務だけれどもそれを根拠にして導き出される参政権などの特権があるとすれば、兵役を権利と見なすことも、概念的には可能ではないだろうか。
その場合、女性の兵役は、やはり女性解放のひとつの表れではあるのである。
男女、兵役の有無、国家への貢献から来る発言力という3点で相を分けて考えて見ると、男性に兵役がある国で男子普通選挙がある国は、国家への貢献と権利が比例している。男女に兵役がある国で、男女普通選挙がある国も同じく国家への貢献と権利が比例している。兵役がない国で男女普通選挙がある国では、国家への権利は貢献と結びつけられてはいない。
問題は男性のみに兵役がありながら、選挙権は男女とも有する国、つまり徴兵制度を敷いている大抵の国の場合である。
男性のみに義務を強いる、あるいは兵役を権利と考えるならば女性から権利を剥奪している根拠は何なのだろうか。体力差は理由にはならない。銃の引き金を引けば子供でも敵を殺傷できるのである。肉弾戦になる機会、しかもそれが勝敗を決する機会は近代戦ではまずないのだから、女性も前線で戦うことは充分に可能だし、事実、そうしている女性兵士も存在する。
母体保護ということであれば、保護されるべきは母体であって、女性ではない。人生の圧倒的長期の時間を非妊娠状態にある女性が、妊娠していない時期に兵役を免除される合理的な理由がない。
国家への貢献が国家に対する権利と無関係であるとするならば、男性のみに兵役があってなおかつ参政権は女性も有していたとしても、不都合はないように思わなくもないが、財産などと違い、男女の別は先天的なものであり、これは選択の結果ではない。
先天的なもの、つまり選択の結果でないもの、当人の自由意志を排除する形で現れるものに社会制度としての義務を付随させることはそもそも近代思想の大前提から外れている。これは封建思想である。
実際には、兵役を男性のみに負わせている国でどういう現象が起きるかということを考えると、兵役を経験しない女性の二級市民化が起こり得る。
兵役そのものが国家への貢献であるのは間違いないのだから、この貢献に欠けている女性が貢献において致命的に欠落していると見なされるのはある種の必然である。
出産は女性にしか出来ないが、これで兵役の義務を相殺させることは出来ない。男には出産は出来ないが、女は兵役を果たすことは可能なのだから。前者は生物上の規制だとすれば、後者は社会制度上の規制である。
市民とは抽象化された存在なのだから、生物上の規制はここでは問題にならないのである。
もし出産行為が市民であることと甚だしく両立しがたいのであれば、それは市民という設定自体が間違っているのだ。明らかに市民という場合、男性を想定していることが多いが、男性には可能な市民化が女性には難しいのであれば、市民という概念がそもそも男女平等の社会とはそぐわないことになる。
市民という概念が女性の女性性と両立できるように改変されるべきだとしたら、男性のみにしか果たせないような市民的義務はそれ自体が市民社会への反逆である。
兵役という義務があるのだとすれば、それは市民が果たさなければならない。その市民に女性が内包されないのだとすれば、その義務は存在してはならない。
兵役があるのであればそれは男女によって区別されてはならないし、性の違いによってそれに応じることが格段に困難なのであれば、兵役は廃止されるべきなのである。
オランプ・ド・グージュが「女性にギロチンにかけられる義務があるのならば、政治に参加する権利もあるのだ」と言った時、フランスには市民的義務としての徴兵制度はなかったけれども、それが市民的義務であれば、彼女はおそらく女性の兵役を主張しただろう。
男性のみの兵役は社会制度的に男女の別を固定しようとする制度である。市民は生物上の規定を越えて抽象化されなければならないのだから(男女平等にたつならば)これは不合理である。
これに比較すれば、財産別による参政権の制限の方がまだしも不合理ではない。そこには絶対の先天的な規制がないからである。
男性のみの兵役がある国はそれだけでもう、抽象化された市民社会としては不健全なのだ。



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20041113

男が戦うこと、女が戦わないこと

「赤毛のアン」は続編が9作あって、あわせて全10作でアン・ブックスを成している。
本当のところ、男でありながら「赤毛のアン」の話をするのは気恥ずかしいなんてもんじゃないのだけれど(特にこの作品の日本における受容のされ方を見ると)、好きなのはしょうがないよね。
以前、ロバート・ブラウニングの詩を引用したところ、「あなた、赤毛のアンをお好きですね」というメールをいただいた。その通りである。
言い訳を言えば、中学生の時、私はとにかくひたすら長い小説が読みたくて、長ければ長いほどいい、本を選ぶのに目方で選んでいた時期があった。
「赤毛のアン」そのものは、1冊だけれども、アン・ブックス全体では10冊もある。
「赤毛のアン」はマシュウが死んだ後、アンとギルバートが仲直りするところで終わるけれども、アン・ブックスはその後も延々と続いて、二人の婚約、結婚、子供を持ち家族が増えていく様子を描いている。
時系列的に最後の作品になる「アンの娘リラ」の頃には(それにしても説明的な邦題だな)、アンとギルバートの6人の子供たち(最初の子は死産だったので、アンは7人の子を産んだのだ)も育ちあがって、末娘のリラ(マリラ)も15歳くらい。
この最後の作品がアン・ブックスとしては極めて異色なのが、第1次世界大戦を背景としている点だ。
効果的な伏線がいくつも織り込まれ、作家としてモンゴメリの円熟を感じさせる傑作であるが、戦争を背景にしていることから、否応なくこの作品は戦争に対してカナダの一般市民がいかに向き合ったかが描かれ、カナダにおける銃後を描いているという点では、類書も余りないので、とても興味深いものになっている。
そうしたテーマの重さを除外しても、構成の巧みさ、人物造詣の鮮やかさなど、この作品は「赤毛のアン」よりも私は評価しているのだけれど、なんといってもアン・ブックスの最終巻なので、アン・ブックスを読もうと言う人でもなかなかこの作品までたどり着かないのが残念だ。
時系列的には前の話になる「アンをめぐる人びと」「虹の谷のアン」の方が実際には「アンの娘リラ」よりも後で書かれたのだけれど、時系列的には最後の作品ではある「アンの娘リラ」が少女小説には似つかわしくないやや黙示録めいた陰鬱さで覆われているのは、モンゴメリが戦争に大きな衝撃を受けたからであろうか。

アンの3人の息子、ジェム、ウォルター、シャーリーは第1次世界大戦が始まると軍隊に入隊し、欧州の戦地に赴く。
ジェムとシャーリーは割りと典型的な志願兵なのだけど、複雑さを見せるのが次男のウォルターだ。
ウォルターは文学を愛する心優しい(そして優秀な)青年で、戦争が勃発すると、戦争自体に嫌悪を覚えつつ、軍に志願する「勇気」のない自分にも嫌悪を感じている。
キッチナー卿のもたらすプロバガンダに興奮する登場人物の中で、彼だけが、歴史を越えた眼差しを持っている。
ウォルターが結局、戦争に赴くことを決意するきっかけになったのは、どこぞの女から送られてきた鶏の羽である。
鶏=チキン=臆病者、であり、つまり他の男たちが戦っているのに志願しないおまえは卑怯者だと言うメッセージである。
それに動かされたわけではないだろうけれども、彼は家族の名誉のために志願し、そして戦死するのである。
男は戦う。戦場で戦う。それ自体がからめとられた幻想ゆえかも知れないけれども、抑圧装置でもある市民という義務を果たすために、男は銃を取らざるを得ないのである。あるいは取らざるを得なかった、のである。
女たちも戦っている、と言うかも知れない。もちろん、国家総力戦においては程度としてはそうである。しかしそれは男たちが戦うのとは全然意味が違う。
銃弾が行き交う戦場で、塹壕に入って足が腐れて行くことや毒ガスをあおることは、後方で「銃後の守り」を固めることとは全然違う。
少ない配給で腹をすかせるのと、飢餓の極限から戦友の遺体を食うのとでは全然違うのだ。
戦うことにもし意味があるのだとすれば、戦争において女たちが男たちと同じように戦ったというのは明らかに嘘である。
もちろんレジスタンスなどで銃を取った女はいるだろうが、それは男たちがごく例外的な存在を除けば、男であるがゆえに戦うことを法的にあるいは慣習的に義務として課せられたのとは全然訳が違う。個人の選択はそこにはなかった、あるいはほとんどなかったのである。

第2次世界大戦後、あの戦争をスターリンは大祖国戦争と呼んだが、余りに多くの男が失われたので、女たちが男の職場に入り込むことになった。社会主義国ソ連で少なくとも女性の社会進出はかなり進んでいたのは、そもそもはそういう理由もある。
また、当たり前のことながら結婚できない女性が増えたが、ソ連政府はこれに対して、なんと言うか下品な表現だけど的確なものをとれば「種付け」をするよう奨励した。
夫は得られなくても、せめて子供は与えようという「配慮」からである。
生き残った者にも、苦難はあった。しかしそれを苦難と感じられるのも生きていればこそである。
死んだ者にはなにもない。
生きると死ぬは大違いである。決して等価ではない。
戦争では女性に比して男性がはるかに多く死ぬ。これを男性差別だと言うつもりはない。そういう仕組を作っているのは得てして男性自身でもあるからだ。
私が言いたいのは生きると死ぬとでは大違いであるということ、そして戦争がより多く、そして強く、女性よりも男性に対して死を強いたということである。
戦争で男が負った苦難と女が負った苦難は、絶対に等しくはない。

あるフェミニストは「人形の家」を呼んで慟哭したという。
フェミニストに対立する概念としてメイリストなるものがもしあるとしても私はそれではないが、男である私が、鶏の羽を送られたウォルターの場面を読んだ時、いかほどの怒りを覚えたか、彼女には理解できるだろうか。
もちろん国家指導者はおうおうにして男である。
男と言う枠組で言えば自業自得である。
しかし徴兵された男に何の選択があっただろうか。彼が体制の陥穽を引き受けなければならないとするならば、彼に「勝って帰れ」「○○のために死んで来い」「盾に乗って帰れ」と送り出した女、あるいは素直に送り出されようとしなかった男に鶏の羽を送る女が、どうしてその陥穽から免責されるであろうか。
しかも送り出された男は死に、送り出した女たちは生き残ったのである。
ヴェトナム戦争で戦った男たちにその戦功は嘘であるといい、戦わなかった男たちに卑怯であるという女たちがいる。
私は聞く。
「君は戦ったのか?」
そんなことが質問されること自体、そうした女は心外であるかもしれない。よき母であり、よき妻である私に戦えなんて!
臆病者の、卑怯者なのだろう、この男は、とおそらく私は女から相手にされなくなるだろう。そして女に相手にして欲しい男、つまりほとんどの若者は、戦争が起きれば「I want you」と指を指す国家の命じるがままに戦場に赴き、そして盾に乗って帰ってくるのだ。
この醜悪さに敏感である女は、ほとんどがフェミニストだろう。
だからある種のフェミニストたちは女も戦えることを証明しようとした。それは醜悪さへの嫌悪からだと思う。
イラク戦争ではかなりの数の女性兵士が、前線に立った。
しかしそれは男たちが守るべきもの、つまり戦う理由そのものの消失にもつながる。女が自分で戦うならば、どうしてそれを守る必要があるのか。
今、それが浮かび上がらないのは、GIジェーンが少ないからである。
私は女を殴ったことがない。殴っても当然というようなことを言われたことはある。相手が男だったら殴っていただろう。それを押しとどめたのは、男は女に手を上げてはいけないという刷り込まれた教えである。
もし、戦場で私に銃を向ける女であれば、おそらくその縛りは効果をなくすだろう。
醜悪さを乗り越えるためにジェンダーフリーがあるのであれば、そこからも更に乗り越えなければいけないものがある。



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20041025

その国の見方

何かの記事で以前、ハンナラ党のスポークスウーマンとして田麗玉という名を見かけて、「悲しい日本人」の著者が、今は政治家であることを知った。
旅行者は、外国の風習の違いに驚く。情報がこれだけ行き交い、関係が密接になっても、驚きそのものはあるはずだ。欧米でさえ、そうした「驚愕」はあるはずだし、中東やアフリカであればなおさらだ。
外国に滞在する長さで言えば、中期滞在者の眼差しが、その国に対してもっとも辛辣になりやすい。出会うものすべて、起きることすべてがアブノーマルで、なんでだろう、なんでだろうと考えて、大抵はネガティヴな結論にたどり着く。
これが更に歳月を重ねると、諦観が出てくると言うか、適応が進んで、表現形として現れる文化の裏にある意味や理由が感覚的に理解出来るようになり、良し悪しも相対的に見えてくる。その国について悪口を言われるとその国の人以上に憤慨したりして、こうなると、帰国しても母国に違和感を感じるようになる。
人に話したり、人から聞く上で、気をつけなければならないのは、中期滞在者ほど外国に対する見方が辛辣になりやすいということだ。
なるほど分析としては理路整然としているが、複雑な要因が幾重にも絡みあう人間の行動を、単因論的に説明しがちなその分かりやすさほど、事情に通じている人からすれば胡散臭いものはないし、一面の真理を表していても一面にしか過ぎないことが多い。
例を上げれば、満員電車に耐える都市住民の忍耐心を、禅や武士道から語り起こしたりする外国人による分析のようなものだ。
大抵の事柄には二面性があり、明と暗、そのどちらを見ても「間違ってはいない」のだ。間違っていないからと言ってどちらかしか見ないのはやはりきちんと対象を捉えているとは言えない。これは対象の問題と言うよりは、受け手の問題なのだ。
高校生の時、家庭崩壊した友人がいて、なんだかろくろくものも食べていないという男がいた。
私のうちによく来て、いつまでたっても帰らないので夕飯時になればそれは飯ぐらいは出す。
ある時、つい「飯ぐらいならいつでも食いに来いよ」と言ってしまって、バカにしていると激怒されたことがあった。その飯は私が稼いだものではなく、私の親が稼いだものであって、彼と私の違いは単に、その親がしっかりしていたか否かということに由来しており、私の生活が安定していたのは私の手柄ではない、親の手柄である。
彼に言わせればそういうことになるだろうが、私としても善意から言ったことであり、そのように悪意を持って受け取られるのは心外だった。
私は傲慢であったのか、それとも善意の人であったのか。今から思えば、温情をかけることほど難しいことはないと分かるけれども、私だって人生経験のない高校生だったのだ。
ネガティヴに捉えれば私は傲慢だったということになるだろう。間違いではない。
私の行為をポジティヴに捉えれば、怒るほうがおかしいということになるだろう。間違いではない。
人と人の関係がそうであるように、国と国との関係、国民と国民の関係もそれがどうであるかというよりも、どう捉えるかということによって見方が左右される。
権威と亡命政府で提示した例で言うと、なしたことで言えば、レオポルト3世とウィルヘルミナ女王はちょうど正反対のことをしたのであるが、国民から疎まれたのはどちらも同じだった。
ひとつの行為には必ずメリットとデメリットがあり、デメリットしか見なければこういうことになる。
第1次大戦時、英国を率いた首相ロイド・ジョージは第2次大戦に至る過程においては親独的であり、その意味では盟友チャーチルとは袂をわかっていた。
しかしチャーチルとまさしく異なる立場に立つことによって、もし将来的に英国がナチスと講和を結ぶ状況に追い込まれた時、チャーチルに代わり得る存在として、その異質性を温存されたのだという話もある。
ここから敷衍して考えれば、フランスにおいてペタンがとった行動が、絶対的に非難されるべきものではないことが導き出されると思う。
何を見るのか。どちらを見るのか。それによって評価は180度も変わってくる。

最初に言及した田麗玉氏に話を戻せば、彼女が書いた「悲しい日本人」は徹底的にネガティヴな視点で描かれているけれども、間違いではない。しかしその評価がまさしくネガティヴに偏っていることから、真実でもない。
私は日本人なので、我が身を直す鏡として、そうしたネガティヴな見方はむしろ参考になるけれども、この本がそもそも韓国人向けに書かれていることを考えれば、韓国人の独善意識をくすぐるだけという効果を思えば、これは日本人にとっては有益な本だけれども、韓国人にとってはむしろ有害な本だろう。
ハンナラ党は、韓国政界にあって「現実的な諸政策」を売りにしているけれども、そのハンナラ党の有力者がこうした偏った物の見方をする人物であるということは、韓国にとっては不幸なことだろう。
徹底的にネガティヴにある国を描くことと比較すれば、まだしも弊害は少ないけれども、何がどうであれポジティヴに描くと言うのも実は同質の弊害を抱えている。
おおむかし読んだ本多勝一氏の文章で、イタリアの鉄道がちっとも運行予定表どおりに運営されていないことについて、イタリア人の余裕であると褒めていたのを記憶している。
これは私が小学生の時の国語の教科書に掲載されていたものだから本当におおむかしの話だ。
私は小学3年生か4年生くらいだったけれども、それだけで判断するのも本多氏には気の毒だけど、その時はその文章を読んで心底呆れた。
私はこの文章を読み、本多勝一氏とはあわないことを悟り、以後、彼の文章を敬いもせず遠ざけているが、余裕のある暮らしをしている国でも鉄道がきちんと運営されている国もたくさんある。
鉄道が時刻どおりに運営されていないことでイタリア人がどれだけ不便を強いられているか、どれだけの損失が発生しているか(それは当然人的損失もあるだろう)という視点がすっぽりと欠落している。
イタリアという対象をあるがままに見るのではなく、自分の中にある結論(余裕礼賛)に無理やりそれをあてはめる。
田氏や本多氏の外国理解は一言で言えば、幼い。



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20041015

晴れた日のリベラル、雨の日の保守

晴れた日のリベラル、雨の日の保守、という言葉がある。諸条件が恵まれている時には、リベラル的な政策を採って国民福祉の向上を目指し、状況が困難であれば、大胆な冒険主義的な政策を採らずに保守に政権を委ねて乗り切ると言うような意味の、英国議会政治に伴う諺のようなものである。
歴史の例を見ていく上で遡り過ぎるのが私の悪い癖だが、英国史をつらつらと眺めてみると、確かにこの傾向は当てはまる。
ハノーヴァー朝の初代、ジョージ1世が英国王に迎えられた時、後に保守党へと連なっていくトーリー党の有力者の中に、旧王家スチュアート家の支持者が多かったこともあって、ジョージ1世はホイッグ党(後の自由党)系のウォルポールを重用して、事実上ここに責任内閣制が始まることになった。
18世紀の英国はこのホイッグ党の治下にあって、大きな戦争に巻き込まれることもなく、順調に発展していき、大英帝国の礎を築いていくのだが、18世紀後半から大きな国難に見舞われ続けることになる。
大陸のバランサーとしてはある程度はやむを得なかったとしても、度重なる同盟者を裏切る行為が「不実なるアルビオン」との評を生むことになり、英国包囲網をもたらした(アルビオンはイングランドの別名)。
アメリカの独立革命では英国は不面目な敗北を喫し、大英帝国の栄光はこの時一度地に落ちたとも言える。
啓蒙専制君主として著名な神聖ローマ帝国皇帝にしてオーストリア大公のヨーゼフ2世は、この時期の英国を評して「スウェーデンやデンマーク並の二流国家に転落した」と述べている。
特にフランス革命と、その後に生じたナポレオンの脅威に晒される中で、愛国主義を旗頭に掲げたウィリアム・ピットが保守的な立場から政権を担当することによって、英国としてはアルマダ以来の未曾有の国難を乗り切れたという面もある。
第2次大戦後に話を移せば、労働党のアトリー内閣以後、おおよそ23年間、労働党が政権を握っていたことになる。これが58年7ヶ月のうちだから、逆に言えば35年程度は保守党政権下にあったわけだ。
もし、雨の日の保守というのを杓子定規に適用すると、英国は戦後35年程度は「雨」だったということになるけれど、実際にはもっと長い期間、「豪雨・雷雨」に晒されたのではないだろうか。
第2次大戦の国難ほどのような危機はなかったけれども、英国の衰退は誰の目にも明らかだったのだから。
晴れた日のリベラル、という諺をこれまた杓子定規に適用すれば、1997年5月、ブレア率いる労働党が総選挙に勝利して以来、英国は晴れの中にいることになるが、この時期の英国の経済状況を見ると、せいぜいが堅調というもので、失業率は英国としては低い水準だけれども経済成長率はほとんど足踏み状態である。
悪くはないというところであって、快晴とは言えないのではないだろうか。
「晴れた日のリベラル、雨の日の保守」と言う言葉は歴史的に見て傾向的には言えるけれども、それをそのまま今現在の状況に当てはめられるか少々疑問を覚える。
この言葉を保守の人たちがつぶやきがちだというのも、利用のされ方として党派的な匂いを感じる。
ひとつには、保守とリベラルという区分が、時代ごとに意味合いがかなり違っていることがあるからである。
フランクリン・ルーズヴェルトは保守か革新かと聞かれて「民主主義の諸制度を守ると言う点では保守であり、よりよい社会を築いていくという点では革新である」というような返答をしているが、何が保守であって何がリベラルなのかは時代的にずれていくものだ。
ウィンストン・チャーチルはキャリアを保守党の議員としてスタートさせているが、これは彼が大貴族の一族であることと、父親のランドルフ・チャーチルがかつて保守党の有力政治家であったこと(蔵相を務めている)が理由だろう。
しかし貿易問題をめぐる議論の中で、自由貿易維持を主張したチャーチルは保護主義に傾きがちな保守党とは袂をわかち、自由党に移籍している。
自由党ではロイド・ジョージの郎党めいた存在になり、ロイド・ジョージの地位が上がるにつれ、チャーチルも自由党で重みを増していった。結果的に土地貴族を徹底的に打ちのめし、崩壊せしめることになったロイド・ジョージ蔵相の「人民予算」でも、チャーチルは推進派として行動し、そのため、貴族階級からは裏切り者視されることになった。
ウェールズの貧乏人のせがれ、ロイド・ジョージがそれを提唱するのはまだしも、モールバラ公爵家の一族として、仮にもブレニム宮殿で生まれたウィンストン・チャーチルがそれを推進しようとするなど、気が触れたと思われるようなことだった。
英国議会で「議場を横切ること」、つまり所属政党を変えることは忌むべきこととされるが、チャーチルは2度も横切っている。最初の海軍大臣を務めたときは自由党の政治家だったが、二度目の海軍大臣、首相を務めた時は保守党に復帰していた。
これには労働党の躍進の煽りを受けて国民政党としての自由党が崩壊するという事情があったからなのだが、チャーチルの経歴、彼が行った政治的な業績(あるいは悪業)を考えれば、彼を典型的な保守政治家と見なすのはやはり誤りだと思う。
マーガレット・サッチャーを典型的な保守政治家とは見なせないのと同様である。ある意味、彼女ほど「リベラル」な政治家も珍しいのであって、サッチャリズム以後、保守党は旧自由党的な思想に乗っ取られた感もある。
何をして保守、何をしてリベラルとするか、簡単には言えない。
もともと保守、リベラルという区分事態が曖昧なので、「晴れた日のリベラル」云々も曖昧なものだと、考えておいたほうがいいかも知れない。



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20041014

君主ド・ゴール

フォーサイスの「ジャッカルの日」を読んだのは中学1年生の時で、面白かったのは面白かったのだが、ド・ゴールの名前を知ったのもその本が初めてという状態で、フランス現代史への知識がまったく欠如していたので、よく分からなかった部分も多かった。
その後、フランスによるアルジェリア支配について多少なりとも知識を増やしていく中で、背景が分かってきたが、それにしても第2次世界大戦後のフランスによるアルジェリア支配ほど、無茶苦茶な統治も珍しいと思う。
フランス人の傲慢さ、冷淡さ、徹底した自制心の弱さ、統制の欠如、そうしたものは何もフランスに限った話ではないが、敢えてフランスに厳しい言い方をすれば、フランス人の悪い面がすべて晒されたのが戦後の対アルジェリア政策ではなかったかと思う。
フランスはヴェトナムでも歴史の流れを見据えずに愚かな振る舞いをしたと思うが(ヴェトミンに対して原爆を使用するよう、アメリカに依頼もしているようだ)、ヴェトナムはまだ遠い。
フランスにとってヴェトナムが大国としての権威、利権の問題だとすれば、アルジェリアは血肉の問題だった。
100年に及ぶ入植の結果、100万人に及ぶフランス人がそこで生まれ生活をしていたし、現地人との混血も殆どなかった。
コロンと呼ばれるこうしたフランス人入植者は、アルジェリアをフランスが手放すことは断固として反対だったし、それどころかカトルー総督などの、アルジェリア人との融和を促すいかなる改革にも断固として反対していた。
フランス第3共和政はほとんどの内閣がもって1年という政府の不安定さで知られていたが、第2次世界大戦後に成立した第4共和政でもそれは同じことで、こうした難しい問題を決断し、犠牲を強いるという機能が中央政府には欠けていた。
統制の取れない中央政府、アルジェリア独立運動、絶対に譲らない覚悟のコロンたち、軍部の暴走、北アフリカに根強いヴィシー派の影響・・・。左右の対立もあったし、左右の対立だけでは割り切れない錯綜した状況もあった。
そうした中、唯一状況を救い得る存在として、むしろアルジェリア独立反対派の支持を受ける形でド・ゴールが担ぎ出されたのである。
しかしド・ゴールはかつてアルジェリア問題について特にコメントしたことがなかった。ド・ゴール擁立にかける独立反対派への淡い期待は、ド・ゴールの冷徹な眼差しを曇らせることはなかった。
態度を曖昧にしたままで、ド・ゴールは大統領に大きな権限を集中させる憲法改正を提案、これが成立してフランス第5共和国が成立し、自らはその非常大権と共にフランス共和国大統領として政治の表舞台に返り咲いた。
コロンの生活はどうなるのかという無視できない問題はあったのだが、既にフランスが国際社会から受けている非難や、フランスが既に費やし今後も肥大化するだろうと思われるコスト、人的損失を思えば、アルジェリア独立は避けられない選択だった。
「それは避けられないが、彼らはそれを理解できるほど賢くはないのだよ」
と、アルジェリア独立反対派についてド・ゴールはそう評している。
ステーテルを使って独立反対派に接触し彼らに期待を持たせておきながら、あっさりとステーテルと共に切り捨て、紆余曲折がありながらも FLN を主体としたアルジェリア独立への方向へとフランスを導いていく。

結局のところ、ド・ゴールがフランス人の大部分から支持されたのは、フランス本国の人たちにとって重要なのはフランスであって、「フランスのアルジェリア」ではなかったからである。
しかし1958年から数年間、アルジェリアの問題については政府は断固たる姿勢を示せなかったし、これを事実上の内戦状態にあったと見なす人もいる。ド・ゴールが第5共和国を基盤として築き、その権力のもとに断固とした姿勢を下した時、将軍たちの反乱は実際にあったし、その反乱を鎮圧した後も、OAS のような過激派はしばらく跋扈することになった。
ド・ゴールをもってしてもフランスの完全な一致はなし得なかったのだが、ともかくもアルジェリア問題をソフトな形で着陸させることには成功したわけで、それが政治的な技術だけでは不可能だったことは、ド・ゴール以前の政府の混迷が示していると思う。
大統領となった後でも、ド・ゴールはここぞというところではよく軍服を着用したが、当人に言わせるとこれは「私がフランス大統領であるばかりではなく、ド・ゴール将軍であることを示すためだ」ということらしい。
彼にしてみれば、ド・ゴール将軍であることがフランス大統領であることと等価か、もしくはそれを上回る権威であるということなのだろう。
実際、ある意味、君主的な権威がド・ゴールにあったか、あったとすればそれがいかに大きな作用をもたらしたかということを考えるためには、もしド・ゴールがいなければ、ということを考えてみるのが適当なように思う。
サラン将軍あたりが試みたようなアルジェリアからのフランスへの革命的反攻はかなりの確率で成功していたのではないだろうか。
ド・ゴールが口に出すまでは政府の誰もがアルジェリアの完全独立を言い出せなかったように「フランスのアルジェリア」という前提は当時のフランスにとって動かしがたいイデオロギーだったのである。
非妥協的な問題で国家が分裂し、深刻なる対立に陥った時に、それを乗り越えていく調停者としての権威が、ド・ゴールにあって、制度的にそうした役割を期待されていたフランス第4共和国のコティ大統領になかったとすれば、そうした権威が単なる制度的なものから生じるものだけでは不十分なのだと見なすことは可能だろう。
それは歴史的なものから生じるいわく言いがたい「名望」なるもの、それに由来するとすれば、政治というものを法的な問題、あるいは経済的な問題としてのみ捉えるのはあやまりだと言えるのではないだろうか。
ド・ゴールは確かに尊大であったし、フランスの国益という点ではエゴイスティックだった。
しかしそれが「ド・ゴール将軍」の名望のなす基礎的な部分であるとすればそうであることには充分に意味があった。
ド・ゴールがあの困難を乗り越えられたのは、確かに第5共和国の基盤があればこそだったが、その基盤はド・ゴール将軍という権威なくしては成立しないものだった。
そうした歴史から生じた権威というものに、政治を見る眼差しはもっと敏感であるべきなのかも知れない。



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20041011

権威と亡命政府

「必要なのは名前なんだ!誰でも知っていると言うような名前が!」
フランス臨時政府の核となる人物をロンドンに亡命させるべく、スピアーズを使いとしてフランスに送っていたところ、スピアーズが連れてきたのが無名のド・ゴールだったので、チャーチルはそう怒鳴ったという。
チャーチルの自著、「第2次大戦回顧録」ではそんなことは一切触れていないけれども。
レイモン・カルチェの「実録第二次世界大戦」に書いてあった話だったと記憶しているが、当初、チャーチルがフランス亡命政府の首班として想定していたのがポール・レイノーだと言う。
レイノーは首相としてフランスを率いていたが、パリ陥落を受けて内閣は崩壊、レイノーは徹底抗戦に傾いていたが、講和派のペタンが組閣し、フランスの降伏が迫っていた。
徹底交戦派のド・ゴールはペタンの手配した私服警官らに監視され、英国へ帰るスピアーズを空港に見送りに行き、スピアーズを乗せたセスナが動き始めるや否や、身を翻してそれに飛び乗ったのだという。
カルチェは、「この小さなセスナにフランスの未来がかかっていた」と実に劇的な記述をしているが、後から見れば確かにそれはそうなのだけれども、その時点でド・ゴールをフランスと見なすのはどう考えても無理がある。
ド・ゴールはこの時点では一介の准将に過ぎず、軍や政府関係者の間では知られていただろうが、国民一般的な知名度があるとは言えなかった。
ド・ゴールは最初からド・ゴールだったのではなく、彼自身の使命感と周囲の思惑が戦争を通して作り上げていった人物である。
「ド・ゴール将軍であることも楽じゃない」
と後に、ド・ゴールは漏らしたと言うが、「ド・ゴール将軍」というキャラクターの演劇性が見て取れる。この演劇性が権威につながった。戦後も敢えて中央政界から遠ざかることによってこの権威を温存することによって、アルジェリア危機というフランスを分裂させる内紛において、国家を統合できる唯一の人物としてその権威を徹底的に利用すべく、再び歴史の舞台へと乗り出していくことになる。

国家存亡の時、政府の正統性が揺れ、実態があやふやになる時、国民をまとめていく上で必要とされるのは権威である。
亡き高円宮殿下は、インタヴューに答えて、皇室が果たすかも知れない役割として、この点を指摘している。
しかし、例えば侵略によって国家が失われたとき、権威あるものが国にとどまり国民と苦楽を、特に苦を共にするべきか、あるいは国を離れて抵抗政府(亡命政府)の中核となるべきなのかは難しい選択である。
どちらを選んでも、国と国民を思う選択であるには違いないが、ペタンとド・ゴールが道を違え、あれだけ懇意の仲であり、互いに認め合っていながらも敵同士とならざるを得なかったように、このふたつの選択は、激しい対立を当人や周囲にもたらす。
女優の岸恵子さんは傑出した文章家でもいらっしゃるが、彼女のフランス人の元夫が、アルジェリアにいる従姉妹を訪問した時、その従姉妹の夫から冷遇されたエピソードをエッセイに記されている。
岸さんのフランス人の元夫はド・ゴール派で、その軍服を着て行ったのだが、その従姉妹の夫の家族はヴィシー政府支持だったらしく、その対立は一族の旧懐を越えて憎悪として表れたと言う。

第 2次世界大戦中、ベルギーがドイツに侵略された時、ベルギー国王レオポルト3世はベルギーに留まることを選択した。これはベルギーの即時停戦を意味したから、結果的にダンケルクに孤立した英国軍は重大な脅威に晒され、英国海軍と空軍、イングランド南東部の民間の船舶の英雄的な大輸送作戦によって辛くも英国軍はブリテン島へ渡ることが出来た。
そうした実害もあったから、チャーチルは下院ではっきりとレオポルト3世を裏切り者呼ばわりし、レオポルト3世の歴史的評価は、チャーチルのこの断罪に引きずられる形で悪評が定着することになった。
しかし国民とともに苦楽を分かち合いたいと君主が望むのはそれほど悪いことだろうか。
レオポルト3世はその後、ドイツ軍に幽閉され、戦況が悪化するとともに東方に連れまわされ、最終的にはオーストリアでアメリカ軍によって解放された。しかしチャーチルの評価がベルギー国内でも浸透していたからなのか、理不尽な戦争においては誰かを憎まずにはいられなかったのか、ベルギー政府は国王の帰国を拒否、しばらくレオポルト3世の処遇は宙に浮く形になった。
「仕方があるまい」ということでようやくレオポルト3世は帰国を許されたが、国民の反発があまりにも激しかったため、1951年には退位を余儀なくされた。長男のボードゥアン1世が後継している。
一方、同じく第2次大戦中、ドイツ軍に占領されたオランダでは、女王ウィルヘルミナは英国へ亡命することを選択している。ドイツ軍が迫る中、時間的な余裕がなかったせいか、着の身着のままで女王は逃避行し、ロンドンに到着したときは何も持っていない状態だったと言う。
こちらはチャーチルの思惑通り、ロンドンで亡命政府を首班することになったが、戦後、帰国した時、ド・ゴールがフランスで受けたような歓迎は受けられなかった。
「逃げ出した女王」という恨みつらみが国民にはあったのだろうか。王室への不人気に押される形で、ウィルヘルミナ女王も退位を決意し、娘のユリアナに王位を譲っている。

亡命するのもしないのもいずれにしても難しい選択ではあるようだ。



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20040922

被害と加害の錯綜

ポーランド議会がドイツに対して、350億ドルにのぼる戦災賠償を請求という話を聞いて、ポーランドは何を考えているのかと暗澹たる気分になったが、asahi.com のコラム「欧州どまんなか」を読むと、なるほど、ポーランド側にもそれなりの言い分があるようである。
今日はビスマルクによって、ドイツが失ったものについて書こうかと思ったが、ちょうどつながってくる話なので、主題をこのニュースに譲りたい。
歴史上、ドイツの領土が最大化したのは1942年、ナチスのもとで大ドイツ国が国境を画定した時のことであって、オーストリア、チェコ、ポーランド西部、そして東端はケーニヒスベルクに達している。
これをドイツの侵略の結果とみなすのは、もちろん不当ではないが、この地域が歴史的に「ドイツ圏」の部分をなすことがあったのもまた事実であって、いわば、ドイツと非ドイツの境界上にあったグレイゾーンをことごとくドイツ化した結果、この大ドイツが生じたとも言える。
神聖ローマ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国を「ドイツ圏」とみなすことが可能であれば、ドイツは更に中欧諸国や北イタリア、ベネルクス諸国に対しても領土的野心を持つことが少なくとも歴史的・論理的には可能だったわけで、それよりは小さい範囲に大ドイツ圏が留まっていたことから、ヒトラーの野心(東方への生存圏の拡大は別にして)は案外小さいものだったとも言える。
ドイツとは何かということをそもそも考えると、本来のドイツが東フランク王国に由来するとしたならば、ほぼそれは旧西ドイツ(東西分裂期における西ドイツ)に限定的に範囲を定めることが出来るかと思う。
もちろんここでの「本来」とは、例えば日本の本来の領地を近畿地方に限定したり、アメリカの本来の領地を独立13州に限定するのと同じニュアンスであって、そこから拡散しているからといって非難する意図はない。
ドイツ圏を代表する二大首都、ウィーンとベルリンは現在でこそドイツ圏の中心だが、この地域がもともと両方とも辺境伯領として発展してきたことからも明らかなように、中央に対する辺境であって、植民運動の前線として、中央からある程度独立した権限を付された結果、「辺境の中心」として発展してきたものだった。
もし「本来のドイツ」に拘るのであれば、そういう意味ではベルリンやウィーンでさえ、本来のドイツではない。
数世紀にわたるドイツの東方植民を歴史的な事実として是とし、ベルリンやウィーンをドイツの中心もしくは部分と見なすのであれば、ダンツィヒ(グダニスク)やケーニヒスベルク(カリーニングラード)、ズデーテンラントをドイツと見なすのは必ずしもまったく不当とはいえない。
第二次世界大戦の敗北で、東欧から追放されたドイツ系の人たち、ジューコフ元帥ひきいるソ連軍によって殺され、レイプされた人たちは、満州移民団とは違って、数世紀にわたりそこで生まれ、そこを人がましい地に造り変え、そこで生活してきた人たちなのである。
彼らの立場に立つならば、先祖伝来の土地家屋を奪い、追い立てたソ連軍やポーランド人こそが加害者であって、それが国家間の戦争の結果とは言え、あくまで個人的な被害・加害の観点で見るならば、それもまたまるっきり不当とは言い難い。
ソ連が崩壊した頃、地名が次々に旧名に復す中、カリーニングラードも旧名のケーニヒスベルクに戻そうかという動きもあったようだが、ケーニヒスベルクのかつての多数を占めていたドイツ系住民がもはやいない以上、ここについばそうするだけの必然がないわけで(下手したらロシアの領有権にまでかかわってくるので)、ここはカリーニングラードのままである。

今回、ポーランド議会が、既に二度にわたって賠償請求を放棄しているにも関わらず、改めて請求する姿勢を見せているのは、かつての「東方ドイツ」系の住民たちが失われた財産について個人補償を求める動きを見せていることに対する対抗というニュアンスが強いようである。
戦争と歴史の結果生じた被害について個人補償を推進しようとしている人たちは、それが何を意味するのかよく考えて欲しいと思う。
それは哀れな被害者を救済することのみを意味するのではない。正義の実現の名における法をもちいた復讐と報復の連鎖をも意味しかねないのだ。
歴史は善と悪によって織り成されているのではなく、善は悪でもあり、悪は善でもある。被害者と加害者は容易に立場を入れ替え得る。その錯綜が織り成すタペストリーが歴史であり、その結果としての私たちの今の社会だとすれば、いくら醜い色であっても織り成す糸を抜き去れば、タペストリーはくずれてしまうだろう。



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20040911

名誉ある地位は要らない

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

憲法前文にいかほどの法的拘束力があるか知らないが、「名誉ある地位」とやらを占めようとしなければそれは憲法違反になるのだろうか。
この部分を直接起草した人が誰か分からないが、少なくともホイットニーの裁可は出ているはずで、国際主義というか、いかにもニューディーラーらしい、現在のネオコンにもつながるウィルソニズムの影響をそこに見いだすのは、それほど無理あることではないと思う。
理想主義と平和主義はつきつめれば相容れぬはずで、上記の短い文章の中にさえ矛盾が生じている。
けちをつければ(けれどもまったく正直な疑問として)、「国際社会」とは何かという問題がある。実際にはおそらくここは連合国とほぼ同義だろうと推測するけれども、この国際社会がどういう基準にのっとろうとも、何かしらの勢力を「永遠に除去しようと努めている」のであれば、排除される存在が国際社会の外側にあるわけである。
しかしそれは往々にして国家であるわけで、ある一定の基準に満たない国家を排斥する国際社会は、「限定的な国際社会」と呼ぶべきもので、それは国際社会ではない。
また、別個の国際社会も理論上はあり得るわけだし、現に幾つもの「限定的な国際社会」があったからこそ、大戦は起きたのだ。
更に、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努める」ことを志せば、それはそうした構造を維持したい立場から見れば敵対者以外の何者でもないのであり、それは戦争にいたる道に他ならない。
平和というが、もしこれが単に武力的な闘争がない状態を意味するのであれば、奴隷の平和もまた平和である。
ナポレオンに対してスペイン民衆が立ち上がらなければスペインは平和であったろうし、日本軍の「進出」に抵抗しなければ中国大陸も平和だったろう。
いや、それは平和ではない、平和とは実質的安寧を意味するというのであれば、それを獲得するためには武力闘争や介入戦争が時として発生するのはやむを得ないことであり、むしろ積極的に奨励されるべきことではないか。
朝日新聞の論調がつねづねおかしいと思うのは、私の場合まさしくこの部分であって、独裁や人権の蹂躙を先進国に対してはあれほど非難するのに対して、議会制民主主義国家でもない、正真正銘の人権蹂躙国家に対しては矛先がにぶるところである。
もし彼らが自分たちが言うほどに基本的人権を絶対視するならば、人権の十字軍をそうした暗い場所に送り込み、聖戦をとなえるのが筋の通った主張というものである。
ある意味、ネオコンが表向きかかげたスタンスというのはまさしくこれであって、ネオコンのやることに反対するというのは一体どういう了見だろう。
私は生来酷薄な人間なので、日本人の人権には関心も責任も感じるが、他国人のそれにまでは手が回りかねるし、まったく責任を感じない。それは彼ら自身の責任である。
ボランティアで他国の戦地に赴く人たちには個人的に敬意は感じるが、「そうしなければならない」義務を負っているとはまったく考えない。
日本国民でもなく、日本に納税しているわけでもない人たちのために日本政府が責任を負うというのは、あってはならないことであり、日本政府はただ、日本国民のためにのみ存在しているのである。
もちろん、それが結果的に日本国民の利益につながるからそういう政策を採るということはあるだろうが、日本国民の利益を離れて、ただ単に理念のためにそれをなすとすれば、それは納税者に対する背任だと私は考える。
イラクやチェチェンで起きている不幸、特に子供たちが晒されている不幸には個人としては胸を痛めなくもないが、彼らを救出する責任は本来、彼らの親、共同体、政府にあるのであって、いかに国際社会なるあやふやな権威を通過しようとも日本政府、日本人にはない。
もしそれがあると言うならば、私たち日本人がイラク人の将来について何らかの責務を負っているという人がいるのであれば、当然、イラク人も私たちに対して同じような責務を負う、もしくは負っていたはずであり、その前提からそうした人たちに尋ねてみたい。
世界のほとんどの有色人種国家が欧米の植民地となり、日本がその過酷な世界で生き延びようとした時に、いったい彼らが何をしてくれたのか。
戦後の焼け野原で食うものもなくひもじい思いをしていた時に、いったい彼らは何をしてくれたのか。
復興を遂げ、経済大国と呼ばれ、欧米による厳しいジャパンバッシングに晒された時、いったい彼らが何をしてくれたのか。
もちろん、これは日本政府による諸々の人道援助を否定するものではない。それを否定しないのは、それが日本政府の義務だからではなく、それをしなければ日本の評判が悪くなって国益に反すると思うからである。

極東ブログさんにはいつも教えられることが多いが、リンク先の記事では、朝日新聞の社説の矛盾を指摘されながら、モーリタニアの奴隷制について、

こうしたアラブ系の社会に朝日新聞は「アラブの民主化を唱えても、相手を理解する心がなければ進まない。それが現実である」というのだろうか。
 大きな間違いだ。相手が理解しようがしまいが、断固として民主化を推進しなくてはいけないことがある。その行為が、ときにはどれほどか暴力的に見え、非難されるとしても。

と述べられている。
朝日新聞の立場は、「相手の理解を得た上で民主化を進めなければならない」とするものであり、極東ブログさんの立場は「相手に理解が得られずとも民主化を進めなければならない」というものであるように読み取った。
私の立場は「別に民主化をすすめずともよい、それは私たちの仕事ではない」とする立場である。
イスラムがテロリズムとの関連で語られる中、本当のイスラムはそういうものではないという意見がむしろ主流である。
そうしたことをおっしゃる方は、イスラム=テロと短絡的に結びつける危険性を指摘されることが多いが、私は余りそのように短絡的に結びつけた言説を読んだことがない。
宗教のフォルトライン上で、特に目立つのがイスラム教徒と他宗教の人たちの争いであるという事実をハンチントンが指摘したことを批判する論調は結構みかけるのだが、なるほどハンチントンそのとおりだ、というのは余り見かけない(私は「なるほど」派である)。
イスラム教徒が宗教のフォルトライン上での紛争に多く関わっている(あるいは巻き込まれている)のは目立った事実であり、それが宗教の教義に根ざすのか、彼らの生活習慣に根ざすのか(国によって随分違うけれども)、あるいは異文化・異なった法概念を受容する能力の問題に根ざすのかは断定はしたくないし出来ないけれども、イスラム=テロリスト論の裏返しとしてのイスラム善玉論には与することは出来ない。
イスラム社会には(特にアラブには)、基本的人権の基準から考えるとにわかには頷けない諸々の事柄(モーリタニアの奴隷制度もそのひとつ)があるのも否定し切れない事実だからである。
そういう意味では、もし基本的人権を侵しがたい価値と認める立場に立つならば、極東ブログさんがおっしゃるとおり、イスラムの(少なくともある種のイスラムの)そうした風土を文化相対主義で放置するのは間違いかも知れない。
しかし極東ブログさんも引用されているが、サイードのモーリタニア日記の中で記されているように、そうした奴隷的環境にむしろ当の黒人たちが安住しているように見えるということもある。
彼らの運命を決める、あるいは切り開くのは彼ら自身であって、もし強い表現を使うならば、それは彼ら自身の責務であると私は考える。決して私の責務ではない。私の祖国である日本国の責務でもない。
私が基本的人権を支持するのは、それが日本国民が安寧に暮らす可能性を拡大することを法的に保証すると考えるからであり、目的は、日本国民が安寧に暮らすことそのものである。
それは日本国家の目的であるとも考えている。この目的に適うならば、国際社会における名誉ある地位とやらを占めるのもよろしかろう。
そうでないならば、少なくとも私は日本が名誉ある地位とやらを占めるのは望まない。



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20040910

英米の絆

今、不祥事にゆれるNHKであるが、過去にいい仕事を幾つもなしているだけに、NHKなんてなくしてしまえ、とか、いっそ国営放送にしてしまえなどとは言いたくない。
しかし島桂次氏といい、現在の海老沢会長といい、NHKに抜きがたくある保身の総体としての官僚主義と隠蔽体質について、自浄能力がないとみなされれば、そういう声も強まっていくだろう。
NHKには謙虚に、受信料負担者の怒りを受け止めて貰いたい。
NHKの過去の仕事のうちで、これはまったく好みであるが、私が一番好きでなおかつ評価するのは「映像の世紀 20世紀」である。
あれについては多数の方が見られただろうし、見れば非常に優れた歴史ドキュメントであるのは明らかなのだから、ここで評価の詳細は述べない。
あの作品は幾つも興味深いところがあったのだが、1940年6月4日にウィンストン・チャーチルが英国下院で行った演説の肉声を聞けたのは収穫だった。
この演説は、名文家、名演説家でも知られたチャーチルの works の中でも特に評判が高いもので、「映像の世紀 20世紀」のその回でも、あるいはチャーチルが記した「第2次大戦回顧録」でもハイライトとして扱われている。
ヨーロッパ大陸においてはマジノ線が破られ、北フランスにドイツ軍がなだれをうって攻め込み、フランス軍との連携を切られ、ベルギーに孤立した英国軍が、かろうじて英国海軍と空軍の英雄的な支援によってダンケルクから引き上げることに成功したすぐ後になされた演説である。フランスの「敗戦」は、この演説の直後であった。
こちらにその原文があるが、その終わりの部分を訳出する。

ヨーロッパの古く名高い国々が、ゲシュタポに掌握され、ナチスの愉快ならざる支配機構に組み込まれても、私たちは決してたじろぎもせず、ひれふしもしないでしょう。私たちはそれをおしまいまでやり抜くでしょう。フランスで、海で、そして大洋で私たちは戦い続けるでしょう。なおのことみなぎる確信と意志とともに、空において戦うことでしょう。
いかなる犠牲を払っても、私たちは私たちのこの島を守り抜き、海岸で戦い、敵の上陸地点で戦い、野原で戦い、市街地で戦い、丘の上に立て篭もってなお戦い抜くでしょう。
一瞬たりともそうなるとは信じませんが、仮に、この島の大部分が征服され、飢餓にさいなまれたとしても、私たちは決して降伏しないでしょう。
海を越えた私たちの帝国、英国艦隊によって武装され守護された私たちの帝国は、闘争を諦めることは決してしないでしょう。
そしていつの日か、神の定めし良き日に、新世界が大いなるそのすべての力によって、旧世界を解放し救うために、前進してくることでしょう。

英国人ならざる私でさえも胃の腑がねじれるような迫力がある文章だが、きっとこの演説は、力みなぎる調子で行われたのだろうと勝手に合点していた。しかし、実際に聞いてみると、とてつもなく陰鬱な調子で、決してハイテンションではなかった。
陰鬱だとしても無理からぬ戦況ではあったが、それはどうもチャーチルの癖であったようでもある。
チャーチルは即興的な切り返しの上手さでも定評があったが、演説に関しては彼は音楽家というよりはやはり文学者であったようで、何度も草稿を練り直し、徹底的に手を加えている。事前に充分な準備をすることなしで、思いつきで演説を行うことはあまりなかったとも言われている。
戦間期において、パシフィズムが蔓延するヨーロッパにおいて一貫してナチスの脅威を警告し続けた彼は、戦争屋と評され、自由党の没落と大蔵大臣としての失政もあって、一時的に政界から失脚してもいる。
しかし結局のところ事態が彼が言うとおりになると、チェンバレン戦時内閣において海軍大臣として復帰、そしてチェンバレン辞任後は首相として戦時内閣を率いることになった。
この演説の頃には予言者めいた風格もあったかも知れないが、全体のトーンが陰鬱であるだけに、なおのことこの演説は予言めいた感銘を聞く者に与えたかも知れない。
ダン・シモンズのSF小説「ハイペリオン」の中で、この演説が換骨奪胎されていたのには、奇妙に感心した。名演説の代表的存在として、やはり英国においては認識されているのだろうか。
それにしても、この演説の最後の一文、新世界、すなわちアメリカ合衆国への確信に満ちた信頼には目をみはらされる。
この時点でアメリカ合衆国の世論は圧倒的にヨーロッパ戦争への不介入を求める声が大勢であったし、ちょうどこの年は大統領選挙の年で、未曾有の三選に挑戦していたフランクリン・ルーズヴェルトは中立の維持を公約に掲げなければならなかったほどである。
これから1年2ヶ月後には、大西洋上でチャーチルとルーズヴェルトは会見し、実際には中立とは言えない英国への明白な肩入れ、いわゆる大西洋憲章をルーズヴェルトはチャーチルと共同で発したのだが、それでもドイツへの宣戦は国内世論の反対のため踏み切れなかった。
それが可能になったのは1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃に伴って、ドイツが律儀にアメリカに宣戦したからである。
この知らせを聞いて、チャーチルは小躍りして喜んだともいう。
チャーチルの信頼にも関わらず、1年半、アメリカの参戦はなく、英国はひとりでナチスに相対さなければならなかったと見るべきか、結果的にアメリカが英国側に立って参戦したことから、その信頼は充分に根拠があるものだったとみなすべきか。
もし、後者と見るのならば、英米の絆はなぜかくのごとき強力さがあったのだろう。
同じ言語を話し、同じく議会制民主主義を維持する両国には親和性があったとも言える。人的交流も盛んで、アメリカの富豪の金欲しさに英国貴族がアメリカの富豪令嬢と結婚する例も、その頃にはさして珍しくはない。
チャーチル自身、母親はアメリカ人である。
こうした人的なつながりだけが、英米の絆の理由だろうか。19世紀後半に英国は世界の工場としての地位をアメリカに抜かれ、更にドイツに抜かれ、やがてはソ連や日本にまで抜かれる運命であった。
明らかに英国はシャーロック・ホームズの時代においてさえ没落期を迎えようとしていた。その没落を早くから受容し、アメリカとの絆を強化していくことで英国はそれを乗り越えようとしたのではないだろうか。
個別の案件を見ていけば、アメリカは随分、英国の権益を侵食し、横っ面を張り倒すようなこともしている。パナマにおける英国の権益を無視し、インドにおいてはインド独立派の資金の相当の出所がアメリカ人から出てもいた。
英国とアメリカが市場と世界の支配権をめぐって果てしなき抗争に向かう可能性も決してなくもなかったが、結果的にはゆるやかにアメリカの台頭を英国が認め、なおかつその支配者層と経済の融合が進む中で、対立の構造を乗り越えたと言えるだろうか。
多少、断定的にいうならば、もっと詳細に見ていかないといけないけれども。
ウィンストン・チャーチルがアメリカ合衆国の支持をぎりぎりのところで信じていたとすれば、その根拠は、それまでになされた英国側の融和と融合の努力、比喩的に言えば投資の結果だろう。
アメリカについていく、アメリカが正しかろうが間違っていようがついていく、正面から権益がぶつかればアメリカとは決して争わない、そういう覚悟があり、そういう道を歴代の政権が選択してきたからこそ、アメリカとの英語国民としての融合は可能だったはずで、それは英国にとっては容易でもなく愉快な選択でもなかっただろうけれども、ともあれその困難で不愉快な道を英国は選び取ったわけで、その選択が生きるか死ぬかという瀬戸際でいきてきたのだろう。
その基本姿勢はなおも英国指導者を拘束していて、保守党と比較すれば強硬姿勢をとりたがらない労働党の政府においてさえ、維持されているのである。
イラク戦争を支持したトニー・ブレアを、マイケル・ムーアは「もっとましな男かと思っていた」と評した。
ムーアは知らないかも知れない。アメリカと対立したスエズ紛争において、英国がどのような目にあったかを。
イーデンの失敗を繰り返さないことが、英国の首相がまず第一に留意すべき戒律となった。
ブレアに他の選択肢があったかどうか分からない。仮にそうした選択肢をとったとして、ブッシュをではなく、アメリカを裏切るという行為はリスクが大きすぎると外交専門家たちからは逆に批判されたかも知れない。
ブレアはイラク戦争を支持するという大きなリスクをとったのではない。
アメリカを裏切らないという小さなリスクを選んだのである。



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20040903

極東ロシアの中国人

あなたは保守かリベラルかと時々聞かれるが、自分でも分からない。評価は他人がするものだから、その他人の目から見て鵺のように見えるというならば、どうして自分が何者か分かろうか。
自分としてはわりと単純な考えをしていると思うのだが、人工中絶反対、同性愛者の結婚支持、在日朝鮮人に対する選挙権付与反対、天皇制廃止支持とくると、パッケージ主義者(抱き合わせ販売主義者とも個人的には呼んでいる)にはどうにも頭がこんがらがるようなのだ。
基本的人権を重視する自由主義者、というのが一番しっくりくる説明だが、この自由主義というもの自体が鵺的であるとすれば、どのみち鵺やグリフォン、ウナギ犬の同類となるようだ。
我ながら保守的だなと思う部分は、習慣的な呼称の部分である。
柔ちゃんは未だに田村亮子と呼んでしまうし、さまぁーずをバカルディと呼ぶにいたっては旧名を思い出すほうが手間のようにも感じなくもないが、そう呼んでしまう。
1989年の東欧革命以後、ソ連圏の地名が変更になったが(というか旧に復した)、サンクト・ペテルブルクをついついレニングラードと呼びたくなる自分がいる。共産主義者でもないのに。
ソ連がロシアに「戻った」のはまあいいとして、これも最初はなじめなかった。英語圏ではソ連時代もずっと Russia と呼んでいたそうだが、ロシア連邦なんていうのに登場されると、オーストリア・ハンガリー二重帝国も復活か?というような落ち着かない気がした。
時代がかって見えたのである。
まあこれは私個人の感覚だから、私がただ単におかしいというだけのことである。
しかし新聞がロシアを「ロ」と略するのは、おかしいと感じる方が普通のような気がする。
ロシアの略は長らく露であり、日ロ関係、日ロ戦争ってなによ?と憤然とするのはそれほど不当なことではないのではなかろうか。
日ロ関係でもいいという人は日ベイ安保とか日チュウ友好条約という表記を是非、使用して欲しいものだ。
新聞は本当にやりそうで怖いけれど。
長い枕だったけれども、今日は極東ロシアのはなし。

2年前とやや古い話だけれども、ロシア経済トピックスに極東ロシアにおいて中国人が急増しているという話が伝えられている。

ロシア移住局資料によると、過去13年間にロシア極東地域の中国人人口が 約1百万人に達し、ロシア人の人口が約10%減少した。ロシア極東の中国国境地帯では約5百万人が居住しているが、中国東北3省に 1億人以上が居住している。

とのこと。ロシアの人口が1億4550万人(外務省ホームページ)、極東ロシアの人口はそのうちの4%程度らしいので580万人前後だろうか。
極東部の人口減は特に急激だというから、500万から550万くらいの間で見積もっていたほうがいいかも知れない。
そうした中において、すでに中国人が100万人入り込んでいるというのである。
しかも未確認の人や、行ったり来たりをしている人もいるはずだから、実数は更に多いはずである。これは2年前の状況だから、今現在は状況が進行していることが予想される。
これはもはや侵略であろう。
それに更に追い討ちをかけるように、中国がロシアに対してWTO加盟交渉の一環として、中国人労働者の自由移動を要求している。
もし、それが認められれば、中国にしてみれば1千万人単位の労働者を極東ロシアに送り出すことは容易なはずで、恐ろしいことに認められなくてもあるいは容易かも知れない。
眠れる獅子と白人一般に半ば莫迦にされていたケ小平以前の中国の、その恐ろしさを見抜いていた点においては、スターリンはさすがに慧眼だったと言えるだろう。
中国と長い国境を接することを恐れ、スターリンは中間地にモンゴル人民共和国をこしらえた。もちろん、満州-沿海州においては中露は充分に長い国境を接しているのだが、外蒙古がその国境に連なっていたならば、中露の緊張は今程度のものでは済まなかっただろう。
アメリカ合衆国へのメキシコ人の流入もすさまじいものがあるが、アメリカ合衆国はメインランドに相当な人口を抱えている。メキシコ人全体よりも多い。
対して極東ロシアはたったの550万程度しかあの広大な土地に人口がいないのだ。中国政府がその気になれば、あっというまにそれを上回る人間を送り込むことが出来る。
労働者の供給、あるいは移住という形で、16世紀以来、コサックが営々と作り上げてきた極東ロシアを事実上乗っ取ることが可能である。
これは侵略だ、とさきほど私は書いたが、侵略でさえないと言ったほうがいいかも知れない。ロシア人が極東に発したわけではない以上、彼らがそこにいるということは移住の結果であり、それと同じことを自分たちがやって何が悪いというロジックを中国人は掲げることも出来よう。
しかも、それをおしとどめることは容易ではなく、ほとんど不可能かも知れない。
プーチンがこの問題について、正面から取り組んでいないように見えるのは、正面から取り組むと問題を浮かび上がらせるからで、問題が問題として生じてもロシアには解決能力がない。
目をそらせ、見てしまえば危機は現実化する、ということではないだろうか。



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20040901

信教の自由の限界

フランス人記者2名がイラク国内で武装勢力に拘束された事件について、フランス国内におけるイスラム勢力は、犯人たちに対して批判的であるようだ(こちら)。
ライシテ(政教分離の原則)に厳格なフランスの姿勢に、イスラム教側は基本的には異議申し立てを行ってきたと言えると思うのだが、今回、こうした形でテロによって、フランスのライシテを変えようとする試みは、少なくともフランス国内のイスラム教徒の大半からは受け入れられていない。
信教の自由は、フランクリン・ルーズヴェルトが自由の基本をなす「4つの自由」の中でも言及しているほど、民主主義社会においては欠くべからざる自由と考えられているのだが、この宗教の自由は、宗教からの自由とすべきではないか。
私が宗教的な人間ではないがために、宗教そのものに対する見方がネガティヴなものになりやすい傾向があるからこういう考えが生じているのかも知れないが、フランス政府が行っているライシテ政策は、公共の場面と、個人の信仰を厳密に分けるということであって、公に対する宗教の影響力を極力排除する、結果として宗教は個人的なものとなって、例えば性生活がそうであるように、公権力の干渉を受けない(受ける必要がない)がゆえの自由を獲得するという考えであるように思われる。
しかし、信教の自由がもし、単に政府から干渉を受けない自由を意味するのだとしたら、政府にそもそも宗教を排除する権能がないはずだ、という考えも生まれてくる。
2002年6月、サンフランシスコの連邦控訴裁判所で、公立学校の朝礼で星条旗に忠誠を誓う際に唱えられる“one nation under God”という言葉が憲法修正第1条の政教分離の原則に反するということで違憲判決がくだった。
この判決に対するアメリカ国民の反応は概ね「馬鹿げた判決」というものであり、ABCなどが行った世論調査で、89%の国民が同フレーズを残すべきであると返答している。
しかしあくまで法理的に考えれば、無神論者や悪魔信仰の人たちの信教の自由(あるいは信教しない自由)を侵害しているおそれは充分にあるわけで、「馬鹿げた判決」とする人たちの根拠はただ単に、自分たちが多数派であるという以上のものはない。
そうした懸念に法理的に応えようとした結果、フランスのライシテ政策はあるわけで、フランスは法理により強い重要性を見いだし、アメリカ(の大半の国民)は自らの常識を基盤に考えているわけである。
もちろん、法というものは抽象化された常識であるという前提にたてば、常識を離れたところに法は確固として存在できないわけで、アメリカ人の思考態度もそれほど非難すべきことではないのかも知れない。
しかしもしそれを法理的に証明しようとなると、常識を証明するのは難しいのだから、あくまで整合性を重視すればアメリカ人は「おかしい」ということになる。
常識ということで言えば、ライシテはむしろフランス人の常識に沿ったところから出ているのであり、イスラム教徒からの異議申し立ては別として、常識的にそれは支持されているとは言える。
アメリカとフランスの違いは、旧来の思想、秩序を打ち壊す形で大革命を経験した国と、自らの土塊の中から生じた信仰と理念を守るために独立戦争を戦った国との違いとも言えるだろう。
フランスのライシテへの「信仰」もそうした歴史的経緯の中から生じたものであって、それがまるっきり原理的に純化されているわけではない。
イエスは現実的な権力を掌握せずに死んだわけだから、キリスト教の宗教原理としての法は、あるようでない。教会法はあくまで人が定めた法であって、神が定めた法ではない。
宗教原理としての法がキリスト教にあるとすれば、イエスが偶像崇拝を排除したことから、偶像崇拝へのタブーがそれにあたるだろうが、これとても相当緩やかで、カトリック教会を彩る装飾・オブジェ、そもそも十字架そのものが偶像崇拝ではないとどうして言えようか。
このあたりはプロテスタントの方がよほど厳格である。
しかしそれとても、せいぜいが気分的なものであって、戒律と言えるほどの戒律がキリスト教にはない。人々の日常生活を縛る宗教的な法体系が欠如している。
政教分離と言っても、キリスト教が戒律的には非常に緩い宗教であるからこそ可能だったとも言え、政治なことがらまで規定しているような宗教の場合、政教分離はそのまま(自分たちの)信教の自由の否定となってしまうのである。
頭髪を含めて、表面を女性は覆い隠さなければならないという規定が宗教的な原理に組み入れられている場合(イスラムはまさしくそうである)、それを守らないということは地獄に行くということを意味するのであって、ライシテがどうであろうとここで妥協の余地は生じないのである。
信教の自由はつきつめれば近代国家とは相容れないのであり、ここのハードルが非常に高いことが、イスラム教国の近世以後の停滞のそもそもの原因であると私は考えている。
しかしそうした原理的矛盾を乗り越えて、フランスのイスラム教徒は今回、テロリストを断固として拒否する立場を表明したわけで(これは宗教原理的には「誤った」態度である)、イスラムの連帯が、過激派テロリストが夢見るほど求められていないことのひとつの表れではないだろうか。
イラクの過激派テロリストも、フランスのイスラム教徒も同じイスラム教徒ではある。
しかし一方はイラク人であり、もう一方はフランス人である。フランス国内におけるキリスト教vsイスラム教という視点で見れば、確かにイスラム系フランス人はイスラム的ではあるが、そのイスラムは既に相当にフランス化されたイスラムとなっているのではないだろうか。



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20040825

立憲君主制考

19世紀のフランスと言えば、めまぐるしく政治体制を変えたことで知られる。
総裁政府からはじまって第1帝政、ブルボン復古王政、七月王政(オルレアン王朝)、第2共和政、第2帝政、第3共和政と変化する。
第2帝政と第3共和政の間にはパリコミューンがあったりして、非常にめまぐるしいという印象を受ける。
一方、この時期の英国を見ると、ハノーヴァー朝のもとで議会制民主主義、責任内閣制度、政党政治が発展、完成しており、柔軟かつ穏健に社会の変化に対応している。
憲法に基づいた君主政治、権力と権威の分離が安定的な社会をもたらすとする例の一つである。
第1次世界大戦の途中で、ロシア革命によって大戦からロシアが脱落したことによって、アメリカは「君主による専制政治の打倒」をスローガンとして、民主主義国家としてイデオロギー的整合性をつけて大戦に参加することが可能になった。
憲法そのものはドイツ帝国にもオーストリア・ハンガリー二重帝国にもあったのだが、君主からの政府の独立性を基準として、英国の立憲君主政治とは峻別した。
権威と権力の分化自体は、三権分立と並び、特定の個人に権力が集中しないための知恵として、今日では共和制国家においてさえ、必ずしも職能的には必要とは思われない象徴的元首としての大統領をもうけることで、権力と権威の分離を図っていることが多い。
立憲君主制度の支持者が言うように(もちろんここで言う立憲君主政治はカイザー的なものではなく、英国的な「君臨すれども統治せず」的なものを指す)その制度が権威と権力の分離を保証する手段として有効で、君主が象徴的、かつ具現化した法的正当性として存在するのであれば、その制度は国の安定に大いに貢献的であると見なすことは可能だろう。
そうした論者が好んで出す事例である、19世紀における、王を殺したフランスの混乱ぶりと、ハノーヴァー王朝の怠惰な非政治的な王のもとで期せずして成立した「君臨すれども統治せず」の原則が成立していた英国の安定ぶりを見るにつけ、少なくともそれが傾向的な事実とは言えるかも知れない。
立憲君主制の熱烈な擁護者になったつもりで更に論拠を探せば、1989年以後の東欧革命にともなうヨーロッパ旧共産諸国の社会的混乱に際して、国をまとめるよすがとして、これらの諸国の旧君主たちが一時的にではあっても期待されたこと、ブルガリアのキングプライムミニスターで書いたように旧国王であるシメオン2世が首相として「復権」しブルガリアに比較的安定をもたらしたこと、あるいはフランコ死後のスペインで王として即位し巧みな政治手腕でもって国民をまとめあげスペインを西欧民主主義社会へと復帰させたフアン・カルロス1世などを君主というシステムの成功例としてあげることが出来るだろう。
では、日本の天皇君主制はどうなのだろう。
第1次世界大戦において日本は日英同盟の関係から連合国の一員であったわけだが、同じ陣営に属する日本を、アメリカは「専制君主政治」ではあるが致し方ない瑕疵とみなしたのか、それともプロイセン的な専制政治とは違った政治体制であると見なしていたのか。
昭和5年に政友会が、浜口雄幸内閣を攻撃するためにロジックとして利用した統帥権干犯問題は、司馬遼太郎の言うところの「異胎」となって、その後の統治原理を著しく震撼させることになった。
これを大日本帝国の法制度上の不備ということは出来るだろうが、そうした不備を乗り越えていく力が立憲君主制度には(君主主権の国家においては)なかったとも言えるかと思う。
英国のオズワルド・モズレー率いる英国ファシスト党が政権を握るに到らなかったのは、社会を中庸化する立憲君主制度の機能のひとつゆえと見なすことが可能かもしれないが、ファシスト党政府が成立したイタリアにおいても、国王は存在していたのである。
民意を反映させる機能が充分でないか、あるいは民意を利用して国家体制そのものにある党派が反逆を企てる場合、正当性の承認機関である君主を取り込むことが出来れば、そうした簒奪が容易になるという側面も考慮してみる必要がある。
もちろん、ワイマール共和国においてさえ、ナチスの台頭は可能だったわけで、こうした問題が、共和国になれば心配無用になるわけではない。
立憲君主制が安定化をもたらしやすいという傾向的事実は別に、個別の状況、経緯を考えてみる必要があるわけで、立憲君主制にそれに伴うマイナスがあるのであれば、それを軽減する方策を考えてみるのも無意味ではあるまい。



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20040818

歴史を知らない

ネットの面白いところは、互いの背景を知らずに議論できるところだ。もちろん、議論が出来ると言っても、こちらやあちらの問題があって、議論にならないこともしばしばあるのだが。
ある程度訓練を受けた人たちが、そうした「不毛な議論」に関わりあいたくないと思う気持ちはもっともだが、しつらえられた議論の場ではなく、さまざまな背景を持つ人たちの生の声に触れられるという利点はやはり捨てがたい。
そもそも、議論が成立しない場合、能力ゆえというよりは人格上の問題である場合がほとんどなので、あらゆる局面で不毛な議論になってしまうという人は、まずは自分の手法を省みるべきだろう。
そういう議論を行っている時、しばしば「おまえは歴史を知らないな」と言われることがある。もちろんすべてに通じているわけではないが、さて、「あなたの言う歴史ってなに?」と私は思ってしまう。
そういう人に限って、それは「自分が知っている、自分の論に都合のいい歴史」に過ぎないことが多くて、日本史や世界史の受験歴史程度の話を振ってもフォローできないことが多い。
これは左翼右翼(あるいは左翼的・右翼的)の別を問わず、事実から論を構築せずに、論がまず先にあり都合のいい事実をピックアップする、イデオロギー的な性癖を持っている人に顕著な特徴である。
もちろん、これは他山の石とすべき話であって、私も人間である限り、知らず知らずのうちに都合のいいことだけを見つめているかも知れない。
そうしたイデオロギー的な性癖を持つ人たちが、左右や国籍を問わず、しばしば「歴史を知らない」というフレーズを相手を非難する時に使用するということは(実際にはそう言っている人の方が歴史を知らないということがしばしばある)、イデオロギー上の武器として利用する場合、歴史がいかに使い勝手がいいかということを示しているように思う。
ある意図の下で、歴史が利用された場合、その危険がいかに大きいかも伺える。
こうした経験上、私は「歴史を知らない」という脅迫的な物言いをする人をその危険性に鈍感なのだと判断して論者としてはほとんど評価しないのだが、もちろん実際に歴史を知らないと言う場合もある。
その場合でさえ、これこれしかじかの「事実」を知らないと相手に指摘するならばいざ知らず、それをそのまま「=歴史」とすることの危うさには注意を払うべきだろう。
左翼も右翼もこうした手法が有効である限り、こうした手法を続けていくだろうが、そこで語られる歴史が歴史のすべてではないことに注意した方がいい。
とは言え、歴史を知らないということの危険も一方にはやはりある。
しかし歴史を完全に、100%知るということが可能だろうか。もちろんそんなことは不可能であるし、おのれが知った事実を100%としてしまっては、見方が固定され、好みに捉われる危険性が増すという点でそれは避けるべきなのだ。
同時に、歴史にまったく無知であっていいということにはならない。
歴史がそのような、偏った見方に陥りやすい、危険なものだとしても、結局のところこれしかないのだから。



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20040731

日本に名誉革命はあるか

1648年のウェストファリア条約で、オランダ連邦共和国は正式に独立した。
1609年のスペインとの休戦協定で国境が確定され、事実上の独立国家ではあったのだが、スペインとの冷戦なり熱戦なりがウェストファリア条約ではっきりと終結し、ハプスブルク大帝国とその対抗諸国を基盤とした中世ヨーロッパのある意味安定していた国際秩序の時代は終わりを迎えた。
1639年、島原の乱を受けて、徳川幕府三代将軍家光はポルトガル人の来航禁止令を出し、結果的に日本との貿易をヨーロッパ諸国ではオランダが独占することになった。
16世紀の前半、ハプスブルク大帝国をそれ以外の諸国が最大の敵、あるいは仮想敵とする中で、ひとりオランダは未曾有の経済的繁栄を享受していた。
オランダが現代日本の「鏡」としてたびたび引用されるのは、奇妙に長続きした外交的安定状況(実際にはそれはドイツ30年戦争の時期でもあるのだが)の中で、状況を形成する副次的な国家でありながら、あるいはそれゆえに経済的繁栄を謳歌した姿が、冷戦期の日本とどこか似ているからである。
大ハプスブルク帝国は明らかに弱体化し、スペインとオーストリアは一枚岩ではなくなろうとしていた。
カール5世以来の国際秩序が、この時、崩壊したのだとも言える。
だとすれば、新しい時代を迎えたオランダがどのような境遇に陥ったかを見るのは、冷戦後の今日を見る際に決して無用ではなかろう。
詳しくはオランダ史の本でも読んでいただくとして、オーストリアという「主敵」が後退する中で、オランダは周辺諸国から目の敵にされ、特に英国からは三度も戦いを挑まれている。
国内では共和派の頭目ヤン・デ・ウィットと、世襲君主化しつつあったオラニエ家のウィレム3世との間で確執があり、英国のピューリタン革命や王政復古、フランスのルイ14世の領土的野心の影響に翻弄されながら、英国、フランス、帝国とあらゆる周辺諸国に攻め込まれ、経済的にも大国としての地位を滑り落ちている。
特に英国王ジェイムス2世は、長女のメアリを嫁がせたオラニエ家を後押しする姿勢で、オランダの共和派に圧力を加えながら、共和派の頭目ヤン・デ・ウィットが民衆蜂起によって虐殺され、オラニエ公ウィレム3世がオランダ総督となると、手のひらを返して、更なる対蘭戦争を画策していたのである。
すでに第三次英蘭戦争でオランダは北米の植民地を英国に割譲し、その拠点、ニューアムステルダムはニューヨーク(このヨークはヨーク公であったジェイムス2世に因んでいる)と改名されていた。
瀕死のオランダを更に絞りつくすこの新たなる対蘭戦争は、もし名誉革命が起こらず、ジェイムス2世が王位を追われなかったならばオランダに破滅をもたらしていただろう。
オランダにとっては奇跡としか呼びようのないこの僥倖によって、オラニエ公ウィレム3世は妻のメアリーとともに英国王に迎えられ、ウィリアム3世として即位することになる。
なお、ウィリアム3世の母は英国王チャールズ1世(ピューリタン革命で処刑)の娘であったから、ジェイムス2世から見れば甥ということになり(そして義理の息子でもある)、彼にも英王室の血は流れている。
名誉革命を主導したのは、英国側ではジョン・チャーチル(初代モールバラ公)だったが、その子孫であるウィンストン・スペンサー・チャーチルが第2次世界大戦の際、オランダを救出したと見なすならば、オランダはチャーチル家に2度救われたことになる。
これ以後、英国とオランダはかなり融合し、オランダはアングロサクソンのくびきにつながれ、あるいは深くそれと結びつきながら生存を可能にする道を余儀なくされていった。
それとても名誉革命がなければ、望むべくもない、予期される未来の中で最も穏当な道を、オランダは瀕死のぎりぎりの中で滑り込んで掴んだと評してもいいだろう。
翻って冷戦後の日本を見れば、アメリカのやりようは銃器こそ使用しないものの、経済大国としての日本を叩き潰すことに全力を挙げているとしか見えない。
細かい実例はここでは述べないが、グローバルスタンダードと言う名の対日コントロール、あるいは日本の締め出し、クリントン政権時代の法律強盗としか言いようのない相次ぐ日本企業狙い撃ち訴訟などを大雑把にあげておく。
冷戦が終結してすでに15年、日本がいかに冷戦に安住し、そこから利益を上げていたか、しみじみと身に染みる。
オランダのようにアングロサクソンに吸収されていく未来も決して愉快なものではない。
しかしそれとても「まだしもましなもの」であるかも知れない。
先日の重慶でのサッカーでの試合に見られるように、中国における理不尽な憎日がある中において、アメリカに一方的に頼りたくなる心理が働くのは自然の傾向だが、そのアメリカが、ジェイムス2世がオランダに抱いた以上の愛を日本に抱いているだろうと期待する根拠はなく、むしろその逆の傾向ばかり目に付く。
ため息をついたからと言って状況が改善されるわけではないが、神ならぬ身としてはため息でもついて気を紛らわせるしかない。



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20040728

子供を産まない東アジア

子供は労働力として生まれてくるのではないし、ましてや介護の引き受け手や、年金制度を維持する原資として生まれるのではない。少子化に関する議論が、ある人が評するに「さかしら」なものに陥りやすいのは、女性が子供を産まない理由を単に経済的な側面から語ろうとすることが多いからだろう。
私は男性なので、少子化に関する取り扱いの仕方はどうしても鈍感になってしまうかも知れないが、少子化がやはり見逃せないひとつの現象、または潮流であるのは確かなので、少々述べてみたい。
これを考えること自体がもし女性を不快にさせるのだとしたら申し訳なく思うが、不愉快にさせることが目的ではないことをご了承いただきたい。

少子化は先進各国に共通して見られる傾向だが、こちらの資料を見る限り、日本と韓国の少子化傾向は、その急激さという点で特に目を引く。
asahi.com のこちらの記事を読むと、台湾でも状況は同じようで、91年には1.72だった合計特殊出生率が、昨年は1.24という急激な落ち込みようである。
中国の数字は明らかでない(私が探せなかった)が、15歳未満の若年層の割合がすでに2割程度であり、仮に政府が一人っ子政策を緩和しても、出生率が急激に上昇することはないだろうと予想される。
イタリアなど、他地域で日本の出生率(1.29)を下回る国もあるにはあるのだが(イタリアの合計特殊出生率は1.29)、イタリアは出生率の回復局面にあり、更なる長期低落傾向が見込まれるという点では日本の方が、状況は深刻だとも言える。
韓国(1.17)の数字とあわせてみれば、東アジアは事実上、世界でもっとも少子化が進行している地域であり、これといった対策もほどこされていない。
もっとも、児童手当の拡充、保育所の拡充、育児休暇の拡充という「少子化対策」がどれほど効果を挙げるかは疑問であって、スウェーデンは国家としてはほぼ限界ぎりぎりとも言えるこうした措置の拡充をとっているのだが、それでも2003年の数字は1.65と、人口を現状維持できる目安となる2.08を下回っている。
しかもスウェーデンの場合は婚外子の割合が半数を越え、「家族」というものがかなり流動化していてなお、この数字である。
少子高齢化社会に対する具体的な対応策としては、もしそれが労働力の不足を意味しているのであれば、移民受け入れという形でしか具体策がないのが実状だろう。
それにしても、社会資本が他地域に比較して充実している、更に結婚や出産のプレッシャーもより強く働いていると想定される東アジアにおいて、非常に極端な少子化が進んでいるのはどうしたことだろう。
私の友人の夫婦も子供がいない人が多いのだが、彼らが言うには「子供を育てる環境にない」というのが子供を作らないという選択をしているもっとも強い動機であるらしい。
少子化の原因は夫婦が子供を作らないのではなく晩婚化・非婚化が原因だとも言われているが、子供を作らないという夫婦もやはり急増しているようだ。
フクヤマの「大崩壊」によれば、非伝統社会が進んだ結果、個人(孤人)でも生きられるようになり、結婚したり出産したりという必要性がそもそも減少したからだということらしいのだが、逆に言えば、もしそれが正しいのだとすれば、合計特殊出生率は伝統社会の崩壊の度合いを測る指標として使えることになるが、果たしてそうなっているだろうか。これは私の認識が違うのかも知れない。
しかし転がすには魅力的な考えではある。世界のどこよりも少子化傾向が進んでいる東アジアが、その伝統社会をどこよりも急速に崩壊させているのだとしたら。
過剰な競争社会、未熟なものを許さない社会風土がここにあるということを意味するのではないだろうか。



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20040716

愛国者の憂鬱

無相亭日乗さんの記事を読んで、愛国主義っていったいなんだろう、と改めて考えた。
国を愛するってことは、たぶん美徳なんだろうと思う。その感情が何に由来するのか、よく分からないけれども、己を捨てて国のために尽くすという行為には確かに美を感じる。
今ではコミカルにしか語られない赤尾敏氏の大日本愛国党だって、私の趣味にはあわないが反共主義という一点においては結果的に有為だったとも言えるわけで、現在の社会が一面においてそうしたものに支えられながら、冷笑するだけという態度はフェアではないように感じる。
では、愛国主義というものに、というかその「運動」に全面的に頷けるかというとそうでもない。
それは愛国の国というものをどう捉えるかということによるのだろうけども、得てして国=その時点の政府という形で、愛国主義が利用されることが多いからだ。
結果的に、著しい荒廃を国に与えた旧軍、あるいは他国に目を移せばナチスなどを、愛国主義の立場からすれば、「非国民」と罵ってもよさそうなものだが、余りそうした声が聞こえてこないのはどうしたことだろう。
愛国主義が胡散臭いのは、それは歴史を越えて存在していく民衆に基盤を置くものではなく、実際にはごく狭い党派的な集団とその利益に基盤を置いているからだと思う。
ごく狭い党派的な利益を、「国」と誤認させ、国への支持をそのまま己の党派的な利益にしようとする試みは、権力者の常套手段ではある。これは左右の別を問わない、政権を握ればそうした傾向は多かれ少なかれ出てくる。
愛国主義を胡散臭く感じるもうひとつの理由が、ただ単にそれが拡大された自己の全面的な肯定に過ぎないのではないかと思うからである。
それは、国と自分というものを対比関係、あるいは分離して捉えるのではなく、国を自己投影したものと見る、精神的な意味で国を私物化する行為ではないだろうか。
もし、国というものを自分と分離した形で見るならば国は国であって、どのような国であれ忠誠の対象となるはずである。しかし「かくあるべし」と国に求めるならば、その忠誠の対象は国ではなく、「かくあるべし」という思想の方ではないだろうか。思想と呼ぶほど大袈裟な話ではないかもしれないけれども。
発展途上国でしばしば見られる(もちろん先進国でも見られるが先進国の場合、相対的に統治がうまくいっているからこそ先進国なのであって、愛国主義の問題はそう大きくは扱われない)排外的な愛国主義は、傷ついたプライドの回復を欲しているのであり、それは○○人である自分のプライドの問題である。
国はそのダシに使われているに過ぎない。ならば、そうした人たちを愛国主義者と呼ぶことが果たして適当だろうか。

私たちは誰も究極的に言えば先を見通すことは出来ない。しかし程度問題としては可能なのであって、過ちを避けることは出来ないかも知れないが大きな過ちからは努力すれば遠ざかることが出来る。
自分のことを棚上げして言えば、愛国主義を言うならばまずは大きな過ちから遠ざかる努力をすることであって、そのための手段がなにか、これという確信はないが歴史はそのひとつの有力なツールではある。
誰かの思惑で踊らされる愛国主義者は、すでにその時点で国を愛するという行為からかなり程遠いところにいるのではないだろうか。



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20040707

心的外傷としてのデュカキス

過去6回のアメリカ大統領選挙の両党候補者の出身地を、北東部・南部・中西部・西部に分け、大統領当選者に4点、副大統領当選者に3点、対立大統領候補に3点、対立副大統領候補に2点と点を振り分けた場合、各地方ごとの得点は以下の通りになる。
なお、ここで言う出身地は「生まれた場所」ではなく、その人物の政治的地盤を指している(従って、例えばロナルド・レーガンの出身地はイリノイ州ではなくカリフォルニア州、アル・ゴアの出身地はワシントンDCではなくテネシー州としている)。表はこちら。

 北東部 7点
 南部 39点
 中西部 13点
 西部 13点

となり、南部出身者の圧倒的優位と北東部出身者の苦戦が浮き彫りになる。
南部出身政治家が“好まれている”だけではなく、北東部出身の政治家が南部からのみではなく他の地域でも支持を受けていないという構図が浮き彫りになる。
これは保守派が南部に多く、リベラル派が北東部に多いことから基本的には保守派のリベラル派に対する優位を見いだせるのではないだろうか。
もちろん、南部出身者に加算したカーター元大統領のように、南部出身でありながらリベラリストという例もある(ただしカーターはキリスト教原理主義者でもある)。
クリントンのように南部でありながら比較的リベラルという人もいるにはいるのだが、デュカキスのように北東部出身のリベラリストが叩きに叩きまくられたのに対して、南部出身者に対する風当たりは相対的に弱いとも言える。
1988年の大統領選挙で、共和党は、民主党候補のデュカキス・マサチューセッツ州知事に対して徹底的なネガティヴ・キャンペーンを行った。
それまでの大統領選挙が基本的には政策の提言、あるいは相手候補への反論をキャンペーンの主軸にしていたのに対して、流れがはっきりと変わったのが1988年の大統領選挙だった。
以後、自分を売り込むのと同じくらいかもしくはそれ以上の熱心さでもって、事実を曲げ、誤解を肥大化させ、とにかく相手を叩き潰すというネガティヴ・キャンペーンが盛んになっていく。
この時の共和党の候補者、ジョージ・ブッシュ・シニアは、レーガン政権における副大統領でありながら、新たに共和党の主流となりつつあったレーガン・リパブリカン、あるいはレーガン・デモクラットからは自分たちの仲間ではないと見なされていた。
レーガン自身、政治家としてのブッシュ・シニアを大して評価していなかったことは後に漏れ聞こえてくることになる。
すでに8年に及ぶ共和党政権への“飽き”、8年間副大統領にあったために染み込んだ「第二線級の人物」というイメージ、新保守主義者たちから向けられるさほど熱心でない眼差しを考えると、ブッシュ・シニアは決して強力な大統領候補ではなかったのである(実際、4年後には現職でありながら落選してしまうし)。
ブッシュ選対が対立候補であるデュカキスを貶めるために使ったやり方は、ある意味、非常に“秀逸”だった。
「彼は悪党である」と言われれば「悪党ではない」と反論できる。
「彼は愛国者ではない」と言われれば「私は愛国者である」と切り返すことが出来る。
しかしリベラルな人間が「彼はリベラルだ」と言われた場合、それは“事実”であって、「その通りだ」と言うしか出来ない。
問題は“リベラル”という言葉に、「だらしなさ、不道徳、無秩序、退廃」というイメージを込めて、まったく新しい用語としたことである。
もしこのようなことが正当ならば、保守を「因習にとらわれた封建主義者」と見なすことだって可能なはずである。
もちろん、いわゆるリベラル的な政策がしばしば観念論に過ぎ、現実の国民の欲求から乖離していたということもあるだろう。
しかしリベラル的な政策が施されていたのには相応の必然があったからなのであり、ではそれをどうやって改めて問題を克服するかという視点からではなく、あくまで手段としてのリベラルを叩くために、このレッテル張りは多用されたところがある。
結果的に大統領選挙としては「大差」に部類される8%の得票差で、しかも与しやすいと見られていたブッシュ相手に敗れたことで、民主党はリベラルというレッテルを極端に恐れるようになった。
リベラルではなく「中道」だということを示すために、保守的な地盤とされる南部の出身者が、優遇されるようになったのだろうか。

ケリー民主党大統領候補が副大統領候補に最後まで民主党の指名争いを戦ったエドワーズ上院議員を副大統領候補に指名した(BBC NEWS より)。
これは南部出身のエドワーズ(ノースカロライナ州出身)をランニングメイトとすることで、実際以上にリベラルに見られがちなケリーのイメージを緩和しようとするものだろう。
ケリーは北東部出身者ということで、最近の大統領選挙を見る限り、地盤的には弱い。
今回、たまたまブッシュ大統領が「暴走」しているがために相対的に現時点ではケリーの支持率が高いが、大統領選挙を制するためには「非ブッシュ」の保守層を取り込んでいかなければならない。
同性愛者の結婚問題に見られるように、ブッシュが中道から保守へ更に軸足を移動させて保守層の囲い込みに走っているのに対して、保守、特に南部の保守をウィングを広げるためにケリーが出した策がエドワーズということだろう。
保守を切り捨ててリベラルを取り込むと言う路線が取れない以上、南部出身者は南部の保守層を取り込むためにこれからもしばらくは重用されるだろう。



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20040630

Out of Korea

隣国なればこそ、韓国のことが気にかかる。
韓国のことで非常に理解に苦しむのが、あれほど「愛国的」な人たちでありながら、移民に熱心なことだ。
もちろん、実際に働き口がなければ移動せざるを得ない。多くの国でそうやって経済移民が発生し、経済移民だからと言って、愛国心に欠けると見なすことは出来ない。
しかし韓国はOECDに加盟する先進国であり、世界的な水準で見ても豊かな生活が享受できる国である。
その彼らが、結果的に国を捨てることになる移民と言う形をどうして選択するのだろうか。
ひとつには、国の垣根そのものが、アジア・太平洋地域でも低くなっている傾向が挙げられる。例えば、受入国のひとつであるアメリカ合衆国では忠誠宣言が帰化の際には求められるが、故国とアメリカが戦争をする可能性がほとんど考慮されていない、する必要がない程度にはアジア太平洋地域は一体化している。
これをグローバリズムの現われと見るべきなのだろうか。
それとも、そこには韓国に対する失望があるのだろうか。
人口動態を見れば、韓国には海外へ移民を送り出す余力などないはずである。
2002年には合計特殊出生率が1.17となり、世界最低の水準となった。少子高齢化社会は先進国はいずれも抱える問題だが、韓国の場合は特にそれがはなはだしく、日本を上回るペースで超少子高齢化社会へと突き進んでいる。
このうえ、さらに若年世代が移民という形で失われれば、実際の少子化の悪影響は甚だしいものとなるだろう。
にもかかわらず、大統領がアメリカから移民枠の拡大を「勝ち取る」ことが「得点」となる。
韓国人は一体、将来、大韓民国をどうするつもりなのだろう。
日本以上に学歴社会の韓国では、院卒、外国の学位保持者がごろごろいる。それに見合った職が供給できていないのが現状で、そうした人たちは、海外へ活路を求めなければならない。
しかしそれは人材の流出に他ならない。
移民を希望する人たちはそうした状況も踏まえた上で、韓国の国情に対する不満を訴える。
教育費の高騰、失業率の増大、極端なまでの競争社会で非常に息苦しいというところ。
アメリカでさえも、韓国人に言わせるとまだしも競争社会ではないというのだ。
そうした不満は個人として聞く限り、なるほどそれはさぞかし息ぐるしかろうとは思うが、そうした社会を変えるという方向にエネルギーが向かうのではなく、そこから逃げると言う形で解決を図るところに、首をかしげるところもある。一方でこの人たちは大変な愛国者でもあるのだ。
愛国主義そのもの疑念を抱くひとつの理由である。
アジアでも絶望的な貧困の中にあった韓国が経済成長を始めてすでに30年ちかく、余りにも早く年老いたように見えなくもない。
海外に逃避することもままならない人々、学歴も資格も低い人たちが、奮起することがないとは言い切れない。
土塊の中からしか、国を支える人々は生まれてこないものだ。



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20040629

トルコはヨーロッパか?

日英同盟を結ぶまでの英国の外交政策を「栄光ある孤立」と呼ぶことになぞらえて言うならば、トルコが陥っている境遇は「栄光なき孤立」である。
彼らの宗教はイスラムであるが、トルコ人はアラブではない。
トルコ人は自らをヨーロッパ国家であると規定しているが、キリスト教徒ではない彼らをヨーロッパは受け入れない。
中央アジアのトルコ系諸国に特に最近、接近しているが、現在のトルコ共和国が位置するところは中央アジアではない。
各勢力のバランサーでもないトルコが、孤立していていいことなどほとんどない。
この特殊性がかつては誇りであったこともあるだろう。なにしろ彼らは中東の支配者であり、それどころか南東欧の覇者でもあったのだから。
オスマン帝国の精鋭で鳴らしたイェニチェリ軍団は血統的にはほとんどヨーロッパ人であったし、スルタンのハーレムには白人女性が入れられることが多かったことから、歴代のスルタンもヨーロッパ人との混血だった。
例えば、西欧式に軍隊改革を行ったマフムト2世(位1808〜39)は母親がフランス人である(エイメ皇太后、フランス皇后ジョゼフィーヌの従姉妹)。
一部とは言え、ヨーロッパを支配した結果、ヨーロッパ人との混血が進み、ヨーロッパの歴史に深く関わってきた(多くは敵としてだが)トルコが、自らをヨーロッパであると主張することにまったく理がないというわけではない。
しかしトルコ人はまた、オスマン帝国時代を通じてイスラム世界の盟主にしてメッカ、メジナ、イェルサレムの保護者だったのであり、イスラム国家の中でも特にイスラムを代表して西欧諸国と敵対してきたトルコを、ヨーロッパと認めることは、ヨーロッパのキリスト教性を否定することになる。
アメリカ合衆国と比較して、現在の欧州諸国ははるかに非宗教的ではあるが、それでもその文化がキリスト教に根ざしているのは間違いないのであって、トルコが望むように、トルコをEUに迎え入れれば、EUは単なる法的機関となり、アメリカ合衆国やロシアと対抗していくまとまりある文明圏とは呼べなくなるだろう。
トルコをEUに加盟させないために、EUはさまざまなハードルをトルコに与えているが、そうした個々の問題ゆえにトルコは拒絶されているのではない。問題は誰しもが分かっていながら、公には認められないこと、つまり宗教であるのだ。
ヨーロッパ内部にもイスラム教徒はいる。従って、絶対にイスラム教を排除したいとは口では言えないが、ヨーロッパというナショナリズムにはキリスト教の土台が必要なのだ(と、多くのヨーロッパ人は考えている)。
シャルルマーニュがイスラム教徒を撃退し、ヨーロッパのイスラム化を防いだことに「安心」出来なければどうしてヨーロッパ人といえようか。
今回、ブッシュ大統領がトルコを訪問し、トルコのEU加盟を支持すると表明したことについて、シラク大統領がかなり強い語調で(“Not his concern”)不快感を示したようだ(BBC NEWS から)。
EUの一番の泣き所に辛子を塗りつけたような行為である。
もちろんシラク大統領がそのような不快感を示すのは折込刷りであろうし、だからこそそれを言うだけの意味が少なくともブッシュ大統領にはあったわけだ。
統治の原則は、分割統治である。アメリカにとって分裂したヨーロッパこそ好ましい(だからこそ、フランスやドイツにとってEUの意味があるというものだ)。
そのEUの結束を、トルコという超異分子が入ることによって乱すことが出来るならば、アメリカにとってこれほど万々歳なことはない。
サッカー好きな人はご存知だろうが、サッカーの世界では、トルコはヨーロッパに組み込まれている。
特にイスタンブールをホームタウンとするガラタサライは1999年度のUEFAカップを獲得したことから聞いたことがある人は多いだろう。
しかし政治の世界はシビアである。
トルコよ、サッカーくらいで満足してくれ、というのがヨーロッパ人の偽らざる感情だろう。



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20040614

変貌するアメリカ

同じところにとどまり続けるためには、走り続けなければならない。
「鏡の国のアリス」に出てくる赤の女王の言葉であり、生態的地位を維持するためには進化し続けなければならないという生物学で言うところの「赤の女王」仮説の元になった言葉でもある。
人は変わっていく。国も変わっていく。国の名前すらも変わっていくかもしれない。
オリンピックのレセプションなどで、オーストラリアの白人がアボリジニの格好をする、あるいはニュージーランドの白人がマオリの格好をすることに違和感を覚えたことがある人もいるに違いない。
アボリジニは確かにオーストラリアの部分であり、その歴史のパーツである。しかしオーストラリアの白人がアボリジニの歴史を取り込んで「詐称」することに違和感を感じないはずがない。
そこに共通するのは Terra Australia というオーストラリア地塊だけである。
オーストラリアに白人を送り出す母体となったイングランドにしても、イングランドという呼称が「アングロ族の国」という意味である以上、ゲルマン人の流入以前のこの国をイングランドと呼ぶことには抵抗がある。
ローマ風に属州ブリタニアと呼ぶべきなのだろうが、その属州以前、仮にそこをブリタニアと呼ぶにしても、ブリタニアと属州ブリタニアは文化も違えば言語も違う。
ローマ人とガリア人(ブリタニア原住民)は種族も違う。それを果たして同じ国の歴史として、ひとくくりにするのが可能であろうか。
まして「侵略者」であるイングランド人が、「侵略者」に抵抗して戦ったアーサー王を自分たちの英雄として取り込むことに、違和感、学術的な間違い、偽善を感じないでいられるものなのか。
それは、イケニ族の女王ボアディケア(ローマ侵略に抵抗したブリタニア原住民の指導者)を、ローマが自分たちの祖先として祀るのと同じくらいに奇妙なことなのである。

もちろん、こうした奇妙さは、多かれ少なかれ、歴史を経て形成された国民国家には付き物である。偽善を飲み込み、学術的な間違いを飲み込み、なおかつ国家は国民を創造して行かなければならないからだ。
かつて蝦夷と呼ばれ、朝廷から蛮人視された東北の人たちが、果たして現在、天皇家に敵意を抱いているだろうか。そうではあるまい。
国家とは変わり続け、起源を詐称し、その時代時代に適応していくものなのである。

アメリカが独立した当時、明らかにそれは自由主義、民主主義に基盤を置くのと同等かそれ以上の意味で、宗教と財産、人種に基盤を置いていた。
今日、宗教はともかく、財産、人種に基盤を置くのは「アメリカ的ではない」と見なされるが、本来、そう見なすことの方がアメリカ的ではないのである。少なくともスタート時点における信条をアメリカ的であることの条件とするならば。
パウエル国務長官は余り人種的なことについてコメントする人物ではないが、稀に黒人であることの意味に言及することがある。
明らかに、彼の人生において黒人であることが様々な形でのしかかってきたに違いないが、しかしアメリカや世界は、彼を黒人の国務長官とは見なさない。彼が語る時、それはアメリカの国家意思と見なされるのであり、このアメリカには往々にして彼を虐げて来たに違いない白人コミュニティももちろん含まれているのである。
アラバマ州セルマ(黒人「暴動」の地)から、ずいぶんアメリカも遠いところまで来たではないか。
我々、日本人は単にアメリカ、という。
それは現在のアメリカに他ならないのだが、このアメリカはいつしかあのアメリカに変わる可能性をつねに秘めている。
ヴェルサイユ講和会議で人種平等宣言に徹底して反対したウッドロウ・ウィルソン政権の姿を今日のアメリカと見なすことが出来ないように、将来においてアメリカが、今現在、我々が想定しているようなものであり続けるという保証はない。
むしろ変わっていく方が自然ということなのだ。
現在におけるアメリカ追従政策は外交理念としてはそれなりの合理性があるかも知れない。しかし50年先、100年先を考えたならば、アメリカという名前は同じであっても、アメリカが同じところにとどまり続けると考える方がどうかしている。
外交が国家100年の計であるならば、そのようなことも当然想定されるべきなのだ。
変貌の内容については、また項を改めて書くことにする。



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20040613

運転免許化する市民権

中世欧州における宗教改革の動機はふたつあった。
ひとつは言うまでもなく、腐敗したカトリックを離れて、原理に帰ること。もうひとつは、ローマからの独立である。
教会が定めた十分の一税は、いくらかはその国に落ちたが、かなりの部分がローマに流れた。イタリア・ルネサンスの基礎には経済的優位があるのであり、その優位は、主に地中海貿易とローマ教皇庁の富に由来していた。
中世の教会組織とは、宗教の名を借りたイタリアによる各国の富の収奪機構だったとも言えなくもない。
ローマから距離が離れた諸国において、プロテスタントの信仰が広まったのには、ナショナリズムから来るローマへの反感も寄与していたと思う。
カトリックとプロテスタントとの抗争に疲れ果てたイングランドを継承すると直ちに、エリザベス1世は国王至上法、礼拝統一法を制定しているが、「果たして王への忠誠と、教皇への忠誠は両立するのであろうか?」とふたりの君主に仕えることについて疑問を表明している。
プロテスタントが作った国、アメリカにおいて、カトリックが Popist (教皇主義者)と呼ばれ、スパイも同然の扱いを受け続けたのも、「ふたりの君主に同時に仕えることが果たして可能なのか」という疑問を抱かれたからである。
1960年のアメリカ大統領選挙で、カトリックであるジョン・F・ケネディは「教皇への忠誠とアメリカ国家への忠誠のどちらを優先するか」と繰り返し質問され、もちろんアメリカである、と何度も返答しなければならなかった。
それでも、本来民主党支持の有権者の中においてさえ、宗教を理由として、ケネディに票を投じなかった者もかなりいたと言われている。

現在の世界において、ふたりの君主に仕えている人々は増え続けている。二重国籍、と言う形で。
帰化の基準が緩い国においても、帰化までを望む移民は割合的には案外少ない。元の国籍を維持し、元の国のコミュニティを延長させながら他国で労働するというのが新移民の希望である。
元のコミュニティとつながっている出稼ぎ労働者は、労働の不足を満たすけれども、金は元の国へと送金する。本来、稼いだ土地で循環すべき金の流れが、ふっとどこかへ行ってしまうのだ。
仮に帰化したとしても、自らのエスニックアイデンティティをまったく変えることなく、同化を拒むことも今日の社会では不可能ではない。他国、あるいは国でないもの、宗教や民族に最優先の忠誠を抱きながら、先進国の市民権を生きていくうえで有利だからと取得する。
市民権の運転免許化が進んでいる。
日本においても、最近、アメリカやカナダで出産する人が増えている。アメリカやカナダは生地主義だから、そこで生まれた人間には国籍が自動的に与えられる。
成年に達した時点で国籍が選択できるのだが、国籍がそのように選択できるものとして扱われ、子供にそのようなチャンスを与えたいと望む親は既に日本国家への帰属心を相当に揺るがせているのである。
このことがさほど奇異に感じられないことそのものが、国家というものが絶対的なアイデンティティの拠り所とみなされなくなりつつある、グローバリズムの傾向を示している。
成年に達するまで、例えば日米両国の二重国籍者である人は、日本とアメリカのいずれにアイデンティティを置くのだろうか。実際にはそのどちらにも置かないのである。そのような選択可能な資格のように国籍を扱っている時点で、アイデンティティを託すに足るものではないからである。
敢えてアイデンティティを言うならば、国際社会そのものに見いだすのだろう。運転免許にアイデンティティを抱く人など、ほとんど存在しないのだから。

愛国心とは、グローバリズムに足場を持たない国際社会弱者の砦に過ぎなくなるかも知れない。強者は状況に応じて、自らの能力とキャリアのみを頼みとして、居住地、国籍、市民権を変更していくであろうし、少なくともそれほど重視しなくなるだろう。
英国の著名人はもちろん、日本やアジアの著名人がアメリカに居を構えたとしても何ら不思議がられない昨今である。ふたつの君主に仕えるものは、君主を無意味化していくのである。



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20040612

赦そう、しかし忘れまい

Forgive,but not forget.
いわゆる戦争、虐待、虐殺の被害を展示した各国の博物館・資料館には、この言葉、もしくはこの意味の言葉が掲げられていることが多い。
歴史を忘れれば、愚行が繰り返される、それはおそらく事実だろう。しかし愚行の多くも歴史に由来している。
赦そう、しかし忘れまい。
ベングリオン(イスラエル初代首相)はホロコーストについてそう評した。しかし忘れることなしに、赦すことは果たしてできるのだろうか。子々孫々に渡って苦難を教えていくうちに、果たしてそこに「赦す」という気持ちも伝えられるのだろうか。
そうでなければ、歴史は単に憎悪を拡大再生産させる装置に過ぎなくなってしまう。
人は死ぬのである。赦し、解りあえた人たちは死に、新しい世代がそれをうずめていく。しかし新しい世代には、もし憎悪だけが継承されていくのだとしたら、忘れないと言うことは、新しい惨劇を生むだけのことではないだろうか。
「裁くな、裁かれぬために」
と、イエスは説いた。赦しというものは、記憶の継承や、裁くことを越えていかなければならないのではないだろうか。単純に考えて、ある人物、ある集団が、ありとあらゆる場面で被害者となり得るものだろうか。
加害と被害の連鎖は、複雑に絡まりあい歴史の彼方へと続いている。
第1次世界大戦後、ドイツにハイパーインフレーションをもたらしたのは、フランスによるルール工業地帯への侵略・占領ではなかったか。
第2次世界大戦をもたらしたのはフランスである、と言い切るのは言い過ぎにしても、そのように言う人もいるのである。もし、加害体験、あるいは被害体験が世代を越えて継承されていくのだとしたら(歴史を忘れないと言うことはそういうことである)、原因と結果の延々たる過去への延長がもたらされるだけで、それは単なる自己正当化の道具に歴史が堕するということである。
それは歴史に学ぶということから最も遠い行為となるだろう。主体である自分と客体である歴史を突き放して分離することがなければ、自らの感情に振り回されることになる。
「私たちが弱かった時、ナチスは私たちを石鹸にしたではないか」
と、あるユダヤ人がイスラエルの数々の暴虐を正当化して言った。もし、このように自らの暴虐を正当化するために歴史を利用するのであれば、歴史をひきずりだして、自らの痛みを声高に叫ばぬことである。
強いことが正義で、弱いことが悪だと言うのであれば、ナチスが強くてユダヤ人が弱かったというだけの話であるからだ。
Forgive,but not forget.
確かにもっともな言葉であるが、これだけでは不充分であることを人類は更に学んでいくべきなのかも知れない。この言葉に続けて、次の言葉を加えるべきだろう。
― for being forgiven.

  “赦そう、しかし忘れまい、赦されんがために”



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20040609

憎悪で作られた国

日清戦争で、北洋艦隊が振るわなかったのは、北洋艦隊においては宰相・李鴻章が事実上のオーナーシップを発揮し、極端なまでの艦隊保全主義に走ったからだとも言う。
北洋艦隊は清朝の艦隊であると同時に、李鴻章が国内において権力を保持していく上で、ひとつの基盤となるものであり、ゆえにこれを失うことを李鴻章は恐れた、とも言われている。
国、という。しかし人々が国に忠誠を誓うのは、国が少なくとも自分に無体なことはしない、あるいは仮に自分が国のために死んだとしても、正当に評価してくれしかるべき補償をしてくれるという期待があるからではないだろうか。
愛国心がまったく無私のものであるとしたならば、例えば岳飛のように獄死させられ、なおかつ秦檜のように根強く後世に悪評を残すとしても、なおかつ国のために身を投げ出すことが出来なければならない。
旧約聖書のヨブ記における神の如く徹底的に理不尽な振る舞いをされてなお、人は国に対して忠誠心を維持し、保護を期待できるものだろうか。
孫文がかつて中国人を評して「砂のような」と形容したのは、中国人の団結力のなさ、徹底的に利己的であり、国家に忠誠心を持つことが出来ないまとまりのなさを嘆いてのことだが、そうなるにはそうなるだけの経緯と理由があったのである。
既に唐初、「貞観政要」の中で太宗・李世民は、君主に諫言せずして地位を守った古人を不忠であると断じている。そうした危うい状況に自らを追い込まないことが賢い身の処し方であるというコンセンサンスがあるのを、李世民は批判したわけだが、そういうエゴイスティックな人間ばかりが増えれば国は滅びると嘆いたところで、現実に諫言すれば失脚するような状況があるのであれば口を閉ざすのは自然の摂理でもある。
まずは自ら、そして自分の血縁集団の利益を最優先に考えれば、民族や国家というもののプライオリティは相対的に低くなる。
孫文はその結果生じた中国人のパブリックへの関心の低さを嘆いたが、例えば異民族支配に徹底抗戦しなかったからこそ、清朝なるものが成立したわけであり、入れ替わる支配者と自己を同一視しない、言わばすれた態度が、中国においては最合理だったからこそ、生き方として定着したわけである。
しかしそのようなことではいけないということで、孫文らの運動があり、日中戦争においては、中国はひとつの共同体として、それにあがらうことに成功した。
19世紀半ばまでの中国は、世界そのものであって、世界の中において世界人であるというアイデンティティは何の意味も持たない。アイデンティティとは他者と区別するためのものであるから、すべての人が含まれる世界人という概念は何のアイデンティティにもなりはしないのである。中国人にとって中国人であるということはまさしく世界人とほぼ同義語であって、だからこそ中国人というまとまりに積極的な意味を見出せないまま、西洋列強の侵略にいいようにされたのである。
はっきり言って、アヘン戦争のときに、日中戦争の時に見せたような粘り強さと団結を発揮していたならば、その後の中国の状況はよほど違っていただろうが、世界人という意識を脱却して中国人という枠組みに意味を見出すためには外国の横暴と、ほぼ100年の期間が必要だった、ということなのだろう。
中国人という概念はつまり外国人という他者、それも暴威に満ちた外国人が存在して初めて存在出来るのである。
ゲッペルスが言った、「憎むとはなんと素晴らしいことか」という言葉について、私たちは世界のひとつの現実として、それを唾棄するだけでなく、立ち止まって熟考すべきなのかも知れない。

江沢民体制以後、中国政府ならびに中国の世論の対日感情の悪化は甚だしくなっている。愛国心という言葉で正当化されると、西安日本人留学生事件の時に中国当局が見せた余りにもイリーガルな姿勢も正当化されてしまう。
この傾向を決して過小評価してはならない。日本を敵と見なすことによって、中国という塊がまとまりを見せることが出来るならば、彼らとしてもそれ以外の選択肢はないわけであるし、これが一指導者の交代や、希望的観測によって変化することはあり得ないからである。
もちろん、日本としては中国とは戦争はしないというのが最終的には最合理の判断になるわけだが、現在のコントロールされた反日が、コントロールのきかない反日に転化する危険性を考慮しないわけにはいかない。
中国としては日本が地位を上げていくことにことごとく反対するのが優先的な国益となるであろうし、我々がそれに唯々諾々と従うわけにも行かない以上、必ず摩擦は生じる。
日中の外交関係はこのように非常に厄介な、問題を多くはらんだものなのであって、中国を敵視したり、逆に盲信するのは「見たいものしか見ない」あらわれであるように思える。



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20040406

一人っ子政策のつけ

外務省ホームページによると、中華人民共和国の人口は2000年現在で12億6583万人である。
戸籍のない“黒子”と呼ばれる人たちが相当いると考えられるから、推計で14億程度は存在していると思われる。
中国の人口は近世以前がおおよそ5千万人から1億人、19世紀中頃に4億人を越えている。
環境に大きく負荷をかけない、自然人口は4億人程度とこのことから考えられるが、毛沢東が人口増加政策をとったことから、中華人民共和国は、「大躍進運動」「文化大革命」というふたつの大きな人口減を経験してなお、人口は大幅に上昇した。
今から30年前ほどには中国の人口は8億人と言われていたものである。もうすぐ、その倍になろうとしている。
これは人類にとって災厄であり、悪夢であるが、まず中国人自身にとって災厄である。
ケ小平が強権的に採用した人口抑制政策、「一人っ子政策」は“非人道的”であるのは確かだが、人類の未来のためには絶対に必要な政策でもある。
これを採用しなければ、中国は人口圧力によって圧死することは明白だったのだが、とは言え、それがまたそれに伴う問題を引き起こしているのも事実である。
ひとつは急速な高齢化社会を迎えるということ。
中国の高度経済成長のインフラがおそらくはこの半世紀ほどしか持たないと予測される最大の根拠がここにある。若者の価値は相対的に大きくなっていくと思われるので、貴重な若者を消費する戦争へと中国は踏み切れなくなるだろう。
えてして、日本の対中国外交は弱腰だと批判されるが、日本は今、人口動態的に下り坂であり、中国は上り坂にある。この不利な状況の時に、真っ向からぶつかるのは得策ではないという判断はあってもいい。
半世紀をなんとかやり過ごして、全面的な日中対決を避ける、というのは日本の外務省の判断としては、理がある。
人口ピラミッドが底辺が広く、国民の平均年齢が若ければ若いほど、その国の外交政策はアグレッシヴになりやすい。
19世紀初頭には欧州大陸を制覇したフランスが、その後、ドイツの脅威に晒され続けたのは、基本的には人口が安定化した、もしくは減少したからであって、ドイツに比較してフランスが「全面戦争が出来ない国」になっていたからである。そこのところを見極めずに、外交的冒険を繰り返したナポレオン3世は外交上非難されてしかるべきであり、ドイツがしばしば強硬的な姿勢に立てたのは、戦争が出来る国内体制があったからである。
その例にならって言うならば、現在の日本は「戦争が出来ない国」であり、中国は「出来る国」である。
従って、最合理の対中国政策は、「戦争を引き起こさない」ことにプライオリティが置かれるべきであり、なおかつ中国を同じく「戦争が出来ない国」になるよう促すことである。
中国の一人っ子政策は、基本的には日本の国益にも合致することであり、たとえそれによって多くの非人道的な現象が生じようとも、日本はこれを非難すべきではない。
ただし、この政策によって、中国が部分的に過激化する要素はある。
BBC NEWS が急増する中国の独身男性が中国社会を不安定化させるおそれについて言及している。
結婚できない男性の問題は諸々の社会問題を激化させる恐れがある。これ自体はこれといった解決策はないのが現状だが、セックスをめぐる問題について、中国人男性の考えが、先鋭化していくだろうということは予想しておくべきだろう。
出来れば、日本人男性と中国人女性の結婚などは避けて欲しいものだが(その逆の組み合わせは問題なし)、そこは当人同士の問題なのでどうにもならない。ただし、カネを背景にした中国での買春行為などは絶対に慎むべきだ。起きた行為以上に激しく憎悪を刺激する恐れがあるからである。
この点、日本人は充分に注意しておく必要がある。



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20040402

日本は核保有国になるべきか?

これについての私の考えは NO である。少なくとも、現在のところは、としておくけれども。
核兵器をどのような性格の兵器と定義するかによって、かなり思考が違ってくるのだが、“破壊力が強すぎて、実際には兵器としては用いるべきではないが、抑止力にはなる兵器”と考えてみる。
核兵器戦略については、核抑止力について語ることが多いのだから、この定義は実情からそう外れてはいないだろう。
そしてそのような性格を持つ核兵器を日本が持つべきか否かという問いかけだが、これに対して、私は NO と返答したい。
この場合、日本の仮想敵国として、北朝鮮、中華人民共和国を想定していることを先に述べておく。
核抑止力が成立するためにはいくつかの条件が必要になる。
まず、第一の前提として、“核戦争を引き起こしたくない”という欲求が双方になければならない。キューバ危機において、世界は実際に核戦争寸前にまで行ったのだが、そもそも危機がそこまで悪化したのは、この欲求が双方にあるか否か、米ソ双方に確信がなかったからである。
「相手は本当に核戦争を始めるかも知れない」という懸念が危機のエスカレーションを生じさせたと言える。キューバ危機はどちらの陣営にとっても非常に危険な賭けだったが、それを経験したことによって、少なくとも相手は自滅的にはならない最低限度の理性を所有していると米ソに知らしめ、後の緊張緩和への礎がそれによって築かれたのである。
核抑止力が機能するためには、相手が自分の最終的な損得を判断できる“きちんとしたエゴイスト”である必要がある。
イデオロギーや宗教が絡んだ場合、エゴイズムによって損得勘定する能力が大幅に阻害されるので、そうした狂信者に対しては、核抑止力が機能しないか、少なくとも機能しにくくなる。
拉致というどう考えても長期的には不利益にしかならない行動に踏み切った北朝鮮に対して、究極の理性の構築物である核抑止力が通用するとは、なかなか思えない。
第二の前提として、核戦争による不利益が、瀬戸際外交を進めた場合の利益よりもはるかに大きくないと、核抑止力は生じない。もともと大して所有していない者にとって、それをすべて失ったとしても、大した損失ではないのだ。
日本やアメリカという大国が、北朝鮮という芥子粒ほどの弱小国にかくも振り回されている理由はここにある。
もちろん、我々がいくらかでも損失を覚悟して、戦端を開くことを覚悟したならば、万が一にでも日米同盟が北朝鮮に敗れるはずがない。しかしその損失を甘受するには、それは余りにも貴重であるし、北朝鮮を屈服させたとしても引き合わない。
中国について言えば、現在の発展した中国に対してならば、この意味における核抑止力は通じるだろう。ただし、核抑止力そのものはアメリカの核という形で既にある。日本が中国に対して経済援助をしたのは、中国の北朝鮮化を防ぎ、中国政府が戦争に踏み切るコストを大きくさせるという安全保障上の意味もあったと私は見ている。
これとても、ゼロサムゲーム的なチキンレースが生じたならば、中国の方がはるかに有利である。
何故ならば、仮に1億人互いに死ねば、日本人は殆ど全滅なのに対して、中国はなおも12億人いるからである。また、中国人の“価値”が飛躍的に高まりつつあるとは言え、共産体制にある中国においてはなおも人民のコストは日米に比較すれば圧倒的に安い。
人民消耗耐性率がお話にならないほどかけ離れているのだ。
天安門事件の時、ケ小平がコメントしたように「中国では100万人や200万人が死んだところでへっちゃら」なのである。
中国に対して、核抑止力そのものは働くが、それは日本に対してより強く働くのである。核抑止力戦略を根幹に据えるのはこの意味でも得策ではない。

もし日本が本気で核武装を望めば、それをとどめることが出来る国はない。世界第2位の経済大国に対して、経済制裁を加えられる国も存在しない。日本が崩壊すれば少なくとも経済的にはいずれの国も大打撃を被るのだ。
しかしだからといって、日本がそれをすれば、それを押しとどめることが出来ないがゆえに、IAEA体制は崩壊する。そうなれば核拡散が一気に現実化するだろう。
それは世界の流動化と不安定化を招き、貿易立国日本にとっては、決して望ましくない現象である。
この国は、世界が平和で安定的であればこそ利益を享受できるのだから。



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20040401

正義と奴隷と保険と

明白に正当な報復でない限り、残虐な行為を可能な限り最大限避けたほうがいいというのは、何も道徳心のみが支持する考えではない。
南京大虐殺や、731部隊の所業のために現在の日本人がどれほどの歴史的負荷を負うているかを考えれば、それが政治的・経済的合理に合致する考えであることは明白になる。
ノーム・チョムスキーは日本の南京大虐殺を非難する。もちろん、それは非難されてしかるべき行為である。しかし彼が、それに関する補償について言及する場合、私たちはまた別の問題を彼に突きつけることも出来る。
虐殺と強奪によって成立したアメリカ合衆国において、その侵略者たる白人の子孫であるということ、そのものが悪の証明ではないのか?と。少なくとも、今現在、日本軍が南京に存在しているわけではない。
しかし侵略者たるアメリカ白人は今もなお、アメリカに存在しているのではないか?
彼らはいかなる補償をなしてきたのだろうか。そもそもそれは補償できるような問題なのか。問題をもしクリアに解決しようとすれば、本来は原状回復してこそ、それがなされたと言うべきだが、では祖先の罪を償うために、チョムスキーにこの世界から消滅する覚悟があるのだろうか。
欧米の白人社会が、敗戦以来、日本が突きつけられている歴史的原罪の問題に直面せずにいるのは、単に彼らがマジョリティということに由来する。そのマジョリティさは、問題そのものを意識せずに済むほど、強固な支配力を誇っている。問題意識がないところには問題は存在しない。
しかし、問題意識は作り出すことが出来る。
ヨーロッパの犯罪について、マイノリティが問題を訴えたはじめた時、どれほどのカオスが引き起こされるだろうか。旧植民地諸国がそれを言い出したところで、宗主国は政治的・経済的圧力とともに無視することが出来る。
しかしそれぞれの国内において、黒人やヒスパニック、あるいはアラブ系の人たちがそうした声を上げたならば、これを無視することは難しい。事実として虐殺があり、収奪があったのだから、もし、今現在の政府がそれを悪だと見なすならば、歴史的事実は避けては通れない。
英国人もいつまでも「俺たちは海賊の子孫だぞ、ヤッホー」とパブで気炎を上げるわけにはいかないだろう。海賊の子孫であることを誇るならば、他人から同様の行為をなされたとしても少なくとも道義的には非難する資格がないはずである。
BBC NEWS では、アメリカ黒人奴隷の子孫たちが、奴隷貿易への関与を巡ってロイズを訴えたと伝えている。
アメリカの保険会社エトナはすでに、奴隷貿易への関与について謝罪しているが、補償にまでは到っていない。アメリカの裁判所は今のところ、「現在の奴隷の子孫が、奴隷当人の“痛み”を継承しない」との見解に立っているが、例えば補償請求権を資産と見なした場合、それを子孫が継承するというのは合理的な判断である。一方で白人たちはいつまでも負の遺産を継承し続ける。
ロイズを訴えた原告団は、DNA鑑定によって奴隷と自分たちとの血縁関係を証明できると主張している。
第2次世界大戦において、ユダヤ人が受けた痛みについて、ドイツやスイスは補償している。ならば、やはり同じような痛みを受けたアメリカ黒人が補償を受けられないという論理にはならない。
チョムスキーには当然、その補償のために私財を投げ打つ用意があるのだろう。



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20040321

政治的資産としてのホロコースト

ハンブルクと北米の間を結ぶ豪華客船セントルイス号は1939年5月13日、936名の乗客を乗せて、ハンブルク港を出航した。以後、この船はさまよえる船となった。
936名のうち、930名がユダヤ人だった。大西洋を横断して、最初の寄港地ハバナでは、キューバ政府がセントルイス号の寄航を拒否した。ドイツでの迫害を逃れてきた人々を乗せて、セントルイス号はアメリカ合衆国を目指して北上した。
しかしアメリカ合衆国政府はユダヤ人難民の受け入れを拒否、寄航を阻止すべく沿岸警備隊の巡視艇をセントルイス号に張り付かせた。
数ヶ月に及ぶ問答があった後、セントルイス号はむなしく大西洋を東へと戻った。結局、この時のユダヤ人難民は、英国、オランダ、フランスが振り分けて受け入れることになったが、まもなくそれらの諸国はドイツのくびきにつながれることになり、この時のユダヤ人、930名のうち、第2次世界大戦後までの生存が確認出来ているのは英国が受け入れた288名のみである。
こうした例に見られるように、第2次世界大戦以前においてはアメリカは積極的にユダヤ人救済に乗り出したとは言い難い。
ナチスも当初より、ユダヤ人の絶滅を意図していたのではなく、少なくとも最初のうちは、ユダヤ人をドイツから追放することを模索していた。アメリカ合衆国や英国、英国が統治していたパレスチナへの送り出しを政策として進めていた。そのため、パレスチナにユダヤ人国家を作ろうというシオニズムとは、実はある時期まで協力関係にあって、こうした算段がアメリカや英国の拒絶のために挫折した結果、ヴァンゼー会議においていわゆる「最終的解決策」が決定されたのである。
アメリカ合衆国のメディアにおいてユダヤ資本が大きな影響力を持ち出すのは、第2次世界大戦中、あるいはそれ以後のことであって、ユダヤ系市民も政治的に組織されてはいなかった。
戦前のアメリカにおいてジャーナリズムの主流は新聞だったが、これはハースト系、ピューリッツァー系のいわゆる大衆紙が主流であり、The New York Times にしたところで、ただの地方紙に過ぎなかった。
アメリカ人が真面目なジャーナリズムを欲するようになったのは、第2次世界大戦という大きな事件を経験するのを待たなければならなかった。
ユダヤ人は相対的に非力だった。
こうした非力な状況が結果としてホロコーストを許すことになったとして、戦後、ユダヤ人たちは団結し、強力な影響力を構築していった。ホロコーストは彼らが結束する最大の動機となったが、同時にそれは、彼らが運動を進めるにあたって、最大限に利用すべき資産となった。
反ユダヤ主義、ユダヤ系のある部分に対する批判、イスラエルに対する批判、ナチズム、これらは本来はイコールで結ばれるはずもない。しかしホロコーストという脅迫材料によって、ネオナチ、反ユダヤ主義者とレッテルを貼り、いかなる批判もユダヤ人たちは封じ込めてきた。
そうするだけの正当な理由があった場合もあるだろう。しかしそうではない場合もあったのだが、そうした場合においてさえ、やはり反ユダヤ主義者と罵倒されることが多かったのである。
Google で“bush anti-semitism”で検索すると13万件もヒットする。
この不合理な状況が、イスラエルの暴走を許し、結果として世界をこれだけの不安定な状況に追い込んでいるのである。比較的ユダヤ系の締め付けの弱い欧州では、このところイスラエルを非難する言説が増えてきているが、それは従来の右翼からのものではなく、かつてはユダヤ人に対して同情的だったリベラル派からなされていることが多い。これは危険な兆候である。
石を放り投げればやがては地面に落ちる。これは単なる物理的な現象であって、正義、不正義とは関係がない。ホロコーストを利用して自らの横暴な行為を正当化すれば、それに対する反発も当然強まる。究極的には「これほど横暴なユダヤ人なのだから、それを絶滅させようとしたヒトラーは正しかった」という意見さえ出てきかねない。
実際、アラブ人のかなりの部分がそう考えている。

菜食主義者たちのアニマルライト運動を訴える人たちが、養鶏場の状況をナチスの強制収用所にみたてた展示を行い、これをドイツ・ユダヤ人中央評議会が「ユダヤ人の尊厳を傷つけるもの」としてこの展示を非難した(BBC NEWS)。
この行動自体が妥当かどうかは論評を差し控えるが、ユダヤ人の過剰な反応と見られる可能性は否定しきれない。第2次世界大戦から60年が過ぎ、いかに脅迫的に振舞おうとも風化は避けられないし、いずれは風化していくべきなのだ。
ホロコーストの政治利用、あるいは使命、どちらでもいいが、ユダヤ人のこうした振る舞いに対する風当たりは強くなっていくばかりだろう。



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20040319

ブッシュ大統領は2期目で変われるか?

過去の記事を参照してもらえればお分かりいただけるかと思うが、私はブッシュ政権をほとんど評価していない。
共和党は外交の党と言われ、クリントン政権は外交面でいかにも危うく、その前の民主党政権であるカーター政権が外交面では「人権外交」を打ち出し、散々な結果に終わったことを考えあわせて、やはり民主党には外交はウィークポイントなんだなと改めて思ったものだが、ブッシュ政権のぶっとびぶりはそれをも上回る。
かなり異色の共和党政権である。
散々言われたことだが、やはりこれはネオコンのせいだろう。ネオコンはもともと民主党系ということだが、極めてイデオロギー的な「善か悪か」にぶれやすい民主党外交の悪癖がもろに出てしまった。
共和党の従来の外交政策は、伝統的なバランス・オヴ・パワーを主軸にすえたもので、決して善ではないが、安定的、かつ常識的だった。ブッシュ・シニア大統領の外交政策は、基本的にこの従来型の外交戦略にのっとって形成されていて、冷戦後の難しい時期をそれなりに安定的に運営したのである。
しかしブッシュ・ジュニアの外交はそれとはまるっきり違っていて、ブッシュ・ジュニアがもしシニアの息子でなかったならば、おそらくシニアは率先して現大統領を批判したに違いないと思わせる、はちゃめちゃなものである。
イラク戦争にしても、戦闘に勝って、それでおしまいというわけにはなかなかいかない。そうであるならば、1992年にブッシュ・シニア大統領はとっくにバグダットを陥落せしめていただろう。
それをしなかったのは、イラクに必要以上にコミットする危険性を考慮したからであり(フセイン政権を打倒すればどうしたってアメリカが関与しなければなくなる)、それをするだけの国益がなかったからである。
現在、イラク情勢は泥沼化しており、仮に今後、正統政府が樹立したとしても状況はフセイン政権の時と比較してはるかに流動的であり、長期に渡ってアメリカがコミットしていくのは避けられない。
反抗的なイラク国民を統治するという重荷を背負って、膨大な経済的負担を負いながら、しかもイスラム諸国から敵視される。このことにいかなるアメリカの利益があるだろうか。
ネオコンたちは日独の占領統治を引き合いに出して、楽観的な見通しを述べたが、徹底的に破壊され、反抗心を削いでおいた日独とは全然訳が違うのは子供でも分かる。日独は敗戦したとしても、国家的統一性は固有の民族に由来しており、それが揺らぐ懸念はなかったが、イラクの場合はフセイン政権の崩壊=統一イラク国家の崩壊という可能性が否定しきれないでいる。もしイラク国家そのものの解体が起きた時、この地域で起きるであろうカオスはどれほどの予測不能な悲劇を生み出すことだろうか。
そういう意味では、今回のイラク戦争は余りにも早くかたがつきすぎた。数百万単位の戦死者を出させて、イラク人が精も根も尽き果てた状態になってから占領統治するならばともかく、現状はそういう状態とは程遠い。
もし、そのような徹底した被害をイラク国民に与えていたならば、占領統治はよほどやりやすかっただろうが、それをしていればアメリカはそれこそイスラム諸国全体を敵に回すことになり、その場合の損失は決して無視できるものではなかっただろう。
勝ちすぎても駄目、ようやく勝っても駄目、もちろん負けるのは絶対に駄目、そういう矛盾をこの戦争はあらかじめ含んでいたのである。
そんなことがネオコンに分からなかったとは思えない。彼らも国際政治を学んだプロフェッショナルであり、政治にも歴史にもそれなりに通じているはずだから。
にもかかわらず、彼らはアメリカの国益をも損なうような行動に出た。なぜか。
石油利権を云々する声もあるが、そんなのは小さいことである。石油は重要な戦略物資だが、産油国も売らなければ生きてはいけないのである。石油メジャーは次第に天然ガスへとシフトしていこうとしており、パイプラインをイスラム諸国に着々と敷設している。イスラム教徒を敵に回して、彼らとしては百害あって一利もないのである。
アメリカの国益にも適わない、石油資本の利益にもならないとすれば、ネオコンを突き動かした動機は何であるかと考えると、やはりイスラエルではないだろうか。
中東和平の挫折、アメリカのイスラエル保守派への肩入れを考えると、そんなところではないだろうか。
アメリカの国益とイスラエルの国益には乖離がある。イスラエルはアメリカの重要な同盟国で、中東における橋頭堡だというが、冷静に考えて、イスラエルが存在することによってアメリカが今まで何の得をしただろうか。
「強硬なイスラエル」はパレスチナ人にとって邪悪な存在であるだけではなく、世界の不安定要因でしかない。この異常な現実を改善しようとしたのが、ほかならぬブッシュ・シニア政権だった。
湾岸戦争で獲得した90%を越える支持率をテコにして、歴代の政権が出来なかったユダヤメディアを向うに回してイスラエルの首に鈴をつけようとしたのである。そうした発想は、アメリカの本来の保守本流であるブッシュ・シニアにして可能だった。
しかし90%を越える支持率を過信しすぎて、メディアを敵に回し、結果としてブッシュ・シニアはまさかの落選の憂き目をみた。後知恵だが、ブッシュ・シニアは2期目でそれをやるべきだったのである。
ブッシュ・ジュニアはこの父親の挫折体験に過剰に反応し、ユダヤ=イスラエルに接近した。しかし彼が確かに、ブッシュ・シニアの息子であるならば、2期目にはイスラエルに対して思い切った政策を採る可能性がある。ブッシュが再選されたとして、希望があるとしたら、そこだろう(もちろん変わらない可能性の方が依然として大きいが)。
この「危険性」そのものは、ユダヤ勢力も認識しているだろう。これまで彼らの思い通りに動いてくれたブッシュ大統領とは言え、2期目(憲法上、再再選はない)を迎えて豹変する恐れがあることを。
ケリー株がこのところ上がってきている背景には案外そうした「牽制」があるのかも知れない。



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20040318

フランスは神を避ける

2月10日、フランスの学校において宗教的シンボルを締め出す法律が成立した。
この宗教的シンボルに相当するものとして、女性イスラム教徒のスカーフ、ユダヤ教徒のキッパ(縁なし帽子)、キリスト教徒の十字架などが挙げられているが、実際には、ユダヤ教徒とキリスト教徒が宗教的シンボルを学校に身につけてくることはほとんどないので、「イスラムを狙い撃ちにしたものだ」と、フランス国内のイスラム教徒の間、およびイスラム圏で反発が強まっている。
1989年、とある公立中学校がスカーフの着用を譲らなかったイスラム女生徒を停学処分として以来、この問題は侃々諤々の論争を巻き起こしてきたが、今回、フランス国家として法という形で一応の基準を示したわけである。
この問題が発生した時、ミッテラン大統領夫人(当時)が「スカーフくらい目くじら立てなくていいんじゃないの?」と発言したことから、信教の自由と、ドレスコードのありかた、政教分離をめぐって、たかだかスカーフ一枚のこととは言いながらフランス共和国のありようを揺るがす問題として、論争が激化してきた。
フランスは「カトリック教会の長女」といわれながら、宗教改革の時代には新教徒とカトリックが激しく対立し、血なまぐさい抗争を繰り返した歴史を持っている。
ブルボン王朝の祖アンリ4世はもともと新教徒だったが、ヴァロア王朝の断絶に伴い、フランス王に即位するにあたってカトリックに改宗、更に各人の信教の自由を認めた「ナントの勅令」を発して、宗教戦争に終止符を打った。
しかしその87年後、絶対王権を過信したルイ14世によって「ナントの勅令」は廃止され、フランスの新教徒たちはオランダやプロイセンに移住した。新教徒たちは産業資本家が多かったので、彼らを追放したことによってフランスの産業革命は英国のそれよりも大幅に遅れることになったと言われている。
カトリック教会は既得権益集団と化し、フランスの民衆から富を吸い上げ、しばしば国政をも壟断した。
フランス革命によって成立した国民議会はこうした弊害を取り除くべく、フランスのカトリック教会の僧侶たちをヴァチカンから独立させ、国家直属の宗教担当公務員とした。
更にジャコバン派が権力を獲得するに及んで、フランス共和国は宗教を否定し、徹底した政教分離を国是となした。
この基本方針そのものは現在の第5共和国においても継続している。
アメリカ大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓し、しばしば神について言及するが、フランスでは考えられない光景である。
「他宗教の信者、それどころか悪魔信仰の信者の立場はどうなるのだ」
と、フランス人は考える。信仰の自由とは、法に反さぬ限り悪魔信仰でさえも容認されてしかるべきで(ただしカルト扱いはするが)、それゆえに国家の機関と宗教は一切交差してはならぬのだ、とフランス人は考える。
公教育は共和国の土台であり、そうであればこそスカーフ一枚のこととは言え、適当に黙認することが出来ないのだ。
この姿勢そのものは近代国家としてしごくもっともなことだと思う。この件においては、私は断固としてフランス政府を支持する。
しかし近代的、進歩的であるからこそ、イスラム教徒から憎しみを買うとは、なんとも皮肉なことだ。
BBC NEWS から。フランスにおいてムスリムは少数派であり、弱者である。
しかし弱者であることがそのまま「正義」であるとは限らない一例がここにある。実際上はともかく少なくとも表面的にはフランスは価値相対主義を標榜してきており、それがイスラム諸国などとの外交関係強化へとウィングを伸ばす前提になってきた。しかしイスラム自身は決して価値相対主義ではない。
神の名における絶対性を志向する宗教なのだ。フランスが今回陥った落とし穴は、相互理解の限界を図らずも露呈させた。



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20040309

チャーミングな民主党大統領候補

アメリカは2大政党制と言うが、1860年の大統領選挙で共和党が結成されて以後、1932年までの72年間の間に、民主党がホワイトハウスを支配したのは16年しかない。全体の約8割の期間は共和党が与党であり続けたのである。
民主党は議会や地方政治で多数党、あるいは与党であることも多かったから、一概に万年野党呼ばわりしてその影響力を過小評価することは出来ないが、少なくとも、大統領職から長年、排除され続けてきたのは結果的事実である。
そういう意味では、1932年までアメリカは2大政党制と言うよりは1・5大政党制だったと言うべきで、民主党がかろうじて獲得した4期16年にしても、民主党が勝ったと言うよりは共和党が負けたというべき政治的状況があった。
1884年と、一期おいて1892年の大統領選挙を制したグローヴァー・クリーヴランドの場合は、グラント以後の4代の大統領たちが産業資本家と結託し、腐敗しきっていたことへの批判が高まったことが勝利の最大の要因だった(南北戦争以後の共和党の腐敗と経済の発展期を the Gilded Age“金ぴか時代”と呼ぶ)。
1912年の大統領選挙を民主党のウッドロウ・ウィルソンが制したのは、共和党が現大統領のタフト派と前大統領のルーズヴェルト派に分裂したためであり、完全に漁夫の利である。
1932年の大統領選挙で、フランクリン・D・ルーズヴェルトが当選出来たのも、当初は共和党のフーヴァー大統領がおりからの大恐慌に余りにも無策だったため、その批判票を結集したからだったが、ルーズヴェルトはニューディール政策を掲げて、民主党にとっては強固な支持基盤となる、弱者連合とも言うべき「ニューディール連合」を築くことに成功した。
1932年を境にして民主党は大きく躍進を遂げ、以後、5期20年連続して民主党はホワイトハウスに君臨することになる。アメリカの政治状況を2大政党制と呼ぶならば、それは少なくとも1932年以後のことでなければならない。
戦後、1948年以後の大統領選挙を見れば次のようになる(先に記した方が勝者)。
1948 民主党トルーマン 共和党デューイ
1952 共和党アイゼンハワー 民主党スティーヴンソン
1956 共和党アイゼンハワー 民主党スティーヴンソン
1960 民主党ケネディ 共和党ニクソン
1964 民主党ジョンソン 共和党ゴールドウォーター
1968 共和党ニクソン 民主党ハンフリー
1972 共和党ニクソン 民主党マクガヴァン
1976 民主党カーター 共和党フォード
1980 共和党レーガン 民主党カーター
1984 共和党レーガン 民主党モンデール
1988 共和党ブッシュ・シニア 民主党デュカキス
1992 民主党クリントン 共和党ブッシュ・シニア
1996 民主党クリントン 共和党ドール
2000 共和党ブッシュ・ジュニア 民主党ゴア
と言う結果であり、14戦中、共和党が8勝していて優勢である。とは言え、6回は民主党が勝っているので、1932年以前からすれば勝率はかなり上がってきている。そうは言っても、1968年以後に限定すれば9回のうち、6回は共和党がとっているので、共和党は「与党癖」が強く、民主党は「野党癖」が強い傾向にあるとは言えるだろう。
そのため、共和党は順当に体制内でキャリアを固めていく人物が大統領候補になる例が多く、民主党は逆に、一発逆転的なカリスマ性が強い人物が大統領候補に選出されるケースが多い。
民主党の大統領に、チャーミングな人物が多いのもそのあたりが理由だろう。1996年の共和党のドール候補などは、気の毒なほどカリスマ性がない人物だった。党内政治、あるいは党内事情の結果、ああいう人物がキャリアを積み重ねてのしあがってくるところが共和党の手堅さでもあり、また、面白みにかけるところだ。
そういう共和党の歴代大統領の中で例外的にカリスマ性があった人物として、レーガンが挙げられる。彼もまた、保守本流からはずれたところから「ぽっと」出てきたのだが、従来的な保守本流の定義からは大きく外れるブッシュ現大統領が、自らをレーガンに重ね合わせようとしているのもそういう意味では不思議はないのだろう。
ただし、レーガンとブッシュ・ジュニアでは「役者」としての器量がまるで違うが。



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